大阪シルバーバーチの会 亀水忠茂

過去の寸感 平成24年〜平成30年

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(平成30年12月)

“信念”(信仰)(2018年11月29日)(苦しみ・試練)


今、悩み・不安・困難・苦悩そして心配をされている方に向けて、シルバーバーチは霊的摂理の観点からどのように語っているのでしょうか。
霊訓を引用しながら、順を追っていっしょに考えてみましょう。


Ⅰ.困難は人生の目的である霊性の向上にとって必須の触媒です

“さんさんと太陽がふりそそぎ、すべてが平穏で問題が何一つ生じないような生活の中では霊的進化は得られません。困難に遭遇し、それを克服した時にはじめて霊性が向上するのです” (古代霊シルバーバーチ 最後の啓示 P153 ハート出版)
                                                     
問題が生じるのは当然の成り行きです。地上は困難と挫折と障害と逆境に遭遇させられる場所なのです。地上生活のそもそもの目的は、伸び行く魂が、危機においてはじめて呼び覚まされる潜在的資質(霊性心・霊力)を発現するために、さまざまな事態に遭遇することにあるのです。そうした問題を克服しないかぎり霊性の向上は望めません” 
(シルバーバーチの霊訓 十巻 P150)


Ⅱ.背負えないほどの荷(試練・困難)は負わされません
いかなる事態(試練・困難)も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。
背負いきれないほどの荷はけっして負わされません” (九巻 P210)

実は克服できないほど大きな問題は決して背負わされないのです。忍耐強く導きを祈り求めることです。時が熟せば必ずドアが開かれ、道が示されます。私はそのことを同志の方にはいつもこう申し上げております。――閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません、と”  (十巻 P150)

Ⅲ.見放されることは絶対にありません
背後には霊団が控えていて、困難に遭遇したときには元気づけ、疲れたときには希望と力を与え、落胆しているときには魂を鼓舞してくれます。見放されることは絶対にありません” 
(シルバーバーチの教え 下巻 P96 スピリチュアリズム普及会発行)


あなた方の進むべき道は、霊界からあなた方を愛している大勢の霊が必ず示してくれます (中略) 私たち霊界の者は、私たちの道具として協力してくださる地上の人々を見捨てるようなことは決していたしません” (十巻 P29)


Ⅳ.明日を思い煩ってはなりません
“時おり私は地上の同志のもとを訪ねてみることがありますが、霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。
霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。
地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器───非常事態や危機に際して活用できる霊的資質(霊性心・霊力)が宿されているのです。その潜在力(霊性心・霊力)を呼び起こし、待機している霊(守護霊・指導霊)に訴えれば、解決できない問題は何一つありません” (十巻 P23)


“向上とは不完全さを洗い落し、完全(神)へ向けて絶え間なく努力して成長していくことです。それには今日一日を大切に生きるということだけでよいのです。
毎朝の訪れを性格形成のための無限の可能性を告げるものとして迎えることです。それが(霊的)自我を開発させ、人生に目的性をもたせることになります。残念ながら今の地上のあまりに大勢の人たちが人生に対する目的意識(霊的成長)を忘れております。
神の心(霊的摂理・霊的約束)をわが心(自身の指針)とするように心掛けることです。
霊力(神・摂理)と一体(わが心とする)となるように心掛けることです。
皆さんの一人一人が神の愛の御手が触れるのを感じ取り、常に守られていることを知り、明日が何をもたらすかを恐れないようにならないといけません。
そして人のために自分を役立てる機会をいただいたことを喜ぶことです” (十巻 P34)


Ⅴ.結論・・・精一杯努力したあとは、背後霊に任せることです
“ただし、“条件が整えば”ということを忘れないでください。何度も申し上げてきましたように、その条件は霊界側の条件のことです。霊界側のタイミングで、霊界側の方法で働きかけます。人間側の都合に合わせて行うのではありません。
私たちは、あなた方より広い視野で見ております。人間の視野は、きわめて限られております。ですから背後霊に任せることです。万事うまくいきます。一時的には不運を忍ばねばならないことが、あるかも知れません。しかし最終的には必ずうまく収まります
(シルバーバーチの新たなる啓示  P105 ハート出版)


【解説】
すべてが平穏で問題が何一つ生じていないようなときに、“神を信じます”、“私はスピリチュアリストです”ということは容易なことです。問題となるのは本当に大きく解決困難な試練に揺さぶられるときです。
対人関係など、相手のある心配事はああでもないこうでもないと堂々巡りし、迷路に迷い込むのが関の山で、気苦労はエンドレスでつきないものです。これでは不安や悩み、心配事に気の力(霊力)が吸い取られ消耗してしまい、活力(生命力・霊力)が出てこなくなります。その霊力が物的身体に生気を与えているからです。
そんな時、いつも思うのは、今まで何度も何度も繰り返しいくら霊訓を読んでいても、ああそうなんだと感動するのは読んでいる本の上だけで、一旦、拝金・物質中心社会の日常生活に戻ると、それまで学んだ霊訓の言葉をすっかり忘れて心が右往左往している自分がいます。
なぜ霊訓で語られている霊的摂理や特に霊界からの約束などの霊的知識が、心に一切残っていないのでしょうか? また、人間関係の諸問題やさまざまなイヤな体験に心が捕らわれ、その都度、直ちにいつもの自分(仮我)に戻って世間一般のものごとの捉え方・考え方をしているのは、一体なぜなのでしょうか・・・
それは、霊訓の中で語られている内容が、この地上世界での考え方とは真逆であり、空をつかむような話というか夢物語のようで、にわかには信じ難く現実離れしている絵空事のようで、とてもとてもリアルな目の前の現象の世界や相手に目がくらんで、きっと霊的知識は無意識のうちに右から左に流され、普段から記憶にすら残っていないからだろうと思われます。
霊的摂理を自らの行動規範(摂理との一体化)として常に意識し、霊的約束を信じてそのとおりに実行するということは、直面する問題が大きければ大きい程、“清水の舞台”から飛び降りるほどの覚悟や勇気が必要となります。当然です、それはとてもリアルで過酷な現実の姿を目の前にして恐れおののき、にわかには信じがたい見えない世界や霊界人からの約束ごとはどこかに吹っ飛んで行ってしまうからです。しかしながら一方で、八方ふさがりで奇跡でも起こらない限り、この世には救いの道はないと出口の見えない暗闇の恐ろしさを感じていることも事実なのです。


我々はシルバーバーチの霊訓をとおして霊的摂理を学び、その摂理の実行に努めようとしている者ですが、前記したように宇宙の摂理に精通した霊界の高級霊 シルバーバーチから摂理としてこれほどまで明確で確信に満ちた我々に対する霊的約束の言葉は、他に類はなく聞いたこともありません。その約束の担保(保証・裏づけ)となるのは、永遠不変の摂理(宇宙の法則)そのものなのです。
もしも霊界が目にはみえない精妙な波動の世界というだけであって実在する世界であり、霊界の背後霊に、約束を信じてわが身も含め全て一任することが本当にできたなら、どれだけ心の重荷が取れることでしょうか。


この地上世界に出生し、今生の目的である霊的成長を果たすために避けては通れないさまざまな試練や困難、障害などの苦難に遭遇するたびに、神の心(霊的摂理)や霊界からの約束をわが心(困難に直面したときの行動指針)とするのか、物質界を覆っているこれまでの弱肉強食の拝金・唯物中心主義的な捉え方のほうをとるのかの選択が必ず求められます。
世間一般常識とは真逆のこれら霊的約束の方を実行に移すには、何といっても霊的摂理を“信じる”(信念・信仰)ということが大前提となり、それには当然大きな勇気と意志の力が必要となります。信じてじっと耐え、いつ来るか分からない霊界からの“導き”の時が来るのを待ち続けなければならないからです。
真我に目覚めて霊的知識があり、その正しさや実在を理解した我々は、“すべては神によって良きに計らわれる”(シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来 P67 スピリチュアリズム普及会 & 十巻 三章 P39)という霊的約束を信じて“背後霊に一任”し、“今日一日を精一杯生き”、霊訓をとおして霊界からの慰めと希望と力を得て“光の中”で生きるようにいたしましょう。そしてまた、霊訓で述べられている次のような心境になるように努めましょう。


“・・・・。そういう疑問は、世俗的な表面と霊的な内面との違いが理解できていないことから生じます。日常生活では葛藤と困難と闘争に明け暮れていながら、内面的には平安と安らぎの中に安住することができます。俗世では疾風怒涛の中にあっても、霊的な悟りは平静そのものであり得るのです。
安らぎは内面から出てくるものです。外部からやってくるものではありません。地上の人間が物的身体の奥に秘められた霊的な自我を開発(霊的成長)しさえすれば、泉のごとく霊力が湧いて出て、静寂、沈着、平穏、安らぎといったものがもたらされます
これまでに多くの偉大なる霊が地上へ降誕し、さまざまな分野で先駆的な仕事と改革をもたらしましたが、みな、過酷な現実の中で悪戦苦闘しながらも、霊的な自我は静かな悟りの世界にありました。物的な有為転変と霊的原理(摂理)とを同等に見てはいけません。霊が主人であり、物質は従者です。つねに霊が主導権を握るようでなくてはいけません(霊主肉従)
(シルバーバーチの新たなる啓示 P129 ハート出版)


“人生の永遠の基盤である霊的法則(霊的摂理)を忘れることなく、それ(摂理)に調和する生き方を心掛けましょう。魂の奥の静寂とのどかさ、平安、落ち着きといったものを忘れないようにする方法は、それしかないのです自分という存在の奥に潜む、より大きな側面(本当の自分・真我の心)と一体となるということです”(シルバーバーチの新たなる啓示 P141 ハート出版)


何度も繰り返しますが、これにはどうしても神の心をわが心とする、すなわち“霊的約束を信じる”という大きな勇気と信仰が必要となります。が、信じる程度に比例して霊力が流入し、とても気分が楽になります。不安でコロコロと移り変わる自らの考えよりも、摂理(宇宙の法則)を裏づけとしたこの霊的約束の方を信じて選ぶという“意志の力”が、とりもなおさず真我の心“霊性を発現(発揮)する”ということであり、霊性の向上という地上生活の目的そのものとなるのです。


“最終的には必ずうまく収まります”という霊界からの霊的約束を信じて、試練・困難には逃げずに正面から迎え撃ち、精一杯のことはした上で、あとは霊界の背後霊に一任して背負っている重荷を下しましょう。この精一杯の努力に関しては、シルバーバーチは次のように語っています。


“いかなる状況のもとでも、あるいはいかなる条件下においても、最善を尽くすということが人間としての大切な務めです。最善を尽くし、もうこれ以上の努力の余地はないと確信できるだけのことをした暁には、大霊に向かって援助を求める資格ができたことになります”
(シルバーバーチの新たなる啓示 P140 ハート出版)


霊界からの“導き”としての印象づけや指示が果たしてどのように来るのか。時期も含めて必ずしも希望どおりの結果になるとは限りませんが、大所高所から観ている霊界人の“導き”が本人にとっては霊的向上への最善の道・結果オーライなのですから、忍耐は絶対に必要ですが霊界に向けてアンテナを伸ばし、ドアが開くのを見逃さないように常に注意を怠らず、その“導き”に従いましょう。


“何度も申し上げておりますように、ドアをそっと押してみて、もし開かなかったら、無理して開けようとなさらないことです。カギのかかったドアをこじ開けようとしてはいけません。が、もしもドアが気持ちよく開いたら、その方向へ行かれることです。機が熟せば、霊の力がひとりでに顕現するものです。
高級霊に秘められた創案と実現の能力は、たぶんあなた方人間の想像力を絶しております。
機が熟し、用意万端が整えば、すべてが納まるところに納まります。盲目的な信仰は愚かですが、霊的知識に基づいて築かれた信仰は、人生哲学と将来への展望を構築する上での確固たる基盤となります
人間は、今置かれている環境条件からいって、全知識と全叡智の所有者となることは不可能です。ですから、これまで導かれてきたように、これからもきっと導かれていくとの信念を持つことです。霊の力が挫折してしまうことはありません。大霊は絶対に挫折しません。すべては定められた摂理に従って顕現し続けます。これまでに啓示していただいたものに感謝し、そして、後のことは辛抱強く待つことです”(シルバーバーチの新たなる啓示 P83 ハート出版)


“霊力というものが、条件が整いさえすればいかに崇高で驚異的なことを成就せしめるかは、ここで改めて申し上げるまでもないでしょう。奇跡的な治癒をもたらし、打ちひしがれた心を奮い立たせ、信じられないほど見事に難問を解決します
(シルバーバーチの新たなる啓示 P146 ハート出版)


“どうしても理解できないことは、これまでに授かった霊的真理を頼りとして“信念”をもつことです。根拠のない手前勝手な信念ではありません。スピリチュアリズムによって明らかになった霊的実在に得心がいき、その理解のもとに、人生のすべてが大霊の愛と叡智によって支配されていて、自分もその中にあるのだということを確信する、そういう信念です。その信念をもつに至れば、自分および自分のまわりに何事が起きようと、それは大霊の思し召しなのだという理解が生まれるはずです。
私は断言します。地上生活で生じるいかなる苦難も、自分の内部および外部の力を動員しても解決できないほど大きなものはありません。その解決のための必死の努力が、霊性を磨き一段と大きく成長させるのです。地上生活の究極の目的はそこにあるのです。難問に遭遇し、それと格闘し、その結果として霊的成長を得るということです。
もしもその信念に迷いが生じた時は、その迷いをいったん鎮め、冷静な精神状態のもとで、それまでにあなたがたどってきた道を振り返り、大切な節目節目にかならず不思議な力が働いてそこまで導かれてきたことを、改めて確認することです。
あなた方は、この地上にあってこうした素晴らしい霊的知識との出会いがあり、それが生涯を通じて導きの光となったということは、大変しあわせなことです。
霊的に見れば、かって地上で愛のつながりのあった人々や、地上的な縁はなくても霊的な親和力によって結ばれている、いわゆる類魂との関係が強化されるということです。
そうした背後霊団が望んでいることは、その協力関係によって他の多くの、無知の闇の中にいる人々を救ってあげることです。私たちがこうして地上へ帰ってきた目的もそこにあります
(シルバーバーチの新たなる啓示 P138 ハート出版)


―2018年の“寸感”の総括―
人間は何のために生まれてくるのだろうか・・・
地上の一人ひとりは、たまたま偶然誕生したのであって、そこには何ら意味や目的はなく、死とともに全ては無に帰すと考えている人々が大半ですが、この事に関してシルバーバーチはどのように語っているのでしょうか。
霊訓に基づいた本年後半の一連の“寸感”が正にそのことを述べているように思われますので、2018年末の総括として、以下に纏めてタイトル名と要旨を列記します。

  1. 地上人生の目的 (2018年11月)・・・地上世界は最低レベルの幼稚園のようなもの
    ● 異なるさまざまな霊性レベルが混在し、比較対照によって学ぶことを目的とする物質界では、自己を表現するために最低レベルの波動にあわせた物的身体が道具として必要となる。そのことが結果的に精妙な波動の“本当の自分”(霊魂)を隠すことになり、物質界特有の相対の世界で公平に霊的成長のスタートが切れるようになる。


    ● この地上人生の目的である霊的成長には次のような段階がある。
    ①物質界で、まずは“本当の自分”(霊魂)を見出す。
    ②次に、その心である神性を開発し、霊的成長をする。
    ③そして、利他の心を養って他界後の霊界にそなえる。


    “そもそもこうして地上に生まれてきたということが、あなたがまだまだ完全ではないことの証拠です。欠点に気づいてそれを正し、過ちを犯してそこから教訓を学び、そうやって少しずつ内部の神性を開発していく、それが地上生活のそもそもの目的です。が、それは長い時間を要することです” (シルバーバーチの新たなる啓示 P112 ハート出版)


  2. 作用と反作用 (2018年10月)・・・では、どうすればその霊的成長ができるのだろうか
    ● 太陽がさんさんと輝き、なに不自由のない生活では霊的成長はできない。
    試練・困難・障害(反作用)は、霊的なもの(作用)が受け入れられる触媒となる。
    ● 作用(霊的成長)と反作用(試練・困難)は、コインの裏表で一体(ペア)のものであり、地上世界で霊的覚醒と霊的成長をするには、この“作用と反作用”の方法しかない。

  3. 信念(信仰) (2018年12月)・・・試練・困難には霊的摂理・霊的約束への信仰で対処
    試練・困難は人生の目的である霊的成長に必須の触媒である。
    ● 霊的摂理(宇宙の法則)を裏づけ(担保)とした“霊界からの約束”とは、
    ① 霊界から見放されることは絶対にありません。
    ② 背負いきれないほどの荷(試練・困難)はけっして負わされません。
    ③ 精一杯の努力のあとは背後霊に任せることです。万事うまく収まります。
    ④ 霊的知識のある者は、明日を思い煩ってはなりません。
     
  4. 自殺 (2018年9月)・・・自殺は試練・困難からの逃避であり摂理違反
    試練・困難(原因)は霊的成長(結果)への必須条件。
    ● 但し、背負いきれないほどの荷(試練・困難)はけっして負わされません。
    ● 人間は死にたくても死ねないので、死ぬことが問題(原因)の解決(結果)には決してならない。
    ● 自殺はこの“原因と結果の法則”(因果律)への干渉行為であり、他界後、摂理違反という結果を自ら刈り取ることになる。

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(平成30年11月)

“地上人生の目的は”(2018年10月25日)(人生の目的


分解して崩壊する束の間の存在でありながら、肉体をまとってまで物質界に出てくる目的は?


また、 “本当の自分”(霊魂)がわざわざ隠されてこの物質世界を歩むことの意味は?


はたまた、なぜ霊性を発達させなければならないのでしょうか?


シルバーバーチの霊訓(十巻)のニ章~三章には、“地上人生の目的は”が六回も繰り返し出てきます。そこで、それを霊的成長のステップ順に纏めますと以下のようになります。


地上人生の目的は

  1.“本当の自分”(霊魂・真我)を見出すこと。
  2.次に、霊性を発現(発揮)し、霊的成長をすること。
  3.そして、他界後の霊界に備えること。


では、この二章と三章から「地上人生の目的」に関する箇所を上記のステップ順に引用列記してみます。


―霊的成長のステップ順―
1.“本当の自分”(霊魂)を見出すこと。
“本当の自分(霊魂・真我)を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。” P36
⇒他界後の世界に備えるためには“本当の自分”(霊魂)に目覚めることが必要で、それがないと霊的知識の学びが進まない。


2.次に、霊性を発現し、霊的成長をすること。

地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。地球という天体上に住む人間の一人一人に生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在(霊魂・真我)に気づいていないのは悲しいことです。” P18


地上世界の特異性は対照的、ないしは両極性にあります。美点と徳性を具えたものと、それらを欠いたものとが同じ地上に存在していることです。これは霊界では有り得ないことです。
各界が同じ性質の霊で構成されていて、対照的なものが存在しません地上生活の目的善悪様々な体験を通じて魂が潜在的霊性を発揮して、強くたくましく成長するチャンスを提供することです。それで悪事があり、罪があり、暴力があるわけです。進化は一直線に進むものではありません。スパイラルを描きながら進みます。表面的には美しく見えても、その底はあまり美しくないものがあります。” P33 ⇒人間には善悪両方の心(コインの裏表)があります。


3.そして、利他心(霊性心)を養い他界後の霊界に備えること。

“宇宙機構の中における地上の人生の目的を認識することによって、各自がその本性(真我・霊性)を身体的に精神的に霊的に発揮(発現)できる道を見出し、かくして、たとえわずかな間とはいえ、この地上での旅によって、これ以後にかならず訪れる次のより大きい生命の世界に備えて、大自然の摂理の意図するままに生きられるように導いていきます。” P13


“そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活(地上生活)のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。
元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素(作用と反作用)なのです。” P21


“理解していただかねばならないのは、人間は肉体を携えた霊であって霊を携えた肉体ではないということです。
物質が存在出来るのは霊による賦活作用があるからであり、その霊は神性の火花として存在のすべて、生命を表現しているあらゆる形態の根源的要素となっているのです。
改めて申し上げるまでもなく、地上へ誕生してくる目的各自の魂の成長と開発と発達を促進するような体験を積み、肉体の死後に待ち受ける次の段階の生活に相応しい進化を遂げることです。
地上は幼稚園であり、霊界は大人の学校です。今この地上においてあなたは(霊的)教訓を正しく身につけ、精神を培い、霊性を鍛えて、神から頂いた才能を心霊治療その他の分野で人のために使用できるまで発達させることを心掛けるべきです。” P40

地上生活の目的は、いよいよ霊界へ旅立つ時が来たときに霊に十分な備えが出来ているように、さまざまな体験を積むことです。まずこの地球へ来るのはそのためです。地上はトレーニングセンターのようなものです。霊が死後の生活に対して十分な支度を整えるための学校です” P41 


“あなた方にとってイヤな体験こそ本当はいちばん為になるのですよと繰り返し申し上げるのは、そういう理由からです。魂が目覚めるのは呑気な生活の中ではなく嵐のような生活の中においてこそです。雷鳴が轟き、稲妻が走っている時です。
酷い目に遭わなくてはいけません。しごかれないといけません。磨かれないといけません。人生の絶頂と同時にドン底も体験しなくてはいけません。地上だからこそ味わえる体験を積まないといけません。かくして霊は一段と威力を増し強化されて、死後に待ち受けている生活への備えが出来るのです。” P41
⇒霊は威力を増し強化されて、次の世界に備える必要がある。


“人間の一人一人に神性の一部を植え付けて下さった宇宙の大霊とのより一層の調和を求めて、人のために自分を役立てる機会(霊界での仕事となる)をますます多く与えて下さるように祈ろうではありませんか。
そうした生き方の中においてこそ、すべて神が良きにはからって下さるという内的な安らぎ、静寂、悟り、落ち着きを得ることが出来ます。そして無限の創造活動を促進する上でわれわれも役目を担っていることになるのです。” P39  


自分の能力を伸ばして他人への援助を啓発(霊的真理の普及)の為に活用する(他人の霊的向上を手助けする)───それがあなた方のなすべきことです。” P32

 

≪解説≫
自我意識をもつために新しく魂になる霊や再生してくる魂など、魂の開発や霊的成長のために両極の世界(相対の世界)である物質界に肉体をまとって誕生してきます。
物質界はさまざまな霊性レベルの人間が混在するために波動がどうしても粗い世界となり、その波動の粗い物質界で生活し自我を表現するためには、波動の粗い肉体が道具として必要となってきます。ちょうど水中ダイビングのウェットスーツのようなものです。
そしてその波動の粗い肉体を維持するために、波動の粗い本能心(利己心・エゴ)が前面に強く出てくることになります。そのため、精妙な波動である“本当の自分”、霊的自我(霊魂・真我)は最低レベルの粗い波動である肉体の心、顕在意識上の意識している仮の我に妨害されて潜在意識下に隠されてしまいます。
霊的本体が隠される結果、利己(エゴ)が強くなり必然的に物質界特有の善と悪、憎しみと愛、幸と不幸、富と貧乏など対照的な両極の体験をすることになります。
霊性レベルの異なる霊魂が同じ物質界に混在し、唯物中心主義の両極・相対の物質世界で四苦八苦しながら、苦難・困難・試練をとおして魂が強くたくましく成長することが物質界に誕生する目的なのです。すなわち、この相対の世界を通して、困難・苦難の末に霊的自我に気づき霊的摂理への信仰(信念)を強化して霊的成長が図られるようになっているのです。
ではなぜそうなっているのでしょうか。それは次の生活の場である霊界で他人の霊的成長の手助けをし、無限の宇宙の創造・進化発展に寄与するという役目をそれぞれが果たすために、魂が強化され、強くたくましく成長する必要があるからです。そのため、物質界は次の大人の世界、霊界に備えての幼児レベルの保育所、幼稚園のようなものだといわれております。
ということは、“本当の自分”(霊的自我)に気づかず、霊的知識もなく他界するということは、幼児が基本的な霊的しつけもなされないまま大人の世界(霊界)に迷い込むということになるのです。


≪マトメ≫
地上人生の目的・・・ 無限、且つ、永遠の宇宙機構の中で他人への援助も含めて創造進化に寄与する役目を果たすために霊性を強化し、そのための十分な資格を得ること。

その目的を成就する方法・・・試練・困難など両極の体験をして霊的成長と利他心を養う。

そのための舞台装置・・・霊性レベルの異なる魂が混在する両極・対照の世界、物質界。

 

それでは人生の目的に適うようにするには、具体的にどのようにすればよいのでしょうか。
シルバーバーチは次のように語っています。

向上とは不完全さを洗い落し、完全(神)へ向けて絶え間なく努力して成長していくことです。それには今日一日を大切に生きるということだけでよいのです。
毎朝の訪れを性格形成のための無限の可能性を告げるものとして迎えることです。それが(霊的)自我を開発(発現)させ、人生に目的性をもたせることになります。
残念ながら今の地上のあまりに大勢の人たちが人生に対する目的意識を忘れております。
神の心をわが心とするように心掛けることです。霊力(神・摂理)と一体となるように心掛けることです。
皆さんの一人一人が神の愛の御手が触れるのを感じ取り、常に守られていることを知り、明日が何をもたらすかを恐れないようにならないといけません。

そして人のために自分を役立てる機会をいただいたことを喜ぶことです。” P34

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(平成30年10月)

“作用と反作用は正反対であり同じもの”(2018年10月6日)(苦しみ・試練


「シルバーバーチの霊訓」十巻 二章~三章の短い章の中で“作用と反作用は正反対であり、同じものである”という言葉が三度も出てきます。
この言葉は日常的に経験する喜怒哀楽に通じる法則ですが、とても大切な“霊的叡智”がこの言葉の中には含まれております。残念ながら我々スピリチュアリストはこの“作用と反作用”を知識として一見理解しているようですが、実はこの法則の意味を真に理解してはいないのではないでしょうか。その証拠として取り越し苦労が絶えないからです。
この“作用と反作用”の関係(両極の原理)を正しく理解するためには、その前後の話を十分に味読し理解する必要があります。そこで大変長くなりますがそのまま霊訓を以下に引用いたします。

 

“われわれはみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点(未熟性)を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。
 私には皆さんの人間であるが故の弱点(未熟性)がよく理解できます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高めるための触媒として、それを克服していかねばなりません
 地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂(作用)と不幸のドン底(反作用)、いわゆる人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです。つまりそうしたさまざまな浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質(霊性)を顕現させることになるのです。困難と逆境(触媒としての反作用)とに遭遇してはじめて(霊性が)発揮(発現)されるものなのです。
 魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。これは、霊的叡智を求める求道者のすべてに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛(触媒としての反作用)を体験しないことには、そのあとに訪れる恩寵(霊的な恩恵としての作用)の有難さが十分に理解できません。人のために役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。
 人間一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理(進化向上)によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて───地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの───が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。(⇒法則の中にも別の法則があり、その裏にもまた別の法則がある) 
小さすぎて見落とされたり、大きすぎて法則のワクからはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則(進化向上)があなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。
これで、作用(霊的覚醒や霊的成長という恩寵)と反作用(試練・困難)とが正反対のものであると同時に相等しいもの(霊性の発現・成長を促すための組合せ)であることがお分かりでしょう。幸福の絶頂(作用)に至るにはドン底の苦しみ(反作用)を味わわねばならないこともお分かりでしょう。 (中略) その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害(触媒としての反作用)は、霊性を発達させ進化(進化向上という作用)させていく上において必要不可欠の要素なのです。
 地上というところはバイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験(困難と障害、不幸のどん底という反作用)が必要です。太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難門(困難と障害という触媒)が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。
 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金(霊性)が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程(試練・困難)を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。
 黄金(神性・霊性)はそこに存在しているのです。しかしその純金(霊性心)が姿を見せるには原鉱(唯物心)を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません(日本刀の焼入工程と同じ)。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。
 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練(触媒としての反作用)を受けることが必要となるのです。
 苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。
光を見出すのは闇の中(どん底の不幸という触媒)においてこそです。(霊的)知識を有難く思うのは(霊的)無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。
 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。

ですから、私たち霊界の者は魂にその受け入れ準備ができるまで根気よく待つほかないのです。馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。
 私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのおかげで、われわれのすべてを包摂し全存在に配剤した自然法則(進化向上)の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております” (十巻)P18

 

“魂は低く落ち込むことが可能であるだけ、それだけ(比例して)高く向上することができます。それが両極の原理(作用と反作用の相対の原理)です。すなわち“作用と反作用”は相等しいものであると同時に正反対のものであるという法則です。憎しみと愛、光と闇、嵐と静けさ、こうした“対”は同じコイン(霊に関わるもの)の表と裏の関係にあるのです”(十巻) P29

 

≪解説≫
●富や財産に囲まれた太陽がさんさんと輝く生活、バラ色の人生では霊的なものが受け入れられない。 (十巻)P19、P22
(唯物主義で凝り固まった顕在意識の仮我の力が強いので霊的なものが理解できない)


●霊的なものが受け入れられるようになるには、その触媒として魂の琴線に触れる苦しみ、例えば以下のような体験が必要になってくる。(十巻)P23
・この世から希望が消え失せる体験
・光明も導きも無くなったかに思える体験
・絶望の淵にいる思いをする体験
・ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わう体験
・他、琴線に触れる体験


“本当の自分”(真我・霊魂)に目覚め、霊的知識を理解し受け入れられるようになるには、上記のような触媒となる危機・困難という試練(触媒)が必須条件となってきます。(十巻) P21


では何故、試練・困難な体験が霊に関わるものには必須条件となっているのでしょうか。
それは、次のようなプロセスを経て霊的なものにたどり着くようになっているからです。


【霊的成長へのプロセス】

1.苦しみや困難、断腸の思いに陥り、物質界には一縷の望みも無くなる。(反作用)(十巻P23)


2.唯物主義に凝り固まった顕在意識の仮我が打ち砕かれて、仮我を手放すようになる。

3.仮我の支配力が弱くなり、結果として仮我の粗い物的波動を弱めることになる。(十巻P21)

4.顕在意識上の仮我が邪魔しなくなり、潜在意識下の“本当の自分”(真我・霊魂)が発現しやすくなる。

5.霊界の精妙な波動の受信能力が高まる、すなわち霊的なものを受け入れやすくなる結果、霊的真理が理解できるようになる。(十巻P22~23)

6.“本当の自分”(霊魂)に気づき、霊的知識を学び始める。
7.その結果、霊的知識や叡智、悟りという霊の恩寵を得ることが出来るようになる。(作用)
  (十巻P19)

8.霊的覚醒後も、カルマや因果律の法則のもと悔悟と償いを繰り返して、何度も何度もこれと同じ体験(作用と反作用)をすることによって、霊的成長を図るようになっている。

9.そうすることによって肉主霊従から霊主肉従への波動の切り替えが、一進一退を繰り返しながらも少しずつ徐々に速くなり、真我を発揮(発現)した生活になってくる。(十巻P18)


この物質世界では、善と悪はともに不可欠のもの(同じ一つのコイン)であると同時に、相対的(コインの裏表)であるからこそ霊的成長ができるようになっているのです。 (九巻)P214
だからこそイヤなこと(反作用)があると、霊的学びと霊的成長(作用)に直結した絶好の機会だと、霊的真理を学ぶ我々スピリチュアリストはとらえるようにいたしましょう。(十巻P41)


“問題が生じるのは当然の成り行きです。地上は困難と挫折と障害と逆境に遭遇させられる場所なのです。地上生活のそもそもの目的は、伸び行く魂が、危機においてはじめて呼び覚まされる潜在的資質を発現するために、さまざまな事態に遭遇することにあるのです。そうした問題を克服しないかぎり霊性の向上は望めません。が、実は克服できないほど大きな問題は決して背負わされないのです。忍耐強く導きを祈り求めることです。時が熟せば必ずドアが開かれ、道が示されます。私はそのことを同志の方にはいつもこう申し上げております。――閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません、と” (十巻)P150

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(平成30年9月)

“自殺”(2018年8月30日)(苦しみ・試練


なぜ我々に自分の意志で生命を縮める権利がないのでしょうか。


なぜ我々は自分の苦しみに終止符を打つ自由をもたないのでしょうか。


では、シルバーバーチは“自殺”についてどのように語っているでしょうか。
以下は全て「シルバーバーチの霊訓」九巻  十二章 “自殺についての二つの投書”からの引用です。

(P206~P217)


―試練・困難は霊的成長の必須条件―
“地上の人間は時として物事を逆さまに見ていることがあります。きわめて不完全な知識でもって判断しようとされます” P207


“物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観点(物的法則:肉体)からすれば得と思えることも、霊的な観点(霊的法則:霊魂)からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。
教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で現れることもあるわけです。人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです
ということは双方に神の意志が宿っているということです。良いことにだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知ってください” P214

 

―背負いきれない荷は背負わされません―
 “(自殺によって)事態を改善するよりも悪化させるようなことは、いかなる魂に対してもお勧めするわけにはまいりません。自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません。もしそのようなことをしたら、それ相当の代償を支払わねばならなくなります。それが自然の摂理なのです。地上の誰一人として、何かの手違いのためにその人が克服できないほどの障害に遭遇するようなことは絶対にありません。むしろ私は、その障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのですと申し上げたいのです。苦しいからといって地上生活にさよならをしても、その苦しみが消えるわけではありません。それは有り得ないことです。またそれ(自殺行為)は摂理(因果律)に反することです。地上であろうと霊界であろうと、神の公正(因果律)から(摂理違反は)逃れることはできません。なぜならば、公正は絶対不変であり、その裁定はそれぞれの魂の成長度に合わせて行われるからです” P206

いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。
責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。
背負い切れないほどの荷(結果)はけっして負わされません。なぜなら、その荷はみずからの悪業(原因)がこしらえたものだからです。けっして神が“この人間にはこれだけのものを負わせてやろう”と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません” P210

 

―自殺は摂理への干渉(摂理違反)―
大多数は私に言わせれば臆病者の逃避行為であると言ってよいと思います。果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと考えるわけです。
ところが、死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。その状態から抜け出られないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。
いずれにせよ、(自殺すると)あなたの魂はあなた自身の行為(原因)によって(摂理違反という)処罰(結果)を受けます。みんな自分の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したもの(原因)は二度と書き変えるわけにはいきません(原因と結果の法則)。(無かったことにするという)ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです(自由意志による自己責任)。その法則(因果律)は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分(本当の自分・良心)に忠実でありなさいと言うのです” P210

 

これに関して「シルバーバーチの教え」(スピリチュアリズム普及会発行)下巻 23章:“さまざまな疑問に答える”から“自殺”に関する箇所を引用します。

 

 

まず最初は愛する伴侶を失って悲嘆に暮れている女性から、いっそ死んでしまいたいという気持ちを綴った手紙を読み上げられ、司会者が代わって質問する。


―司会者―
「この方のように最愛の伴侶に先立たれ生きる希望を失った人が自ら命を断つということは許されるものでしょうか。」


―返答―
許されません。因果律という摂理の働きは完璧ですからそれに忠実に生きなければなりません。摂理というのは、完全なる愛である大霊によって統制されており、全ての中に存在すると同時に全てのものを通して働いております。(辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも P214)
その働き(因果律)に干渉する権利を有する者はいません。もしも干渉して自殺すれば、それなりの代償を支払わねばなりません。例えば熟さないうちにもぎ取ったりんごは美味しくないように、寿命をまっとうせずに無理やりに霊界へ行けば長い調整期間の中でその代償を支払わねばならなくなります。その上、その伴侶はもとより、他の縁ある人々とも会えなくなります。(利己的な波動によって)周囲にみぞをこしらえてしまうからです” P166

 

-自殺についての要旨-
●自殺は事態を改善するよりも悪化させます。
●自殺しても苦しみが消えるわけではありません。
死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。⇒ 地縛霊
●自殺によって全員が等しく受ける罰は、失望落胆です。(アランカルデック「霊の書」より)
●自殺によって物質の世界から霊の世界に移ったからといって、それだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。それだけは明確に断言できます。
●自殺すると摂理違反によって自分で自分を処罰することになります。(因果律)
●人間は物事を逆さまにみて(物的観点)、きわめて不完全な知識(唯物思想)で判断されます。
●地上の誰一人としてその人が克服できないほどの障害に遭遇することは絶対にありません。その障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのです。
●後追い自殺はその伴侶はもとより、他の縁のある人々とも会えなくなります。利己的な波動によって周囲にみぞをこしらえてしまうからです。


【解説】
自殺とは、すべてを無にするための逃避行為です。病気、倒産、仕事上の問題、貧困、いじめ、失恋、人間関係等々の諸問題を原因として、全てを帳消しにして無にするための手段としてとられるのです。
このことは、試練・困難や自らの行為などの「原因」に対して、その「結果」を甘受し克服解消せずに、自殺によって「原因」が無かったことにする、すなわち帳消しにすることは、「結果」の伴わない「原因」にすることになり、因果律という“摂理への干渉”(摂理違反)となるのです。原因と結果は表裏一体で切り離すことはできず、また一旦、原因が発生すると二度と書き換えるわけにはいかないのです。
同時に、生命とは神そのものであり、100年足らずの限られた地上人生とはいえ、自他の地上生命を自らの意思で地上から抹殺するという行為は、神すなわち摂理に真正面から背くことにもなるのです。


“魂の成長を促すものは善で、成長を遅らせるものは悪です”(シルバーバーチ霊訓 九巻)P198


地上世界では、この魂の成長を遅らせる、いや遮断する最たるものが自殺や殺人なのです。
もともと私たちは類魂を代表して、仲間に霊的成長の成果を持ち帰るためにどのような地上人生を歩むのか、障害や苦難も含めて前もって計画し出生してきます。例外なく決して摂理に違反する自殺や殺人行為をすることを予め計画して出生してきてはいないのです。ですからいくら気づいていないとはいえ、守護霊(類魂仲間)や背後霊に見守れ、導かれながら試練や困難に対処し、類魂を代表して霊的成長を計ることが地上人生の目的となっているのです。また、人間が有するのはあくまでも摂理(法則)の中での限られた自由であることを忘れてはなりません。

霊界通信によると、“背負えない荷は背負わされません。必ず克服できます”と語られていますが、残念ながらこれらの霊的知識も無く、安易な道を選択する人は跡を絶ちません。戦争もなく経済的に恵まれている日本でも、毎年2万人前後(1,700人/月間 毎日60人前後 2017年現在)の人が自殺をしています。
死後の世界は思念の世界ですので、たとえ物的身体(仮の我)が滅んでも悩みや心配、恐れなど自殺の原因となった観念はそのまま不滅の自我である霊魂が他界へ持ち越します。
すなわち、自殺行為によって悩みもろとも自分自身(肉体と精神)が消滅したはずが、肉体そっくりの霊体に代わっただけで、地上世界の観念(精神)はそのまま他界に持ち越しているので、混乱状態に陥り、それがオーラのバリアーとなって内にこもって霊界からの迎を見えなくしてしまうのです(地縛霊化)。
繰り返しになりますが、自殺に至った不安・恐れの精神状態は、意に反して全く同じ状態でそのまま他界後も続くことになるのです。さらにもっと悪いことには、地上世界では時間軸があるために、医療をはじめ家族など周囲からの様々な愛情や支援もそれなりに五感に感じられ、また周りの環境や状況も、時間と共に変化し立ち直る機会もありますが、霊界では時間軸のない思念の世界ですので、自分が変らない限り周りが変化するわけでもなく、はるかに長い間この闇の状態が続くことになります。また同時に、自殺はカルマ(業)の原因ともなり精算するまで後々続くことになります。こうして自殺前よりも事態はもっと悪くなるのです。


“その状態(外界から遮断した暗闇)から抜け出られないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます” (九巻)P210


“(自殺によって)事態を改善するよりも悪化させるようなことは、いかなる魂に対してもお勧めするわけにはまいりません。自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません” (九巻)P206
                                         

 

※スピリチュアリズムの観点から自殺予防を取り上げたブログを下記に記します。


●自殺ダメ http://jisatsushashin.com/
●自殺の甘い罠 http://jstnamiwn.nobody.jp/index.html

 

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(平成30年8月)

“霊訓にみる挫折克服法平成30年8月6日)(苦しみ・試練)


困難・試練にあたって、全能の霊力(神の力)と高級霊団を味方につけましょう。
あなたは決して一人ではないのです。

 

○しくじりやすい地上人だから自信がなく、心配・不安・取り越し苦労性になります。


○だから自我の力に頼らず、摂理すなわち霊力(神の力)に全ての信頼を置くようにしましょう。


○一人で人生を歩んでいるのではない証拠として、過去の霊界の背後霊からの導きがそれを証明しています。そして霊訓で約束されているように、今後もその導きがあると信じることです。


○そして、背後霊との関係維持のため、霊訓を読みこみこれら霊界からの導きや霊力の働きかけを遮断するような心配の念の進入をできるだけ受けつけないように努力しましょう。


○それさえ心掛ければ、霊力に全幅の信頼(信仰)を置き、今日一日だけを精一杯に生きればよいのです。あとのことは霊的約束があるので背後霊に一身を預けてその導きに全託しましょう。自我よりも霊的摂理を信頼し、霊界に心を開くことです。

では次に、少し長くなりますが、霊訓を引用しながら霊界からの導きや霊力の働きかけについて調べてみましょう。

 

●スピリチュアリストの挫折克服法は、ズバリ 霊力(霊的摂理)への信仰!


“大霊は全知全能であり、その霊力(神の力)の働きは完全無欠です。そこでその霊力に全幅の信頼(信仰)を置く者に決して挫折はないと確信をもって申し上げるのです” (九巻)P195

 

●では、その霊力とは一体何?


“霊力、神の力――私はそれを大霊と呼んでいるのですが――” (九巻)P163


“霊力とは生命力であり、生命の素材そのものであること、活力であり無限に存在すること、可変性があり、無限の形態をとることができ、無限の置き換えと組み合わせが可能である、ということです” (九巻)P174 


⇒霊力とは神の力そのもので、生命力(活力)や法則、叡智、ヒーリング、導き、インスピレーション、活力、奇跡な出来事等々、全知全能で様々な形態をとって顕現します。

 

●その霊力を呼び込む方法は


霊力は条件さえ整えば、つまり①一かけらの心配の念もなく(信頼)、② (霊的)知識を基盤とした信仰と、③体験(導きの跡)から生まれた確信(信念)とがあれば、時として驚異的なことをやってのけます” (九巻)P34

 

① 心配の念 たとえ“一かけらの心配の念”でも何故いけないのでしょうか? 


“人間には一種の機械としての物的身体が与えられています。あなたはその身体を通して自我を表現している一個の霊(本当の自分)なのです。あなたが悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は生命力の補給路を失うことになります。補給源とのつながりを断たれることになりますそのことに気づいて心構えを改めないかぎり、あなたの身体はその不健康な作用と反作用の法則に従いつづけることになります。心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、その心霊的波長を乱します。その障害を取り除くまでは生命力(活力)が流れ込みません。泰然自若の境地に至るには長く厳しい修行、過酷な試練、そして心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力が要請されます” (九巻)P49


⇒泰然自若の境地に至るには、心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力(信仰)が必要となります。

 

② 霊的知識 では、霊力にどうすれば全幅の信頼を置くことができるのでしょうか


(霊的)知識を基盤とした信念(信仰)に燃えてください(3-②)。
皆さん方の一人一人が霊の導きによって今日まで苦難と危機と困難を乗り切ってこれたのです。振り返ってごらんになれば、その導きの跡が読み取れるはずです(3-③)
そこで、人間的煩悩ゆえに時には背後霊を手こずらせることはあっても、これほどのことをしてくださった背後霊が自分を見放すはずはないとの信念(信仰)に燃えなくてはいけません” (九巻)P193

 

③ 霊的証拠 たどってきた背後霊の導きの跡(体験)を読み取る
上記の①~③全ての条件を満たすにあたっての必須条件となる、“本当の自分”は“霊魂”であるという霊的自覚はどのようにして得られたのでしょうか。


“霊的資質は永いあいだ潜在的状態を続け、魂が十分に培われた時点(時期の来た大人の霊)でようやく発現しはじめるものです。それが基本のパターンなのです。すなわち悲しみ(試練・困難)や病気、あるいは危機に遭遇し、この物質の世界には何一つ頼れるものはないと悟った時に、はじめて魂が目を覚ますのです。何一つ煩わしいことがなく、空は明るく静かに晴れ上がり、すべてがスムーズにそして穏やかに運んでいるような生活の中では、真の自我は見出せません。すばらしい霊的覚醒が訪れるのは、嵐が吹きまくり、雷鳴が轟き、稲妻が光り、雨が容赦なく叩きつけている時です” (九巻)P70 


⇒人生の目的である“本当の自分は霊魂である”ということに目覚める過程が、まさしく霊界からの導きそのものの実体験なのです。

 

●しくじりやすく、挫折しやすい私たちに向けてシルバーバーチは語る


過去はもう過ぎ去ったのです。これまでに犯した間違いはお忘れになることです。皆さんは間違いを犯しそれから学ぶために地上へやって来たようなものです。過ぎ去ったことは忘れることです。大切なのは今現在です。今、人のためになることをするのです。どんな形でもよろしい。自分の置かれた物的環境条件から考えて無理でない範囲のことを行えばよろしい。先のことをあまり考え過ぎてはいけません。皆さんが皆さんの役目を果たしていれば、私たちは私たちの役目を果たします。そして、そうした協調関係の中では絶対に挫折はないことをお約束いたします” (九巻)P193

 

●そのシルバーバーチが語る“絶対に挫折はない”という根拠、保証は一体何でしょうか?


“挫けてはなりません。いかなる事態にあっても、不安の念をカケラほどでも心に宿すようなことがあってはなりません(3-①)今日まで支えてきた力(3-③)は、これからも決して見棄てるようなことはいたしません。絶対に裏切ることはありません(3-② 霊的知識として)。もしあるとしたら、この宇宙(の摂理・法則)そのものが存在しなくなります。その根源的なエネルギー(霊力)、存在の支えそのものが不在となることがあることになるからです” (九巻)P89

 

●霊力を得る道は、正に霊的摂理に対する信仰の強さそのものに比例するのです


迷わずに前進なさることです。今日は今日一日のために生きるのです。そして、過去が霊の導きを証明しているように(3-③)未来も間違いなくあなたが志願された使命を全うさせてくれるものと信じること(信仰)です” (九巻)P90


“万が一やる気を無くすようなことがあったら――人間なら時には意気消沈することがあるものです――その時はいったん歩みを止めることです。そしてそれまで奇跡ともいえる形で成し遂げられてきたことを振り返って(3-③)、これだけのことが成就されてきたのなら、これから先もきっとうまく行くはずだという認識(信仰・信念)をもつことです。あなたに要求されることは、そこまであなたを導いてきた霊力(神の力)に対する絶対的な忠誠心と自信とをもってあなたの責務を全うすること、それだけです。あなたなりのベストを尽くすことです。あなたの力の範囲内で出来るかぎりの努力をなさることです。恐れるものは何一つありません。困難はあります。が、それもきっと克服されます(3-② 霊的知識として)” (九巻)P94


真理を理解した人間は沈着、冷静、覚悟が身についております。恐れるということがありません。不安の念の侵入を受けつけず、無知と迷信と悩みが生み出す暗黒(不安)を打ち消します。自分に生命を与えてくれた力、宇宙を支配している力、呼吸し活動するところのものに必需品を供給する力(霊力・神の力)は絶対に裏切らないとの信念(信仰)があるからです。大切なのは、ご自分の方から神を裏切らないことです。これまでに得たもの、いま受けつつあるもの、そしてそれから生まれる叡智のおかげでせっかく宿すようになった信頼を裏切るような行為をなさらないように心掛けることです。霊的真理にしがみつくことです。これまでに自分たちに啓示されたものを信じて(信仰)物事に動じないことです。一つ一つの問題に正面から取り組み、精いっぱい努力し、済んだことは忘れることです。援助は必ず与えられます(3-② 霊的知識として)。なぜなら、お二人(参加者夫妻)を愛する人たち、地上にいた時より一段と親密度を増している人たちが、お二人が難題を切り抜けるように取り計らってくれるからです” (九巻)P60


⇒他界まで含めた永遠の視点でみると、何が最適の道かは本人自身には分かったようで実は分からないものです。
そうなると今できることは、精一杯の努力をした後は、結果がどうなるのかを心配するのではなく、過去からの導きを証拠として霊界の守護霊や指導霊を信頼し、結果は全て霊的視点からみている彼らの導きにまかせて従うことです。いわば天動説から地動説に考えを切り替えることです。そのことが霊力に全幅の信頼を置くことになり、摂理の実践にもなるのです。


あなた方は霊的に導かれるままに進まれるがよろしい。霊的進歩には型にはまった様式はありません。今日まで導いてきてくれた力(霊力)を信じて一身を預けることです。その力こそ、地上のあらゆる物的財産に勝る珠玉の知識(霊的真理)をもたらしてくれた力です。ひたすらに前向きに歩まれることです。どこにいても最善のものを施すことです。かならずや導かれ、援助を受けます(霊的約束として)” (九巻)P165

 

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(平成30年7月)

“憎しみがなければ愛もありません平成30年7月2日)(人生の目的)


-霊界に備えるための地上人生-
あなた方も私たちと同じく立派に霊魂であることを忘れないでいただきたい。そして地上生活はこれからの永遠の旅路に備えるためにのみ神が与え給うたものであることを肝に銘じていただきたいのである。
若者よ、科学を謳歌し、その勝利のために知能を磨き論争するのも決して悪いとはいわぬが、霊魂不滅を根拠とする雄大無辺の人間学スピリチュアリズムに比して、他の科学がどれほどの価値があると思っておられるのか。地上生活を魂の学園と心得て生きたまえ。それも、あくまでもその後に控えた雄大にしてより高等な学園へ行くためのものであると心得たまえ。地上生活の全体験を活用して魂に永遠に色あせることのない磨きをかけ、人生学校の卒業生としてその名に恥じぬ実力を身につけていただきたいのである。
死なずとも立派に霊魂であり、従って永遠に生き続けるものであることを自覚し、その自覚の上に立って地上生活の教訓を着実に身に修めていくこと(霊的成長)、これこそ神の啓示された崇高なる最後のページにほかならない。その最後のページをよく読み、正しく理解し、確実に実行することこそ、近代スピリチュアリズムの真の使命ではないのか。心霊現象なるものは、実は霊魂不滅を物的手段によって実証(霊界の証明)するために演出された、一時的な方便にすぎぬことを知っていただきたい。霊魂とは何か、何をなすべきか、言い換えれば地上的罪障と粗さを洗い落とした純白の白衣で魂を盛装するためには地上生活をいかに生きるべきか、これを教えるのが近代スピリチュアリズムの唯一にして崇高なる使命であり目的なのである”
(「心霊と進化と」P126のブリテン女史の入神講演“霊とは何ぞ”からの抜粋)

 

この地上世界は、あくまでも他界後の生活に備えるための学校であり、この地上人生にある内に霊的覚醒をして可能な限り霊的成長をすることがその目的なのです。
それでは次に、どのようにして学習していくのかをみてみましょう。

 

-地上は人間関係も含め、比較対照を通して学ぶ世界-
“人生は全て比較対照の中で展開しております。光も闇もともに神を理解するうえでの大切な要素です。もし光と闇とが存在しなければ光は光でなくなり闇は闇でなくなります。つまり光があるから闇があり闇があるから光があるのです。同じく昼と夜がなければ昼は昼でなくなり夜は夜でなくなります。愛と憎しみがなければ愛は愛でなくなり憎しみが憎しみでなくなります。その違いが分るのは相対的だからです。しかし実は両者は一本の棒の両端にすぎないのです。元は一つ(神性)なのです。しかしその一つ(神性)を理解するには両端を見なければならないのです。それが(地上)人生です。光と闇の両方がなければなりません。温かさと寒さの両方がなければなりません。喜びと悲しみの両方がなければなりません。自我(本当の自分)を悟るにはこうしたさまざまな経験が必要です。“完全”は絶対に成就できません。なぜならそれには“永遠”の時が必要だからです。私は謎めいた事を言っているのではありません。”
(一巻)P71

 

-人間は一本の棒である-
人間は肉体という鈍重な物的身体を背負って生まれてくることによって、結果として“本当の自分”(霊魂)が覆い隠され、食欲、性欲、物欲、金銭欲、所有欲、独占欲、優越感、嫉妬など様々な欲望に支配され、また病と戦うことになります。従って、肉体を持つことによって人間は一本の棒となり、その両端である利己から利他、すなわち本能心(利己心)から霊性心(神性心)まで、一人の人間の中に内在するようになります。そのため善と悪、憎しみと愛情、苦と楽、暗闇と光明等々の葛藤が生じてくるのです。
具体的には、神性の真逆の対極として、あるものは未熟というかたちで、あるものは霊的無知(唯物思想)というかたちで、あるものは自己保身(自己中心)というかたちで表面に現れてきます。我々が本当の自我を悟り、神を理解するため(一巻 P71)には、理解しやすいように違いが分かる真逆の体験がなければならないからです。それは丁度、病気をして初めて健康の有難さが判るのと同じことです。
我々は神の分霊すなわち神の子として神性の種子を宿しており、完全(神)を目指して進化向上を永遠に続けます。我々の地上人生は未熟、未完な霊魂が完全(神)を目指して成長していくそのスタートをきったにすぎないのです。すなわちあらゆる比較対照を通して学び、利己から利他へと向かっていく過程のことなのです。そういう意味では、元はそれぞれ一本の棒の両端なのです。全ての道は先端のゴール(神・完全)を目指してその途上にあるというだけです。このことは他界後の霊界に移ってもゴールには決して至らない永遠の旅路となります。

 

-苦も魂の成長に繋がれば善となる-
“地上の人間にとって苦しみは悪であり、痛みは歓迎されませんが、実質的には必ずしもそうではありません。苦は楽と同じく神の計画の一部です。苦がなければ楽もなく、暗闇がなければ光明もなく、憎しみがなければ愛もありません。作用と反作用は同じものであると同時に正反対のものです。一つのコインの両面(両端)と思えばよろしい。善と悪はともに不可欠のものであると同時に、相対的なものです。地上にはさまざまな道徳的規範があり、国によって異なります。たった一つの絶対的規範というものはありません。私たち霊にとっての価値基準はただ一つ――魂にどういう影響を及ぼすかということです。魂の成長を促すものは善で、成長を遅らせるものは悪です。そこが大切な点です。 (中略) 生命の原理、霊的真理の基本(真の我とは永遠不滅の霊魂なり)を忘れないようにしましょう。それさえ確保しておれば、(地上世界への)存在の目的を成就していることになるからです”(九巻)P198

 

-人間はしくじるものです-
“もしもあなたが何一つ間違いを犯さない人だったら、あなたは今この地上にはいらっしゃらないはずです。間違いを犯す人間だから地上に来ているのです。しくじってはそこから教訓を学ぶのです。もしもしくじらないほど完全な人間だったら、物質界に生まれてくる必要はありません。勉強のために地上へ来ているのです。しくじっては学ぶ――それが進化の法則の一環なのです (九巻)P167

 

-しくじってはそこから学ぶのです-
地上の人間は自由意志を行使することによって“しくじりやすい”ということは、失敗や過ちをおかしやすいということであり、因果律から大小さまざまな苦難や困難を自ら招くことになります。ある意味、病もそうである場合が多いのです。
人生は“原因と結果の法則”がグルグルと回転しているようなものです。上記の霊訓で語られているとおり、地上の人間である限り未熟なため“しくじる”もので、この“しくじる”ことが霊的成長のための前提とさえなっております。しくじっては学ぶ、これが地上世界における「進化の法則」なのです。
その“しくじり”や失敗からくる苦や災いも、逃げないで克服することによって魂の成長を促すものとなれば、苦も“善”となり、地上人生の目的に合致することになります。逆に、幸せや楽でも傲慢になり不遜になって霊性を下げれば“悪”となることもあるわけです。
我々はたとえ未熟ではあっても因果律をとおして、すべては神性すなわち真・善・美(愛・誠・調和)の方向を目指しているといえます。スピリチュアリストであれば何事も霊的視野でとらえ、霊的摂理に適応する意志と努力さえできておれば、すべてのことは霊的成長へとつながっていきます。分かりやすく表現しますと、憎しみも愛も同じ感情という一本の棒の両端にあり、憎しみという感情のない者は、愛情という感情もないことになります。比較対照によってその違いを明確にし、真の愛とはどういうものかを理解できるようにすることが目的であり、憎しみも愛も共に一本の棒でつながった同じ感情からくるものです。
その目的とするところは、神の愛を理解するためなのです。

 

-地上世界は両極を体験して霊的成長をする学校である-
“これまでたどられたあなたの足跡も、背後霊によって暗闇から光明へと導かれてまいりました。これは、低く下がるだけ高く上がれるという「償いの法則」によって、本当の意味での人間的向上が得られる過程の一環なのです。
光を見出すのは闇の中においてこそです。喜びを見出すのは悲しみの中においてこそです。
真実の自我を見出しはじめるのは、地上にはもはや頼りになるものは何もないと思えた時です。これは人生の両極性という、魂が真の自我を見出すための原理の一つです。
果てしない宇宙に展開する生命活動の一つ一つが、規律づけられた何らかの役割をもっております。嵐も、青天と同じく、無くてはならないものなのです。闇も、光と同じく、無くてはならないものです。人間性が鍛えられるのは苦しい試練の中においてこそです。その両極性を体験してはじめて成長しはじめるのです。私は屁理屈を言っているのではありません。大霊がその無限の叡智によって地上の人類のために案出した「進化の法則」がそうなっているということを申し上げているのです。言い替えれば、必要なものは時が熟せば与えられるということです。困難・試練・試金石・障害、こうしたものは魂がその潜在的資質を発揮するために欠かせない体験です。一種の触媒を提供してくれるのです。
これまでを振り返ってごらんになれば、最大の窮地と思えた時に道が開かれ、真実の自我を発揮する方向へと導かれていることに気づかれるはずです” (十一巻)P154

“私たちと同じくあなた方も法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として生じるのです。言ってみれば霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。しかしその支払いとはまた別の「補償の法則」もあります。物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観念からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。
教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で現れることもあるわけです。人生は光と陰の繰り返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。
ということは双方に神の意志が宿っているということです。良いことにだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知ってください”(九巻)P214

 

-進化向上へと導く愛の摂理-
霊界まで含めると全宇宙は、絶対的な大摂理として完璧な公平性で貫かれております。そして善因善果・悪因悪果という「因果律」や「償いの法則」、「やり直しの機会」などの法則は、すべて“しくじりやすい”我々の霊的成長、進化向上のために準備された愛の神の摂理でもあるのです。

 

“要するに、進化とは地上においても全宇宙においても無限の過程であり、そのこと自体が宇宙の全機構を案出した無限の知性の存在(神)の証明であることを認識してください。その知性が絶対に誤ることのない法則によって統治し、ありとあらゆる側面を導き、支え、そして規制しているのです。われわれはその愛と叡智の機構(摂理・法則)の中に存在しているのです。間違いを恐れてはいけません。そこから学び、刻一刻と霊的に成長していくのです(九巻)P168

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(平成30年6月)

「奇跡と近代スピリチュアリズム」心霊と進化と(平成30年6月1日)(雑記


ダーウィンと並んで進化論で有名な英国人博物学者のアルフレッド・R・ウォレスによる150年ほど前に発表された表題タイトル(1874年著)の翻訳本「心霊と進化と」(近藤千雄訳 潮文社発行)をインターネットの情報から知り、早速読んでみました。
ウォレスの生存期間は1823年~1913年ですので、丁度、近代スピリチュアリズムの発祥となった米国のハイズビル事件の発生(1848年)や、タリウムの発見で有名な元英国学士院院長のウィリアム・クルックス博士(1832年~1919年)、無線電信の検出器に用いられるコヒーラや点火プラグの発明者で有名な英国の物理学者であるオリバー・ロッジ(1851年~1940年)らが活躍していた時代とそっくりそのまま重なります。そしてこの本はシルバーバーチによる交霊会が本格的に始まる直前までの何千回、何万回と各地で繰り返された“物理的心霊現象”と、それに続く“霊界の科学的証明”の全盛期時代に書かれた心霊科学の学術誌です。
数多くの自らの物理的心霊現象の体験も含めて、当時の第一級の教授や学者、識者、医師、法律家らが自らの疑いを証明するために調査研究した結果、ミイラ取りがミイラになるごとく、真摯に科学的に調査探求した者は、すべてスピリチュアリストになってしまうだけの実証的証拠がすでに数限りなくそろっているということを実例をあげて説明した学術書なのです。
そしていったん納得しスピリチュアリストに転じたこれらの知識人は、生涯にわたって二度と自説を覆えすことは無かったということでした。それらのことが膨大な資料と実例、及び名前まで挙げて縷々解説されています。ウォレスは、もうこれ以上の霊実在説の真偽の調査研究は不要とまで言い切っています。シャーロック・ホームズの作者で有名なコナン・ドイル(1859年~1930年)にも「これだけの証拠がそろっているのに、いまだに霊界の存在が認められないということのほうが頭がどうかしている」と言わしめるだけの証拠が十分にそろっているのです。
プログの“ともしび”の身辺雑記No117「コナン・ドイルの心霊研究」やNo118にも関連した内容が書かれてありますので、こちらも是非見てください。
http://www.takemoto-shozo.com/zakki-2017.html#2018.04.01 


ついては、霊界の存在が真底から信じられない、またはいま一つ確信にまで至らず一人で右往左往しておられる方は、どうか是非アマゾンでこの中古本を購入され自ら読まれることをお勧めいたします。私もこの本を読んで、初めてシルバーバーチが語っている以下の言葉が理解できました。
“これ(死後存続の証明)は空想の産物ではありません。何千回も何万回も繰り返し証明されてきている事実をありのままに述べているまでです。もはや議論や論争の枠を超えた問題です。
(中略) “事実ならばその証拠を見せていただこう。われわれはもはや信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに永いあいだ気まぐれな不合理きわまる教義(キリスト教のドクマのこと)を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものにほとほと愛想をつかしてしまった。われわれが欲しいものはわれわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ”、そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが私たちがこれまであらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦となってくれる確定的事実というスピリチュアリズムの基礎なのです。もはや“私は信じます。私には信仰というものがあります。私には希望があります”といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。“事実なのだからどうしようもありません。立証されたのです”と断言できる人が数えきれないほどいる時代です。人類史上はじめて宗教が実証的事実を基盤とすることになりました。神学上のドクマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実はまともな理性を持つ者ならかならず得心するだけの証拠が揃っております。”(七巻 P25)

 

私からみると、アルフレッド・R・ウォレスはその進化論での仕事・業績よりも、それらは科学的な調査研究方法を学ぶための手段・結果であって、実は彼の真の“今生の使命・目的”はその名声や信用、科学的研究姿勢などを利用して心霊学術書であるこれら一連の出版物を世に出し、“霊界の証人”となることにあったのではないかと思います。

 

戦後生まれの人がほとんど全てとなりつつある現在の日本では、霊界の存在を証明するために欧米で当時みられたような物理的心霊現象や、第一級クラスの学者・有識者による霊界の科学的証明などの話は我々の周りには皆無であり、書物で読む程度であって正直今一つピンとこないものがあります。例えば重い食卓のテーブルが60㎝も浮き上がったり、人体浮遊やありもしない物が突然どこからともなく現れたり、参加者全員が見えて手に触れることまでできる霊体の物質化現象など、我々の周辺では実際に見たことも聞いたこともありません。世間的にはせいぜいテレビ番組で視聴率稼ぎの心霊写真?もどきのような浮遊霊風写真を見せられ、恐怖心で大騒ぎしている程度です。この19世紀後半当時の欧米でみられたような奇跡的な何千回、何万回もの心霊現象と比較すると、過去日本で発生した物理的心霊現象などはたかが知れているようにさえ思われます。
今現在、世界的に見てもそのような心霊環境にないのは明らかで、少なくとも今の日本では多くの家庭で霊媒を招いて物理的心霊現象や交霊会を催すほどの状況にはありません。
従って奇跡的な物理的心霊現象を直接観察した体験は私にも一切ありませんが、あればもっと容易に確固として信じきれるものをと思ったりもしますが、ほとんどの方も同じ思いを持たれていることだろうと思います。
が、しかしながら私には“すでに霊界は証明済み”として霊界側が心霊現象の発生は不用であえて避けているようにさえ思われます。このことは一体何を意味しているのでしょうか。

 

丁度、幼児期のままで大人になりきれないように、安易に霊能者や霊媒という他人に頼りきり、心霊現象面ばかりにいつまでもとらわれ続けて手段と目的をはきちがえるよりも、ウォレスが本書の結論として述べているように、霊界と死後存続の証明はすでに終えたのだから次の段階である霊的摂理の学びによる魂の成長へと進むことの方が大切なのです。人生の目的は霊的成長にあるのですから、我々は他界後、その方がはるかに幸せで恵まれていたということに気づくことになるのだろうと思います。
たとえテレビ番組の中に本物の心霊写真が仮にあったとしても、そういうものでは興味本位でそのレベルにいつまでも留まってしまう人がほとんど全てです。
やはり何といってもシルバーバーチが霊訓で語っているように、苦難や試練を経て、これ以上は自我に頼りきることがもはやできず、本当のことを求めて迷い苦しみ悩みながらなんとか霊的真理にたどり着き、“本当の自分”(霊魂)に気づいて、そこから霊的成長が始まるというプロセスが本来のあるべき道、王道で、それが人生の目的なのでしょう。

 

ここで少し長くなりますが、「コナン・ドイルの心霊学」(近藤千雄訳)の中で、コナン・ドイルは次のように述べています。(これはシルバーバーチの交霊会が始まる直前の記述です)

 

“が、幸か不幸か、(第一次世界)大戦が勃発した。戦争というものは“生”を真剣に見つめさせ、一体何のために生きているかを改めて考えさせることになった。苦悩する世界の中にあって、毎日のように夢多き青春が満たされないうちに次々と散っていく若者の訃報に接し、またその魂が一体いずこへ行ってしまうのかについて明確な概念をもたないまま嘆き悲しむ妻や母親たちの姿を見て、突如、私はこれまで自分がだらしなく引きずってきた問題(物理的心霊現象)は、実は物質科学が知らずにいるエネルギーが存在するとかしないとかいった呑気なものではなく、この世とあの世との壁を突き崩し、この未曾有の苦難の時代に人類に用意された霊界からの希望と導きの呼びかけなのだという考えが閃いた。これは大変なことなのだと気がついた。そう思った私は、客観的な現象への興味が薄らぎ、それが実在するものであることさえ確信すれば、それで、その現象の用事は済んだのだと考えた。それよりも、それが示唆している宗教的側面の方がはるかに大切なのだと思うようになった。
電話のベルが鳴る仕掛けは他愛もないが、それが途方もなく重大な知らせの到来を告げてくれることがある。心霊現象は、目を見張るようなものであっても、ささいなものであっても、電話のベルにすぎなかったのだ。それ自体は他愛もない現象である。が、それが人類にこう呼びかけていたのだ――“目を覚ましなさい! 出番にそなえなさい! よく見られよ、これが“しるし”なのです。それが神からのメッセージへと導いてくれます”と。
本当に大事なのはその“しるし”ではなく、そのあとにくるメッセージだったのである。新しい啓示が人類にもたらされようとしていたのである。それが果たしていつのことなのか、どの程度のものがどれぐらいの鮮明度をもってもたらされるかは、誰にも分からなかった。
しかし大切なのは――現象そのものの真実性は、まじめに取り組んだ人には一点の疑念の余地もないまでに立証されているが、実はそれ自体は重要ではなく、その現象が示唆しているものが、それまでの人生観を根底から覆し、生命の死後存続という宗教的課題がもはや“信仰”の領域のものではなく、確固たる“客観的事実”となってしまうに違いない――ということである。” P50

 

つねに新しい側面が台頭しています。物理的心霊現象がおもむろに後退し、心霊治療と霊的教訓という高等な側面がそれと取って代わりつつあります。地上の人類の進化のサイクルが変わりつつあるからです”(九巻)P165

 

参照:「心霊と進化と」(A・R・ウォレス著、近藤千雄訳 潮文社発行)からの抜粋
●ケンブリッジ大学の天文学教授Prof.J.Challisはたぶん私の知るかぎりでは、現象を実際に観察せずに資料だけを検討してその真実性を信じた唯一の学者であろう。宗教誌Clerical Journalに寄せた書簡の中で教授はこう述べている。

 

「私はテーブル現象の実在を個人的観察に基づいて信じる根拠は持ち合わせていないのですが、数多くの出典や証言者から寄せられる膨大な量の証拠には抗しきれるものではありません。
イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ合衆国、その他キリスト教諸国のほとんどがそれなりの証拠を手にしております。 (中略) 要するに証拠がこれだけ豊富でこれだけ一致している以上、事実を報じられている通りに受け入れるか、それとも人間の証言によって事実を立証することの可能性を放棄してしまうかの、いずれかを選択しなければならないでしょう。」 P110

 

●私(ウォレス)は今や心霊現象の実在は、事実を証明するための唯一の方法、すなわち正直で偏見のない、しかも慎重な観察者の共通した証言によって完膚なきまでに証明つくされていると主張する。 (中略) その中にはありとあらゆる社会的地位の人、知力においても才能においてもあらゆる階層の人がいる。しかも真剣に検討した者でその実在を否定した人は一人もいないのである。こうした事実は明らかに新しい真理(霊的摂理)の存在を物語るものであった。決して妄想やペテンではない。故に心霊現象の存在は証明されたのである。 P116

 

●私自身はこれまで紹介した事実の真実性と客観的実在性を固く信じており、それ故、いやしくも事の真相を知らんと欲する科学者であれば、勝手な意見を述べる前に、一日わずか二、三時間をかけて二、三ヵ月も調査すれば必ずや私と同じ確信を得ることができることを誓って断言するものである。というのも、繰り返していうが、これまでそうした実際の調査に携わった人で確信を得なかった人はいないのである。 P132

 

●いかなる分野においても例外なくいえることは、それに先立つ研究結果がのちに確認されるということは大いにその価値を増すものとされ、最初の研究が受けたのと同じ不信感をもって迎えられるということはないということである。しかもそれがその後三人ないし四人の研究者によって確認され、しかもそれを否定する側には単なる理屈という消極的な証明手段しかないとなると、これはもはや――少なくとも暫定的には、そしてそれを上まわる証拠が提出されるか、前の研究者たちの誤りが明確に指摘されるまでは――事実が完全に証明されたと見なしてよい。クルックス博士の四年にわたる研究は前研究者たちが過去二十五年にわたって各地で、そして各種の条件のもとで、繰り返し確認してきたものにほとんど全ての点において決定的な確認を与えたのである。その観点において、たった一人の研究者による最初の研究結果とは比べものにならない価値があるといえる。ところが妙なことに、スピリチュアリズムの分野においては、こうした幾人もの研究者による成果をあたかも初めての研究であるかの如く扱い、それでも気にくわないとまた新たな研究を求めるという傾向がある。 P197

 

●そうした否定論者の説や態度については折にふれて言及してきたが、共通していえることは、われわれ肯定派が霊魂説を立証するために行ってきた長年の実験、研究、推論や、それに傾けた真摯な情熱に比して、純粋な学者的良心や誠意が全く見られないということである。一例を挙げれば、ウィリアム・クルックス博士といえばその名を知らぬ者のない世界的科学者であるが、その博士が四年の歳月をかけて実験研究した結果を英国学士院で発表したとき、だれ一人それをメモする者がなく、また博士の研究室へ招待しても一人として訪れた人がいなかった。さらにその成果を「スピリチュアリズム現象の研究」と題して世に問うた。これは心霊学史上に一大エポックを画するもので、その意義は測り知れないものがあるが、批判家連中にはそれを確認してくれる博士以上の証言者が必要だといい、その確認がないと信じるわけにはいかないと主張する。クルックスという科学界の第一人者の研究成果を前にしながら、それを認めるのに更に新たな確認を要求するとはいったいどういうことであろう。いったいだれが確認すればいいというのであろう。現実には世界各地で次々と一流の知識人によって確認されているのである。例えば米国では最初の化学者ロバート・ヘア教授によってまず確認され、二年後には最高裁判事のエドマンズ氏が綿密な研究によって真実であると断言し、続いて二人目の化学者メイプス教授が確認した。フランスでは、1854年にまずガスパリン伯爵が確認し、以後第一級の天文学者、数学者および化学者によって確認された。スイスでは1855年にサーリー教授が確認した。当地英国ではデモーガン教授、L・ロバートソン博士、T・A・トロロープ氏、R・チェンバーズ博士、コックス氏、C・F・バーレー氏、それに懐疑派の弁証法学会の調査委員会までがその大部分の真実性を確認した。そして最後にそれを決定づけるものとしてクルックス卿が四年にわたる二人の霊媒を使っての独自の研究でほぼその全てを真実であると断言した。これには写真という主観性の入る余地のない物的証拠も入っていた。これに対して否定論者はいったいどれだけのことをして何を提供したのか。彼らはただ憶測による勝手な説を立てるだけで、何一つ根拠となるべき証拠を提供したためしがない。筆者(ウォレス)にいわせればもはやこれ以上心霊現象を追試する必要はない。殊に心霊実験は手品ではないか、まやかしではないかといった疑惑のうえに立った調査はもう時代おくれである。つまり心霊科学も、他の既成科学と同様に、決定的な立証を得たとみて差し支えないと主張したいのである。従ってこれ以上必要なのは心霊現象の真偽を検討することではなくして、新しい論理的帰納または演繹という前向きの姿勢である。これを要するに、霊魂の実在を証明する段階は過ぎ去って、これからはその画期的な事実をもとにして、人間とは何か、霊界とはいかなる世界か、道徳観は在来のままでいいのかといった哲学的および宗教的な面まで発展させていくべきだというのが私の考えなのである。P224

 

●本書を締めくくるに当たって読者に心からお願いしたいことは個々の事象の細かいせんさく――私によるこの程度の簡単な紹介では十分とはいえないかもしれない証拠のあら探しで終わることなく、その証拠全体の範囲の広さと、それが有するさまざまな意義に目を向けていただきたい。私による説明不足の証拠そのものではなしに、その証拠が生み出す重大な意味に注目していただきたいのである。また、懐疑心から調査を始めて結局は熱心な唱道者となったそうそうたる知識人の数の多さに注目していただきたい。そして、その人たちが一度は遭遇する不遇な立場を克服してきた、その堂々たる真理探究者としての姿勢を評価していただきたい。
またそうした真摯な探究者がかって一人として現象の真実性を否定する結論に達した例がないという事実に着目していただきたい。そして最後に、人類史上の一連の奇跡的現象についてスピリチュアリズムが解き明かす原理と、そこから帰納されるところの崇高にして理にかなった来世観をとくと検討していただきたい。
以上の私の願いにこたえてくだされば、私がひたすら目指してきた成果が達成されることになろう。即ちそれは、これまでこの分野を取り巻いてきた偏見と誤びゅうを取り除き、事実は事実として、先入観をもたずに根気よく自ら検討してみる気持ちになっていただくことである。
真理は自らの手で発見しなければならないというのがスピリチュアリズムの大原則なのである。また聞きの証拠などで信じてはいけない。と同時に、根気と正直と、恐れを知らぬ真理探究心をもって検討することなしに事実を拒否してはならないということである。 P245

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(平成30年5月)

“ナザレのイエスとシルバーバーチ”―新しい地球の夜明け―(平成30年4月22日)(雑記


今回は2018年4月の読書会用のテキストを整理し、大変長文になりますが、“新しい地球の夜明け”という我々地上人類にとってとても重要な内容につながるナザレのイエスとシルバーバーチの役割について述べてみたいと思います。


「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」(ヨハネによる福音書14:12)


十字架上の死を目前にしてイエスの語ったこの“もっと大きいわざ”の真の意味が、シルバーバーチによって始めて解き明かされました。


-シルバーバーチの語るイエス像とイエスの使命-
〈質問〉 シルバーバーチの霊訓 (九巻) P138より
一牧師からの投書が読み上げられた。
シルバーバーチ霊はイエス・キリストを宇宙機構の中でどう位置づけているのでしょうか。
また〈人間イエス〉と〈イエス・キリスト〉とはどこが違うのでしょうか。


〈返答〉
ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の預言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。
イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。
他のすべての人間と変らぬ一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦れきの下敷きとなっていた基本的な(霊的)真理のいくつかを掘り起こすことでした。 (キリスト教も教義による呪縛によってユダヤ教とまったく同じ運命をたどっている。キリスト教徒は世界人口75億人に対して22億人)
そのために彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して(物理的)心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。
またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理(霊的摂理)を説くことを始めたのです。それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大へんな改ざんがなされていることです。ずいぶん多くのことが書き加えられています。(西暦325年のニカイア会議でナザレのイエスは神とされ、それに基づいて聖書が改ざんされた。)ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話はぜんぶ割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。
もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後いっそう開発された霊力を駆使して、愛する人類のために働いておられるのです。A) イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。
いくら立派な位であっても、本来まったく関係のない位にイエスを祭り上げることは、イエスに忠誠を尽くすゆえんではありません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“大霊”は同一義であって置きかえられるものである(三位一体説)などと主張しても、イエスは少しもよろこばれません。イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にヒザを折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。” 


A)は、イエスをリーダーとする地球人類救済のための大霊団に関連する内容 )
①~⑤は、“もっと大きいわざに”に関連する内容 )


この“さらにそれ以上のことをする”やイエスの語った“もっと大きいわざ”が、DD・ホームやエドガー・ケイシー、ハリー・エドワーズなどの物理的心霊現象やスピリチュアル ヒーリングのことを指していないことは明らかです。それらの心霊現象は目的のための手段にすぎないからです。
以上、本文トップの聖書のイエスの言葉と、シルバーバーチがイエスという人物像に関して語った上記霊訓の内容を以下箇条書きにして整理しますと、


ナザレのイエスは、
・わたしを信じる者は、わたしのしているわざをするであろう
・霊的指導者(一連の預言者の一人)でした
・イエスを通して空前絶後の霊界からのインスピレーション(霊的摂理・叡智・霊力)が地上に流入した
・イエスの使命は基本的な(霊的)真理を掘り起こすこと
・まずは自分へ注目を惹くことをした(物理的心霊現象やスピリチュアル ヒーリング)
・次に、霊の真理(霊的摂理)を説くことを始めた
・同じ霊(ナザレのイエス)が今なお地上に働きかけている(霊的真理の普及活動)

 

-イエスの教え(霊的知識)は時代に先行しすぎた-
〈質問〉 (九巻)P142・・・
イエスの教えがその時代の人間にとっては進み過ぎていた――だから理解できなかった、という観方は正しいでしょうか。


〈返答〉
そうです。おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。” 


“愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛はかならず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。 (中略) どうもうまく説明できないのですが、イエスも生を受けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事ができる時代が来ると述べた意味がなくなります。” ④ (九巻)P145


≪上記霊訓の解説≫ イエスの語った本文トップ(ヨハネによる福音書14:12)の真の意味とは


1.“もっと立派なそして大きな仕事”
イエスのいう“もっと大きいわざ”とは空前絶後の心霊現象のことや、キリスト教が考えている他地域への広範囲な布教活動のことではなく、シルバーバーチの語る“大きな仕事”のことであり、それは“地上で為し得る最も偉大な仕事”(九巻 P82)、すなわち人類の進化に見合った当時よりもさらに進んだ霊的真理を地上世界に広めることを指しています。
当時のナザレのイエス時代のユダヤ教同様、現在においてもキリスト教の教義によって霊的真理が瓦れきの下敷きになっており、結果として地上人類は霊的無知の牢に長い間閉じ込められたままです。この霊的無知という暗黒の地上世界にあって、当時よりももっと進んだ霊的真理を広めるということは、時代に先行しすぎて受け入れられなかった当時のナザレのイエスよりも“もっと大きいわざ”が霊界の使節として特別の霊能者でもない我々スピリチュアリストにもできるということになります。


また、“父のみもとに行くからである”ということは、霊界に戻り大霊団を組織して地球人類救済運動のリーダーとして霊界から霊的真理の普及活動のために働くという意味です。A)


2.“時代が来る”
シルバーバーチはこの“時代が来る”ことに関して(九巻)P23で次のように語っています。


“(20世紀のこの時代はイエスの時代とは)世の中は変わっており、霊的叡智に耳を傾ける人が増え、霊力の受容力が増しております。霊的真理も大きく前進しました。” (九巻)P23


しかしながら、“一方ではその間違った教えによって傷ついた人、(霊的)無知の牢に閉じ込められている人、永遠の苦悶と断罪の脅迫によって悲惨な生活を強いられている人が無数にいるからです。”
(九巻)P150


とも語っています。ここで語られた“永遠の苦悶と断罪の脅迫”とは、主に以下の1~4のキリスト教の教義による呪縛のことを指します。


-霊的無知という牢獄に再度人類は入れられる-
【キリスト教の教義による呪縛】 ⇒ 以降は霊的真理による

  1. 贖罪(アダムとイブによる原罪:十字架の贖いによりイエスが我々の罪の身代わりとなる)
  2. ⇒ 宇宙の根本原理である“原因と結果の法則”すなわち因果律に反する教義である


  3. イエスを信じる者は永遠の命を得る(最後の審判、復活、天国と地獄)
  4. ⇒ 人間の本体は霊魂であり、元々永遠不滅の生命を有している


  5. イエスは三位一体の神である
  6. ⇒ ナザレのイエスは一人の人間である


  7. 神 対 サタンという善の代表の神に敵対する悪の代表サタン(堕天使ルシファー)の存在
  8. ⇒ そもそも悪魔サタンなるものは創作物で存在しない
    人間には元々善悪の心(相対比較)があり、自由意志の行使(自己責任)によって霊的成長(因果律)ができるようになっている

-今のイエスは-
それでは永遠不滅の霊魂として今も生き続けている“ナザレのイエス”は、今どうしておられるのでしょうか? 以下、シルバーバーチの霊訓から引用します。


“イエスはその後も私たちの世界(霊界)に存在し続けております。イエス直々の激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手がけられた仕事(霊的真理の普及活動)の延長ともいうべきこの大事業の総指揮A)に当たっておられるのが他ならぬイエスであることも知っております。” (三巻)P104


“その大審議会を主宰される、かって地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれた人物が、わたしたちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的を持って邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し、聞き、そして感じ取らせてあげられればと思うのですが、それができないのが残念です。もとよりそれは、キリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない霊を通して人類に働きかけておられる一個の偉大なる霊なのです。”(シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ P244 スピリチュアリズム普及会発行)


-シルバーバーチの役割は-
次に、シルバーバーチの役割について述べてみたいと思います。


“ずいぶん前の話になりますが、他の多くの指導霊と同じように私も、地上圏に降りて協力者の一団を集め、霊的メッセージ(霊的真理)を地上界へ届ける仕事を引き受けてくれないかとの懇請を受けた時、私はそれを使命としてお引き受けしました。そのためにはメッセージを受け取ってくれる霊媒を探し出す必要があることも知らされました。そこで私は霊界の記録簿を調べ、この霊媒(モーリス・バーバネル)に白羽の矢を立てました。”
(シルバーバーチは語る P22 スピリチュアリズム普及会発行)

私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けB)を少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界の波長に近づけて降りてまいりました。(1900年頃)
その目的は、神の摂理(霊的真理)を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることができることを教えてあげたいと思ったからです。” (九巻)P21


B)は、“新しい地球の夜明け”に関する内容 )


“私が直面した最大の難問は、同じく地上に戻るにしても、人間が納得する(死後存続の)証拠つまり物理現象を手段 心霊現象とするか、それとも(霊界通信による)真理の唱道者となるか、そのいずれを選ぶかということでした。結局私は難しい方を選びました。
自分自身の霊界生活での数多くの体験から、私は言わば大人の霊、つまり霊的に成人した人間の魂に訴えようと決意したのです。真理をできるだけ解りやすく説いてみよう。常に慈しみの心をもって人間に接し、決して腹を立てまい。そうすることで私がなるほど神の使者であることを身をもって証明しよう。そう決心したのです。
同時に私は生前の姓名は絶対に明かさないという重荷をみずから背負いました。仰々しい名前や称号や地位や名声を棄て、説教の内容だけで勝負しようと決心したのです。
結局私は無位無冠、神の使徒であるという以外に何者でもないということです。私が誰であるかということが一体なんの意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、私の誠意が、そして私の判断が、暗闇に迷える人々の灯となり慰めとなったら、それだけで私はうれしいのです。
人間の宗教の歴史を振り返ってごらんなさい。謙虚であったはずの神の使徒を人間は次々と神仏にまつり上げ、偶像視し、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。私ども霊団A)の使命はそうした過去の宗教的指導者(ナザレのイエスなど)に目を向けさせることではありません。そうした人たちが説いたはずの本当の真理(霊的摂理)、本当の知識、本当の叡智を改めて説くことです。それが本物でありさえすれば、私が偉い人であろうがなかろうがそんなことはどうでもよいことではありませんか。
私どもは決して真実から外れたことは申しません。品位を汚すようなことも申しません。また人間の名誉を傷つけるようなことも申しません。私たちの願いは地上の人間に生きるよろこびを与え、地上生活の意義はいったい何なのか、宇宙において人類はどの程度の位置を占めているのか、その宇宙を支配する神とどのようなつながりをもっているのか、そして又、人類同士がいかに強い霊的家族関係によって結ばれているかを認識してもらいたいと、ひたすら願っているのです。” (九巻)P18


なるほど神の摂理が働いているということを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとしているだけです。(霊的摂理への信頼や自信、信仰へとつながる生き方) (中略) 世の中は変っており、霊的叡智に耳を傾ける人が増え、霊力の受容力が増しております。霊的真理も大きく前進しました。  (中略) かつては悲しみに打ちひしがれていた心が今ではよろこびを味わいはじめています。光明(霊的真理)が暗闇(霊的無知)を突き通したのです。かつては(霊的)無知が支配していたところに(霊的)知識がもたらされました。B) (九巻)P23

 

-時代背景のマトメ-
当時のナザレのイエスの教えは時代に先行しすぎた(パレスチナ) 1世紀


⇒ 弟子たちがイエスの教えを広める(ローマ) 


⇒ ユダヤ教同様、キリスト教の教義により再度霊的真理が下敷きとなって、霊的無知という牢に閉じこめられ暗闇の地上世界が長く続く(世界中) 


⇒ 地球人類救済運動A) として霊的真理普及活動の再開:物理的心霊現象の発生
(1848年 米国 19世紀


霊界の科学的証明がなされる(1900年前後 英国

 

⇒ シルバーバーチがイエスより遣わされA) 霊界通信によって霊的摂理を物質界に降ろす
(1950年前後 英国) 20世紀


⇒ 霊的知識を基盤とした“新しい地球の夜明け”が始まる(一神教でない国 日本B)21世紀


-解説-
シルバーバーチ自身が語っているように、この“新しい地球の夜明け”はもうすでに始まっています。(九巻 P23)シルバーバーチが霊的真理の光を降ろし始めたことが霊的無知という暗闇からの“夜明け”の始まりなのです。
従って、ニューエイジャーが考えているようなアセンションすなわち次元が上がるということは決してありません。また、あたかも宇宙人がやって来て、宇宙船(現代版ノアの箱舟)が必要となるような急激、且つ、劇的な地球規模の地殻変動なども決して起こりません
要は物質界(現象世界という地上世界)と我々の他界後に待ち受ける霊界(元来た実在の世界)との関係の理解が肝心要であり、永遠不滅の“本当の自分”(霊魂)を知るという霊的な覚醒や、その後の霊的摂理の学びによる霊的成長を抜きにしての“人類の救済”劇はまったく意味のない、空想の作り話にすぎないのです。
繰り返しますと、“新しい地球の夜明け”をもたらすためにイエスを総指揮者とする大霊団からシルバーバーチが派遣されて霊的真理が降ろされ、その霊的真理の学びを通して我々個々人が“本当の自分”(霊魂)を知り、霊と霊との交霊関係(本当の自分と守護霊・指導霊)を一人ひとりが意識し、この地上世界でインスピレーションや導きを受けながら一歩一歩少しずつ霊的成長を始めるということが地上人生の目的なのです。何千年と長く続いた「霊的無知の時代」から地上人類は「霊的知識によって霊的成長を始めるという新しい時代」に入ったということです。


遠い昔から人間は地球の悲劇の予言をいくつもして来ました。地球の終末の日時まで告げているものもあります。(その一つとして)そこへキリストが再臨して人類を救うというのがキリスト教の信仰のようですが、そういうことにはなりません。キリストは二千年前に地上での使命をきちんと終えています。今は私の住んでいる同じ霊界においての使命に精励しておられます。それが今われわれのたずさわっている霊的真理普及の活動の指揮・命令です。A)
地球が一夜のうちに破滅することはありません。宇宙の大霊が無限の愛と叡智とをもって摂理を案出し、それによって巨大なもの、微細なもの、複雑なもの、単純なものの区別なく、存在のあらゆる側面を経綸しているのです。それは一歩一歩の進化という形で働くのであって、大変革によって一挙に行われるのではありません。” (十巻)P191


“幸いにして地上での神の計画の一部を知ることを得た私が絶対的確信をもって申し上げますが、霊力はすでに地上に根づいております。(中略)すぐれた霊の道具の出現によって世界各地に霊力の前進基地がすでに設けられ、今その地固めが行われているところです。”
(九巻)P157


-新しい地球の時代の交霊関係-
そして今でもシルバーバーチ霊は生きた存在として、霊的真理の普及という地球人類救済運動の大霊団の一員として霊訓やインスピレーションを通して我々に働きかけ、直接間接を問わず我々の問いかけに応えてくださっているのです。


 “私のことを、この交霊会でほんのわずかな時間だけしゃべる声としてではなく、いつも皆さんのお側にいて、皆さんの霊的開発と進化に役立つものなら何でもお届けしようと待機している、脈動する生きた存在とお考え下さい。B) (九巻)P25 


形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係――これが最高の交霊現象です。B) (九巻)P149


これが霊界主導で「霊的真理」という光が不退転で霊的無知という暗闇の地上世界を照らし始めたという“新しい地球の夜明け”の真の意味なのです。

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(平成30年4月)

“心配は摂理への信頼に反する不信行為”(平成30年4月1日)(苦難・試練)


これまで人間である限り誰でも経験する“苦難”や“劣等感”、“自信とは”等を、できるだけシルバーバーチの霊訓に基づきスピリチュアリストの立場から寸感で取り上げてきました。
お互い明日は何が起こるか分からない人生です。そこで今回はそれら一連の仕上げとして、これも誰でもが日常親しんでいるところの“何となく常に不安感が心の奥底にある”ということも含めて、心配や不安、取越苦労などの問題を霊訓に基づき再度取り上げてみたいと思います。


【霊的摂理への理性的信仰を土台とする自信の大切さ】
霊的摂理は永遠不変で、不完全な我々はその絶対的な宇宙の法則・霊的摂理にご自分の自信を置くべきだとお話しました。未だ経験したことがなく未知なことも、これまでの霊的知識や体験から知り得たことを基盤にして、完全な摂理・自然の法則への理性的な信仰(信念)によって心配を自信に置き変えていくということでした。


あなたの人生思想の根幹となるべき霊的知識にまず絶対的な自信を置くことです。そしてその知識だけでは処理できない事態が生じた時は、それに信仰(信念)を加えるのです。手にされた知識を根拠とした信仰です。信仰心も、筋が通っていて論理性があり、納得のいくものであれば、それなりの効用はあるものです。背後霊の存在を信じることです。機が熟した時に必要な援助があります。条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果を生じさせる力があります。” (十一巻)P33


 “その大霊がお二人に要求されているものは忠誠心であり、協調的精神であり、一途さであり、信頼心であり、そして(霊的)知識が生み出す信仰心を土台とした絶対的な自信です。” (九巻)P88 (自分自身に対してではなく、神・摂理への信仰に基づく自信であることに注意してください。)


“美と豊かさと荘厳さと威厳と光沢と気高さと光輝とにあふれた霊力そのものには際限というものはありません。ただ、人間がこしらえる条件によって制約されるのみです。どうか信念に裏打ちされた、とらわれのない通路、安易に信じるのでなく、これまでに得た知識を基盤とした信念――進化の現段階では無限の知識を手にすることが不可能である以上、どうしても必要となる信念(信仰)に燃えた通路であってほしいのです。” (九巻)P192


“私たちが基本的原理のいくつかを確信をもって明言できるのは、それらが永遠の実在に基づいているからにほかなりません。もしも地球が地軸上の回転をやめるようなことがあったなら、あるいは汐が満ちるべき時に満ちてこず引くべき時に引かないようなことがあったなら、あるいは又、星雲が回転のパターンからはずれるようなことがあったら、私はこれほどの確信をもって説くことはできないでしょう。が、大霊は全知全能であり、その霊力の働きは完全無欠です。そこで私はその霊力に全幅の信頼を置く者に決して挫折はないと確信をもって申し上げるのです。” (九巻)P195

 

では次に、霊的知識が生み出す理性的な信仰心を土台とした絶対的な自信に関して、我々スピリチュアリスト自身が分かっているようで、それでいて自覚の少ないとても大切なことがあります。それをシルバーバーチの霊訓を引用しながら以下述べてみたいと思います。


【心配してはいけません】
“自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全大宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。少しも事態を改善することにはなりません。” (十一巻)P111


“万が一やる気を無くするようなことがあったら――人間なら時には意気消沈することがあるものです――その時はいったん歩みを止めることです。そしてそれまで奇跡ともいえる形で成し遂げられてきたことを振り返って、これだけのことが成就されてきたのなら、これから先もきっとうまく行くはずだという認識をもつことです。あなたに要求されることは、そこまであなたを導いてきた霊力に対する絶対的な忠誠心と自信とをもってあなたの責務を全うすること、それだけです。あなたなりにベストを尽くすことです。あなたの力の範囲内で出来るかぎりの努力をなさることです。恐れるものは何一つありません。困難はあります。が、それもきっと克服されます。” (九巻)P94

                                         
“精神と肉体と霊とが正しい連繋関係にあれば、仕事上の心配も、そのほか何の心配も生じません。心配する魂はすでに調和を欠いているのです。霊的実在についての知識を手にした者は心配をしてはなりません。取越苦労は陰湿な勢力です。進化した魂には縁のないものです。あなたはそれを仕事上の心配と呼び、私は不調和状態と呼んでいるのです。自分が永遠の霊的存在であり物質界には何一つ怖いものはないと悟ったら、心配のタネはなくなります。”(九巻)P182


“挫けてはなりません。いかなる事態にあっても、不安の念をカケラほどでも心に宿すようなことがあってはなりません。今日まで支えてきた力は、これからも決して見棄てるようなことはしません。絶対に裏切ることはありません。もしあるとしたら、この宇宙そのものが存在しなくなります。その根源的なエネルギー、存在の支えそのものが不在となることがあることになるからです。” (九巻)P89


皆さんのような霊的知識を手にされた方が悩んだり、心配の念の侵入を許して取越苦労をするようではいけません。霊的知識があるからこそ、いかなる心配、いかなる悩み、いかなる不安にも、皆さんの精神的・身体的・霊的環境の中への侵入を許してはならないのです。心配、悩み、不安―こうしたものは援助の力の通路そのものを塞いでしまいます。” (九巻)P192

 

【心配は摂理への信頼に反する不信行為】
以上、改めてよくよく見てみますと、交霊会で参加者に向かってシルバーバーチは何度も、何度も“心配してはなりません”と繰り返し述べています。交霊会の参加者をはじめ我々はあまりにも日常茶飯事に長年にわたって親しんできたために、心配はあるのが当たり前という習い、性とさえなっています。
心配の念がいけないのは、それが障壁(バリアー)となって霊界からの援助・導き・霊力やインスピレーションが届かず、そのことに気づけないからです。例として、内にこもる“うつ”の状態がその典型的なケースであり、イメージとしてそのことをとても理解しやすいと思います。


“確固たる霊的知識に裏うちされた完ぺきな信頼と自信と信仰(信念)とがある時はその通路が開かれており、受容性が高いのですが、そこへ不安の念が入り込むと、とたんに雰囲気が乱れて、通路を塞いでしまう要素が生まれます。取り越し苦労は無知の産物です。霊的知識をたずさえた者が不安の念を抱くようなことがあってはなりません。” (十一巻)P47


地上世界では利己主義から利他主義まで幅広くいろいろな考え方をする人間が混在しています。そのため個々の価値観も異なりエゴ同士の衝突やあつれきが起こるのが当たり前で、結果として人間である限り心配や不安、取越苦労はつきものです。が、スピリチュアリストはそれを神・摂理への信仰(信念)で突き放すこと、追い出すことが求められています。それが霊的摂理を知った者の義務・責任だとシルバーバーチは明言しています。そして心配をしてはならない理由として、シルバーバーチは背負いきれないほどの荷は決して負わされず、守護霊や指導霊が常に寄り添い守り、克服して霊的に成長できるように導くからと何度も述べています。(九巻)P210
従って、このことを霊的知識として知っていながら相変わらず心配をするということは、気づかなかったとはいえ霊的摂理への信頼や義務・責任に反することを実践していることになるのです。


いかなる(霊的)知識にも、それをいかに活用するかについての責任が付加されます。それはあなたへの一つの信託がなされたということです。その信頼を裏切ってはなりません。あなたがその知識(叡智・悟り)を得るにふさわしい人間であったと同時に、これから先あなたに受け入れる用意ができた時に授けられる次の段階の知識に対しても十分な資格があることを、 あなた自身の生活の中で身をもって示さなくてはいけません。” (九巻)P135

 

霊的知識をいかに活用するかの責任には、当然のことながら心配・不安・取越苦労に対するスピリチュアリストの対応も含まれます。
さらなる次のステップへと成長するための霊的知識を得る資格をもつためには、日常生活の中で身をもって霊的摂理を実践する行為が必要であり、霊的摂理への信頼の有無が正に問われてくることになるのです。
霊界側から霊視すると信仰が肉眼では見えない波長の実践行為であるのと同様、不安、心配、取越苦労も又肉眼では見えない実践行為そのものなのです。
とても重要なことですので再度繰り返しますが、絶対的な摂理・法則に対してというよりも、自分自身に自信がないから心配するのであって、そのことは霊的摂理の中で“心配してはいけません”と述べられていることが無意識の中とはいえまるで他人事のようで、その霊的知識を日常生活に生かしていない、すなわち実践していないという何よりの証となります。
残念ながら、一旦、苦難に直面するとすぐに心配や不安、取越苦労をついついしてしまうということが、霊的摂理への信託や信頼を裏切っていることになる、すなわち見捨てているという自覚がなく、そのことに気づいてさえもいないのではないでしょうか。


“もしも皆さんの行く手に暗い影がよぎるようなことがあったら、もしも困難がふりかかったら、もしも疑念が心をゆさぶり、不安が宿るようなことがあったら、そうしたものはすべて実在ではないことを自分に言い聞かせるのです。翼を与えて追い出してやりなさい。
この大宇宙を胎動させ、有機物と無機物の区別なく全生命を創造した巨大な力、星も惑星も太陽も月もこしらえた力、物質の世界へ生命をもたらし、あなた方人間の意識に霊性を植えつけてくださった力、完璧な摂理として全生命活動を支配している力、その大いなる霊的な力の存在を忘れてはなりません。その力は、あなた方が見捨てないかぎり、あなた方を見捨てることはありません。その力をわが力とし、苦しい時の避難所とし、心の港とすることです。神の愛が常に辺りを包み、あなた方はその無限の抱擁の中にあることを知ってください。” (九巻)P26

 

―マトメ―
取越苦労や不安、心配をしないためには、霊的摂理への信頼が生み出す信仰心が絶対に必要となります。


“人生には二つの大切な要素があります。一つは(霊的)知識であり、もう一つは信仰(信念)です。(霊的)知識の裏付けのない信仰は“折れた葦”(マタイ12・20)のようなものです、いざという時に頼りになりません。が、(霊的)知識に信仰を上のせする――これが最高の組み合わせです。” (十一巻)P136

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(平成30年3月)

“スピリチュアリストにとっての“自信”とは”(平成30年2月26日)(人生の目的)


スピリチュアリストにとっての“自信”とは一体どういうものでしょうか?

 

私達は間違いや失敗を犯しやすく、完全にはほど遠くて心が常に不安定なひ弱な存在です。とても自分自身に大きな自信を持てない人がほとんどだと思います。自分自身にすら自信が持てないものを、他人にその完全性を求めることが果たして出来るのでしょうか?

 

地上世界では死んだら終わりと考えている人がほとんどで、その限られた人生を謳歌するためにはどうしてもお金や物、健康に頼ることになり、また、特に男性にとっては社会的地位や権力が自己の存在理由を確かなものにすると信じきっております。そして、それらが自己の確たる自信の裏付けにもなっています。
しかしながらたとえ自信があったとしても、自分自身はいうに及ばず、他人の心はとても移ろいやすく不安定でまったくあてにならず、また、立ち位置は違ってもお金は不十分が常であり、仮にあってもお金では買えないものも多々あります。さらに高齢ともなると健康には常にビクビクしていなければなりません。競争社会で必死の思いで勝ち取った社会的地位や権力も組織があるからこそその担保となるのであって、いつまでも組織にしがみついていることも出来ません。組織を離れると“ただの人”というのがほとんど全員です。このような中で不動の自信をもって人生を力強く生き通すということは並大抵ではありません。そのため“勝ち組”と考えられている社会的成功者に習えという本を始めとして、自信のない人向けにいろいろとハウツウものの本が山ほど書店に並んでいます。さらには、幸運の“引き寄せの法則”や“お金を呼び込む方法”などスピリチュアル関係の書棚にすらいっぱいに並ぶぐらいに神さま頼みが大流行です。
唯物主義・物質科学万能の世界、すなわち“相対の世界”という地上世界では善悪、幸不幸、運不運などの“苦”の側面があるのが当たり前(それを体験して克服し、霊的に成長するために出生してきているのだから)ですから、一難去ってまた一難と常に脅かされて生活しており、明日は何が起こるか分からないような不安定な状況で、まったく心の落ち着く暇がありません。程度の違いはあるにしても、これではひ弱な自分に自信が強く持てないのも至極当然なのかもしれません。

 

さて、前回の寸感では、霊的覚醒者は世間とは物の見方が180度異なってくるとお話しました。死んだら全ては無になるという唯物思想か、はたまた死後も個性を持ったまま永遠に成長し続けるという霊的摂理か、どちらの考えに人生の基盤を置いているのかの違いでそうなるのです。
そのことを“自信”というものにあてはめてみますと、霊的覚醒者は常に揺れ動く不安定な自分自身に自信を置くのではなく、神の顕現としての自然法則、すなわち森羅万象を支配している「宇宙の法則」に絶対の自信をもつということです。これは霊的約束ごとも含めて霊的摂理どおりに働くということを堅く信じ、それを自らの自信の裏付け、担保にするということです。

 

“自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全大宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。少しも事態を改善することにはなりません” (十一巻)P111

 

“自然法則という形での神の定めは無窮の過去から常に存在し、一度たりともその定め通りに働かなかったことはありません。地球が一瞬でも回転を止めたことがあるでしょうか。汐が満ちてこなかった日が一日でもあったでしょうか。昼のあとにはかならず夜が来ていないでしょうか。蒔いたタネは正直にその果実を実らせていないでしょうか。狂いません。神の計画は絶対に狂いません” (九巻)P38

 

同じことの繰り返しになりますが、霊的覚醒者にとっては自己(エゴ・仮我)に自信の基盤を置くのではなく、物質界や霊界など全てを支配している「大宇宙の法則」に自らの基盤を置くことが、イコール自らの自信の強さになるということです。

分かりやすいように具体的な一例を挙げますと、移ろいやすい不安定な自己(仮我)の心が“ああでもない、こうでもない”と心配や取り越し苦労をするよりも、背後霊の守りや困難克服への導き、さらには背後霊から決して見捨てられることはないという霊的摂理の約束の方を信じる、又は努力するということです。霊界から遣わされた高級霊シルバーバーチのいう種々の約束ごとは、我々の方から裏切らない限り絶対に履行されるという霊的摂理に対する信仰(信念)です。

 

“その大霊がお二人に要求されているものは忠誠心であり、協調的精神であり、一途さであり、信頼心であり、そして(霊的)知識が生み出す(神・霊的摂理への)信仰心を土台とした絶対的な自信です。”(九巻)P88(自分自身に対してではなく、霊的摂理に対する自信であることに注意してください。)

 

自らの考えよりも、霊的摂理による導きを優先することができるようになるためには必要な条件があります。それは奇跡的に乗り越えられてきた過去の苦難の経験です。そのことが自分自身にとっての紛れもない霊的導きの確たる証拠、霊的担保となり摂理への信頼、自信につながるからです。

 

“そしてそれまで奇跡ともいえる形で成し遂げられてきたことを振り返って、これだけのことが成就されてきたのなら、これから先もきっとうまく行くはずだという認識をもつことです。あなたに要求されることは、そこまであなたを導いてきた霊力に対する絶対的な忠誠心と自信とをもってあなたの責務を全うすること、それだけです。あなたなりにベストを尽くすことです。あなたの力の範囲内で出来るかぎりの努力をなさることです。恐れるものは何一つありません。困難はあります。が、それもきっと克服されます” (九巻)P94

 

“そして、過去が霊の導きを証明しているように、未来も間違いなくあなたが志願された使命を全うさせてくれるものと信じることです” (九巻)P90

 

挫けてはなりません。いかなる事態にあっても、不安の念をカケラほどでも心に宿すようなことがあってはなりません。今日まで支えてきた力は、これからも決して見棄てるようなことはしません。絶対に裏切ることはありません。もしあるとしたら、この宇宙そのものが存在しなくなります。その根源的なエネルギー、存在の支えそのものが不在となることがあることになるからです” (九巻)P89

 

そうなると不安定な自己(仮我)に自信をおかなくなる、すなわち自己をあてにすることもなく、結果として自己を滅却することになり、自己と他人とを対比する必要もなくなり取り巻く環境の影響を受けることが少なくなってきます。いわゆる地上世界での横の相対的な関係から、実はもっとさらに影響力のある実在世界との上下関係に思考の座標軸が変わってくるのです。具体的にいうと、今ある問題も霊的な目で観て守護霊や指導霊が伝えたい“本当の意味やその隠れていた真の目的”を探ろうとします。

 

次に、霊的摂理の履行にあたってとても大切なもう一つの条件があります。霊訓で述べられている霊的約束を法則どおりに履行するためには、霊的摂理に適合して生きようと努力することが義務・責任として求められてくるということです。(霊主肉従)

 

“(霊的)真理を知ることが自分に対して幾つかの制約を課したことになることに気づくものです。人間の力ではどうしようもない摂理というものに従わねばならないということです”
(九巻)P122

 

以上纏めますと、スピリチュアリストであるにもかかわらず自信がない、あるいは不安・心配・取り越し苦労が絶えないということは、未だ確信がなく強い信頼(信仰)を霊的摂理に置いていない、または希薄だからだということになります。

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(平成30年2月)

劣等感と“地上で為し得る最も偉大な仕事”(平成30年2月3日)(人生の目的)


地上生活で最も大切なのは霊に関わることです。霊が主導権を握るようになるまでは調和も健康も幸福も生き甲斐も得られません” (九巻)P106


劣等感とは一体どういうものなのでしょうか。
人間である限り不完全で、さまざまな間違いや失敗を繰り返し、罪意識、能力不足あるいは身体的・健康的なこと等々、自己を否定する観念が入り乱れて心の中を支配してきます。加えて人間には本能的に他人と自己を比較する(優劣をつける)とても強い性向があります。
そのため己のあまりの非力さに胸が苦しくなってくることもあります。自分とは一体何者なのだろう。そして苦しいことの多い一度限りのこの人生の目的・意義とは・・・。
心の奥底の自分の姿を客観的に観察するということは大変大切なことであり、それが原動力となってその欠点を克服するために努力し、より向上しようとする傾向があります。それ故、誰にでもこのような一種の強迫観念に似たようなものが大小を問わずあるのが当たり前です。だからこそ“足るを知る”ことの大切さが昔からいわれてきているのでしょう。
しかし、だからといって物事は始めからあきらめた方がよいと言っているのではなく、肉体をまとって地上世界にある限り、何事も精一杯の努力をしないことには物事は進化向上せず、額に汗する努力は必要なことです。シルバーバーチが指摘しているように、問題はその視野のピントがずれているところにあるのです。


仮に世間から“勝ち組”と呼ばれていようとも上には上があり、これでよしと自分自身では満足できないものです。ここに劣等感や嫉妬なるものが誰の心の中にも例外なく芽生えてきます。無意識とはいえ反射的に他人の不幸を喜ぶということは、その裏返しでもあるのではないでしょうか。
知らず知らずのうちに唯物主義、物質・科学万能主義が人生の基盤となり、いまだ霊的知識の無い頃の話ですが、私はこのような劣等感、自信のなさでどうしようもないぐらい消極心一辺倒になっていました。
死んだら全ては終わり、という唯物主義世界の価値観を自分自身の土台とするのか、死後も個性を持ったまま永遠に生き続けるという霊的真理に人生の土台を置くのか。この終わりが終わりでなくなる、言い方を変えると、物の目で見るのか、霊の目で見るのか、この違いは様々な局面で180度物事の見方が変ってきます。前提が180度違うのですから、結果も180度違ってきて当然です。肉体をまとったがゆえの地上世界特有の“劣等感”や“嫉妬”、“自信のなさ”もまたしかりです。

世俗的なものはいずれ消滅するのです。束の間のものは、しょせん束の間の存在でしかありません。しかし、霊的実在は永遠です。移ろいやすい物的所有物を絶対と思い込んでいる人は、影を追い求めているようなものです。霊的真理を求めている人は、真に自分の所有物となるものを授かりつつある人です。自信をもって前進なさい霊的知識―大霊の宝石を探し求めなさい” (シルバーバーチの霊訓―スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ P37 スピリチュアリズム普及会発行)


もしも我々一人ひとりの“本当の自分”が神の分霊で永遠不滅の霊魂(個性と意志を持った生命エネルギー)であるならば、そこには自他共に優劣の違いは全く無いはずです。そしてもろもろの世俗的条件や環境、人種の違いは、あくまでも霊的に成長するための今生限りの道具(舞台装置や衣装、役柄に応じた性別や能力など)の違いということになります。だからこそシルバーバーチは、他界では唯一違いがあるのは霊的成長度の違いだけですといっています。これは利他愛の大きさや謙虚さにも比例してきます。
我々スピリチュアリストは、“本当の自分”を知り人生の真の目的を知った上は、価値観が世間一般の霊的真理に無知な考え方、すなわち唯物主義とはまったく異なってしかるべきなのです。いや、真逆といってもよいでしょう。
では、“霊的に目覚めた人”にとって、永遠の視点(霊の目)から観て、この一時の地上世界で為し得る最も生きがいのある、真に価値のある行為、永遠につながる仕事とは一体何なのでしょうか。
ここでシルバーバーチが“地上で為し得る最も偉大な仕事”と明言している仕事があります。以下、その霊訓を引用してみましょう。


地上の悲劇は、霊的真理にまったく無知な人間が無数にいるというところにあります。 (中略) そういう人たちは地上生活の目的が分かっておりません。地上を去るまでにしておかねばならないことについて何の予備知識も持ち合わせません。人生の価値観が間違っておりますから、優先させるものが間違っております。視野のピントがずれております。物事の判断基準が狂っております。生活は不毛で味気なく、自我の開発などとうてい覚束なく、生きる目的というものがありません。いつも迷路の中に生きており、出口が見出せずにいます。あなた方の仕事はそうした地上世界にあって一つの灯台となることです。ぐるぐると絶え間なく光線を放射し、それが闇を貫き、受け入れる用意のできた人に真理の在りかを教えてあげるのです。いつも申し上げていることですが、地上生活の終点に来た時に、たった一人の魂にでも真の自我を見出させてあげることができていたら、それでその(あなたの)人生は十分に生き甲斐があったことになります。 (中略) 地上で為し得る最も偉大な仕事なのです。容易でないことは私も承知しております。しかし、何事も価値あるものは困難がつきものなのです。悲しいかな、数だけは沢山ある現代の教会にも、それはなし得ません。魂に感動を与えることはできません。内部の神性にカツを入れることはできません。が、神の使者には、たった一人でもそれができます。生まれつき霊的能力を授かっているからです” (九巻)P82


“読者のために施しておられる援助の大きさはあなた自身にはお分かりになりません。多くの魂に感銘を与えていらっしゃいます。そしてそれは、地上で為しうる最も偉大な仕事の一つなのです” (九巻)P35


すなわち、地上世界のあまたある仕事の中で、“霊的に目覚めた人”にしかできない、且つ、“地上で為しうる最も偉大な仕事”とシルバーバーチがいっているのは、霊的真理に無知な地上世界にあって霊的真理の在りかを教えてあげることだったのです。 


それも時期が来て、目の前に連れて来られた方だけを対象に伝えればよいのです。あるいはインターネットのプログなどで霊的真理を発信することでもよいのです。特にサークル限定でも何でも無いのです。


これなら何も特別な条件や環境、才能はいらず、“地上で為しうる最も偉大な仕事”は“霊的に目覚めた人”であれば、たった一人でも出来ることなのです。逆に言うと、“霊的に目覚めた人”でないと絶対にできない仕事でもあるのです。だからこそシルバーバーチは、我々に次のように切実に訴えているのです。


“忘れないでいただきたいのは、皆さん方のような地上での道具がなくては、わたくしたちも何も為し得ないということです。皆さんはわたくしたちの闘いのための武具を供給してくださっているようなものです。皆さんの力をお借りする以外に地上には頼りにすべき手だてが何もないのです。喜んでわたくしたちに身をゆだねてくださる人以外に、道具とすべきものがないのです。その道具が多すぎて困るということは決してありません。こちらの世界では、使用に耐えられる人物の出現を今か今かと待ちうけている霊がいくらでもいるのです。わたくしたちの方から皆さんを待ち望んでいるのです”
(シルバーバーチの霊訓―スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ P115 スピリチュアリズム普及会発行)


“あなたも、わたしと同じ立場に立って、発育を阻害された者、挫折した者、精神を歪められた者、未発達者、何の用意もできていない者が、毎日のようにぞくぞくと霊界へ送り込まれてくるのをご覧になれば、多分わたしと同じように、この繰り返しに終止符を打つために何とかして地上を改革しなければ、という気持になられるはずです。” 
(シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音 P67 スピリチュアリズム普及会発行)


凶暴性に満ちたこの病める暗黒の世界にあって、灯台の灯火のごとく霊的真理の普及を心掛けておられる方は全て、誰よりも“地上で為し得る最も偉大な仕事”をしていることになり、死と共に消滅する世間的評価、唯物主義の価値観に基づいた「劣等感」などもつ必要は微塵もない、ということになります。
但し、それは“その栄誉も霊界側からみての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕――神のメッセージの受け皿として選ばれたという意味において、われわれの側にとって有り難い存在ということです”(十一巻)P39 ということも、ふらつかないためにはしっかりと自覚しておく必要があります。
何故なら、“地上で為し得る最も偉大な仕事”ができるというこの物質界で最大の栄光とその価値を真底から我々スピリチュアリストは本当に自覚しているかというと、残念ながら普段我々自身にその自覚がとても希薄なように思われます。日常、たとえ無意識ではあっても他者と比較して「劣等感」を少しでも感じるという自信のなさが何よりのその証拠ではないでしょうか。
それは、地上世界の現象面があまりにも強烈で、肉体に霊魂は強く縛られているからです。まったく言うはやすく、行い難しで、このことも長くたゆまぬ霊的摂理の実践という努力の末に、その自覚と自信が徐々に深まってくるのでしょう。


大変な責任として受け止めないといけませんよ。知識には必ず責任という代価が伴うのです。つまり皆さんは物質界で最大の栄光―霊的知識を人のために役立てることができるという光栄に浴していらっしゃるのです。物質界で大事にされているもの全てが無に帰したあと、お互いのために尽くし合った行為のみが永遠に消えることのない進化をもたらしてくれるのです”
(シルバーバーチの霊訓―スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ P94 スピリチュアリズム普及会発行)


“あなたは他人のために役立つこと(霊的真理の普及)ができるという測り知れない光栄に浴していらっしゃいます。それがあなたにとって地上における最大の貢献です。あなたはそのために生まれて来られたのです” (十一巻)P31

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(平成30年1月)

スピリチュアリストにとって“苦”とは何だろう(平成29年12月25日)(苦しみ・試練)


地上には何一つ頼れるものはないとの心境にまで落ちて初めて霊的真理を求め、“本当の自分”に気づかされる体験を数多くのスピリチュアリストはお持ちのことと思います。私もそうでした。しかしながら、このようなドラマティックな大きな転換点に限らず、その後も大なり小なり様々な苦の体験が人生には伴ってきます。できることなら苦は避けたいと思うのが人情ですが、実はこの苦がないと霊的摂理の真の意味は理解できず、摂理の確信に至るまでには繋がりません。一言でいって、日常生活で苦の体験がないと霊的真理が単なる知識レベルに留まってしまって、決して身につかないのです。ということは霊的自我の開発が進まないということです。もっと言えば、霊的真理を求める探求の道はそう長くは続かないだろうと思います。
苦の中で霊的摂理を実践するという実体験を通してこそ、真に摂理を理解し自分のものとすることができます。当然です、霊的摂理にしがみつく真剣度が自ずと違うからです。人間関係や日常のさまざまな出来事など、苦に満ちたこの地上世界という環境をとおして霊的摂理を学んでいるともいえます。
それでは以下、霊訓を引用しながらそのことをいっしょに考えてみましょう。

 

●あなたは過ちを犯すために地上へ来たようなものです
これからもあなたは過ちを犯します。そしてそれに対する償いをすることになります。そうした営みの中で叡智を学んでいくべきなのです。過ちを犯すために地上へ来たようなものです。もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にいらっしゃらないはずです。過ちも失敗もあなたが不完全であることから生じます。しかし、転んでも起き上がることができます。取り返しのつかない過ちというものはありません。新しい希望と新しい可能性を秘めた新しい日、新しい夜明けが必ず訪れます” (九巻)P63

 

“進化しつつある魂はラクを求めないものです。挑戦を求めるものです。それが内在する力を表面に引き出し、それだけ霊的に強力となっていきます。苦難はかならずそれだけの甲斐があるものです。(中略) これからも失敗はあるでしょう。何度もしくじることでしょう。だからこそ地上に生まれてきたのです。もしも学ぶことがなければ、この地上にはいらっしゃらないでしょう。地上は子供が勉強に来る学校なのです。完全な霊だったら物質に宿る必要はないでしょう” (九巻)P76

 

●困難・苦難の真の意味は
“太陽がさんさんと輝き、何不自由ない安楽な生活の中で、はたして(霊的)自我の開発が望めるものでしょうか。何一つ学ぶことのない生活を送っていて、一体どういう精神的発達が望めるのでしょうか。そのうちあなたも地上生活を振り返って“厄介な問題こそ有り難かったのだ。あの苦労があったからこそ人生の目的を悟り(霊的)自我の開発の道が見出せたのだ”と思われる日が来ることでしょう” (十一巻)P35

 

“何一つ煩わしいことがなく、空は明るく静かに晴れ上がり、すべてがスムーズにそして穏やかに運んでいるような生活の中では、真の自我(霊的自我)は見出せません。すばらしい霊的覚醒が訪れるのは、嵐が吹きまくり、雷鳴が轟き、稲妻が光り、雨が容赦なく叩きつけている時です。お二人が歩まれた道もラクではありませんでした。しかし、だからこそ良かったのです。困難にグチをこぼしてはいけません。困難は霊の拍車です。霊的知識をたずさえてそれに立ち向かうことです霊の力は物質の力に勝ります” (九巻)P70

 

拍 車:馬に乗るとき靴のかかとに取り付ける金具。一端に歯車があり、馬の腹部を刺激して馬をあやつるもの。物事の進行を加速させる意味で使われる。

 

“光(叡智・悟り)を見出すのは暗闇(苦)の中にあってこそです。人生はすべて両極性です。苦労なしには魂は(霊的)自我を見出すチャンスがありません。苦難がその触媒となるのです。霊的に向上し、霊的資質をより多く具え、喜んで人のために自分を犠牲にする覚悟ができるようになる、その手段として(苦難が)用意されるのです” (十一巻)P38

 

触 媒:化学反応に際し、反応物質以外のもので、それ自身は化学変化をうけず、しかも反応 速度を変化させる物質。

 

苦難は進化を促し、魂を調整するための不可欠の要素なのです。魂が真の自我(霊的自我)に目覚めるのは苦難の中にあってこそです。人生のうわべだけを生きている人間には、魂が自己開発する機会がありません。地上的方策が尽き果て、八方塞がりの状態となったかに思える時こそ、魂が目覚めるものなのです。言いかえれば物質が行き詰った時に霊が目覚め、小さな神性のタネが芽を出し、花を咲かせ、内部の美質を徐々に発揮しはじめるのです。苦難はコインの裏側と思えばよろしい。闇なくして光もなく、嵐なくしては晴天もありません” (九巻)P88

 

●霊的指導者の人生はすべて同じパターンをたどります
“霊的指導者の人生はすべて同じパターンをたどります。
むごい仕打ちを受ける試練の時期があります。基盤としていたものがすべて瓦解したかに見えて、悲哀が身に染み煩悶する危機的な時期もあります。もはや導きと理解を求めるところはいずこにも無いかに思うことがあるものです。
いやしくも人のために生涯を捧げる使命をもつ者は、過酷な試練を体験しなければならないのです。もはやこれ以上は耐え切れないと思うギリギリの淵まで追いつめられ試されなければならないのです。地上のいかなる者からも救いの手は差しのべてもらえないと思える深淵まで落ちてみなければならないのです。そこに至ってはじめて魂が目を覚まし、霊界から届ける豊かさと力と導きと叡智と愛とを受け入れる用意が整うのです。過酷な体験の目的は慈悲の心を芽生えさせることにあるのです。なぜかと言えば、慈悲の心なくしては霊覚者も治療家も真の意味で人を救う仕事はできないからです。それしか方法はないのです” (十一巻)P35

 

そういう人助けをするための霊的才能を授かるには、みずから苦しみと悲しみを味わうという条件が付きものなのです。霊の道具としての自覚をもつに至るには苦を経験しなければならないということです。苦の体験の本質は霊的才能を手段として仕事をする者の試金石です。それを耐え抜いてはじめて自分のもとを訪れる人の力になってあげることができるのです。
霊の僕であることを自覚する者は安楽な人生を期待してはなりません。 (中略)
霊的な熟練はそう簡単に達成されるものではありません。霊的褒章もまたそう簡単に手に入るものではありません” (十一巻)P52

 

試金石:価値・力量などを判定する材料となる物事。金・銀など貴金属片を磨って、その面に現れた条痕の色と既知のものとを比較して、その貴金属の品位を判定するのに用いる石。

 

このようなギリギリの淵まで追い詰められ試されるのは、何も“本当の自分”に気づかされる時の一度だけの人生体験(霊的覚醒)ではないのです。繰り返し繰り返しこの霊的覚醒の体験が必要なのです。なぜなら“霊的覚醒というのは霊性の進化とともに深まるものです”(九巻)P159 だからです。なおさらのこと、優れた霊界の道具として用いられるスピリチュアリストは、摂理に対する信仰(信念)を試され、大いに鍛え上げられ、その使命・重責に応えられるように霊的に強くならなければならないからです。

 

困難や苦難を前にして人は心配や不安を感じるものですが、他方で心配や取り越し苦労をしてはならないことが強く求められています。霊的大気であるオーラが霊界からの導き、援助、インスピレーションや霊の力の侵入を阻害するからです。
シルバーバーチは霊訓の中で、“霊的真理を真に理解した人間”は沈着、冷静、覚悟のできた人となり、たとえ外部では困難、苦難という逆風が吹き荒れていても、心の中は泰然自若で静寂、平穏、平静な心境になれると言っています。

 

そして、この“泰然自若の境地”に至る条件として、

  1. 長く厳しい修行 (霊主肉従の努力と利他愛の実践)
  2. 過酷な試練 (さまざまな困難・苦難に対する摂理への信念)
  3. 心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力 (自我よりも霊的摂理にしがみつく努力)

の三つを上げています。 (九巻)P49

 

スピリチュアリストは霊的摂理を人生の基盤としているために、地上世界でいかなる状況下にあっても“霊の力は物質の力に勝ります”(九巻 P70)という希望があります。常に全力をあげて努力をおこたらずにおれば、あとはただその時期が来るのをじっと耐えて待つだけです。こちらが裏切らない限り、決して神から見捨てられることはない(霊的摂理・約束)ということを知っているからです。
霊的知識を土台とした理性的信仰を持ち、苦難の中にあって自分の考えよりも霊的摂理を実践することによって、苦を克服し摂理の正しさを実感するという数多くの体験が霊的に成長するためにはどうしても必要なのです。また、それが叡智や摂理への不動の信念となり泰然自若の境地へとつながっていきます。
繰り返しになりますが、“苦”は霊的成長と摂理への信念を不動のものとするために、とても重要な正に無くてはならない“触媒”、“拍車”の働きをしているのです。

 

“皆さん方は世俗的な問題に関わりすぎており、そうした問題のすべての解決のカギである霊の力を十分に活用していらっしゃいません。 (中略) 
美と豊かさと荘厳さと威厳と光沢と気高さ光輝にあふれた霊力そのものには際限というものはありません。ただ、人間がこしらえる条件によって制約されるのみです。どうか信念に裏打ちされた、とらわれのない通路、安易に信じるのではなく、これまでに得た知識を基盤とした信念――進化の現段階では無限の知識を手にすることが不可能である以上どうしても必要となる信念に燃えた通路であってほしいのです。
知識を基盤とした信念に燃えてください。皆さん方の一人ひとりが霊の導きによって今日まで苦難と危機と困難を乗り切ってこられたのです。振り返ってごらんになれば、その導きの跡が読み取れるはずです。そこで、人間的煩悩ゆえに時には背後霊を手こずらせることはあっても、これほどのことをしてくださった背後霊が自分を見放すはずはないとの信念に燃えなくてはいけません。
われわれは霊的真理の崇高なる啓示にあずかった、本当に祝福された者ばかりです。それ故にこそ、その知識に伴う責任に恥じない仕方をしようではありませんか。
過去はもう過ぎ去ったのです。これまでに犯した間違いはお忘れになることです。皆さんは間違いを犯しそれから学ぶために地上にやって来たようなものです。過ぎ去ったことは忘れることです。大切なのは今現在です。今、人のためになることをするのです。どんな形でもよろしい。自分の置かれた物的環境条件から考えて無理でない範囲のことを行えばよろしい。先のことをあまり考え過ぎてはいけません。皆さんが皆さんの役目を果たしていれば、私たちは私たちの役目を果たします。そして、そうした協調関係の中では絶対に挫折はないことをお約束いたします” (九巻)P191~194

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(平成29年12月)

“幽体離脱で他界直後の母と会う”(平成29年11月27日)(霊界


大阪シルバーバーチ読書会に参加されている友人のKさんのお母さんは、今年の9月1日に脳梗塞で倒れ、10日程して病院で他界されました。他界されたお母さんのことで霊媒体質のKさんは霊的学びに繋がる大変貴重な体験をされましたので、他の大勢のスピリチュアリストとこの体験を共有するべく、Kさんからいただいたメールをご本人同意の上、以下掲載させていただきます。


母が倒れた次の日の朝、母が 「もう、治った」 と言い、手足を動かして私と会話する夢を見ました。
その場所には綺麗な花が咲いており、母は赤茶色の服を着ておりました。息子の私は意外と母の事を知らなかったので、父から聞いた母の好きな色は赤茶色と他界後に知りました。


母が病院で亡くなる少し前、居間のテレビと電灯が突然消えたりついたりしました。一旦、テレビ画面が消えるとスイッチを入れ直さない限り、再び画面がつくことはないはずですが、ひょっとして瞬時停電かと思い調べましたが、その時間帯に同じ配線系列の他の電気器具には異常は認められませんでした。
さらに母が入院していた病院で投薬されていた薬の臭いも感じましたので、霊界側の演出か、あるいは母がそばに来ていたのかもしれないと思いました。
そして間もなく病院より母危篤の連絡が有り、病院に駆け付けた時にはすでに息が絶えておりました。


私は実家から出て一人で生活をしていましたが、父を一人にしておくわけにもいかず実家に戻ることにしました。
葬式も終わり何日か経った日の明け方、私は実家の二階で寝ていましたが、突然母の遺影と遺骨が置いてある一階の居間に私はいました。そしてそこに母が現れました。私は驚きのあまり 「あんた、骨になったのだろ?」 と言ったところ、母は 「私は生きている」 と言いました。そしてはっと目が覚めました。明晰なイメージがあり、とても夢とは思えませんでしたが、その場に置いてあった遺影、遺骨、祭壇の形は、先ほど見たイメージと照らし合わせて確認すると、ほぼ同じでした。
幽体離脱でもして母に会ったのかなあ?と思って過ごしておりましたが、九月の終わり頃、家で母が料理を作っている夢?をみました。父もおり、私もそこにいました。私はその時、これは夢ではないと感じましたが、次の瞬間、目が覚めました。これはひょっとしたら睡眠中にあった幽界での出来事を鮮明に覚えていたのではと思いました。


十月に入り、外は雨で母が裏口から家に入って来る夢?を見ました。そこには妹がおり、母が何やら妹と話をしておりました。これもなぜか夢とは感じられませんでしたが、パッと目が覚めました。このこともひょっとしたら?です。この妹も不思議な夢を見ております。夢の中で母が 「十万円は?」 と気にしているのだそうですが、後になって父が母に十万円をプレゼントしたと聞きました。


そして日も過ぎ早く目が覚めたある朝、外を見ると薄曇りの空でしたが、起きて少しばかりネットをした後、眠くなりもう一度寝ようと思いました。それは丁度、朝の七時半ごろでした。そして次に私の意識が目覚めた時、頭がグルグルしており、めまいがしましたが、少し落ち着くと、私が真下(自分の身体を見下ろしていた)にいました。私は???でした。そして次に私は二階の寝室から隣の部屋に瞬間移動して浮かんでいました。その部屋では生前、母はよく洗濯物を整頓していました。
突然、外のベランダから 「洗濯物は? 洗濯しているの?」 と大きな声が聞こえました。 母の声でした。そして母の姿が見え私の所にやって来ました。 母は 「洗濯はしているの?」 と言いました。母は洗濯を毎日しておりましたが、母の他界後、洗濯の回数はかなり減っており、母が現れた日も洗濯はしておりませんでした。私は驚き 「あんた、死んだのと違うの?」 と言いました。 母は 「私は生きとう」と言いましたので、私は母の手や足を触ってみましたが、生前の母と全く同じで、硬くてしっかりとした実感がありました。しかしながら周りの物品には触れることができず、物質界の存在物には手指が透過してしまい触れることが出来ませんでした。そして次の瞬間、奥の部屋に移り父の冬服が置いてある場所を教えてくれました。
天気は薄曇りでした。そして何か白いコードが私の後ろにあり引き戻される感じがして、ハッと目が覚めました。それはあまりにも鮮明な出来事でした。また、父の冬服も言われた通りの場所にあったので私は本当に驚きました。


シルバーバーチは肉体が亡くなっても、霊界では霊体は硬くて肉体以上に実感がある、と言っていますがまさにその通りでした。また、睡眠中は霊界で物質界を去った人と会っているとも言っていますが、その通りの体験を何度かいたしました。今回、母の他界にあたり様々な霊的体験をしたことで、シルバーバーチの霊訓に書かれてあることは“本当だ”という確信をもつことができました。
幽体は私達の肉体同様、“しっかりとした実感”があって死後も生き続け、いやシルバーバーチが言っているように死後にこそ“本当の生”が始まるのです。今回の私の体験もまたその確実な証拠となります。霊界側の意図は、私一人のために見せたのではなく、きっと他の多くのスピリチュアリストにもそのことを証明したかったのだろうと思います。
以上がKさんからのメールでした。


今回のKさんの貴重な霊的体験から、明らかになったことを列記してみますと、

  1. 霊界は単なる空想・想念の世界ではなく、実体(実感)がある。
    霊界は波動が精妙で物質界の波動とは異なるために、霊体では地上の物品に触れることができないが、同じ霊体同志では硬くて実感がある。
  2.  

  3. 睡眠中はたびたび幽体離脱して幽界に行っている。
  4.  

  5. 他界直後は性格も同じで、行動も今までと同じことをおこなっている。

他界後、Kさんのスピリチュアリストの友人が小豆島の大空澄人さんと大空さんの娘さんに、Kさんのお母さんのリーディングを依頼されました。
大空さんと娘さんによるKさんのお母さんのリーディングに応えるように、以前、大空さんから霊的摂理を学び、半年ほど前に他界された別の女性が大空さんに現れ伝えた内容が大空さんのプログ 「続いのちの波動」 の11月8日付け “橋渡しをする者” に掲載されております。
http://susanoo1948.blog.fc2.com/blog-entry-508.html#more


その後、この半年ほど前に他界された女性に先立つこと20年程前に他界したその女性の娘さんも加わって、親子でKさんのお母さんを無事幽界に導いていく様子が大空さんの娘さんによって霊視されました。(下の絵1.2参照)
きっとKさんのお母さんは、霊的知識が無いため他界直後は混乱されたと思いますが、波動の近い地上人の祈りには感じるために、たとえ知識は無くても比較的早い段階で霊界のガイド役をされているこの親子に導かれて行くことができました。霊的無知ゆえ迷える霊とならないように、むしろ波動の近い地上のスピリチュアリスト(特に霊性レベルの高い人)と霊界人とのいわば共同作業の大切さがよくわかります。
と同時に、スピリチュアリストである息子さんとのやり取りをとおして、結果として霊的証を我々他の大勢のスピリチュアリストにもするという大役をKさんのお母さんはりっぱに果たされました。

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(平成29年11月)

“すぐそこまで来ている新しい地球の夜明け”(平成29年11月3日)(雑記


最近思っていることを私見として、独断と偏見で誤解を恐れず大胆に述べてみたいと思います。

“私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界の波長に近づけて降りてまいりました。その目的は、神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったからです。”(シルバーバーチの霊訓 九巻 P21)

近代スピリチュアリズムは1848年のハイズビル事件に始まり、1900年前後には霊界の科学的証明がなされ、同時に科学万能・唯物主義がよって立つ従来の古典物理学では説明のつかない他界への道を開く量子論が台頭し、引き続いて1950年前後にはシルバーバーチを始めとして大霊団から霊的摂理が大量に降ろされてきました。

また、霊訓の中でシルバーバーチはこういうことも述べています。
“地上に本物のスピリチュアリズムと呼ばれている新しい啓示が世界中に知れわたるのに、ほぼ一世紀を要しました。もう一世紀のちには、その数は信じられないほど多くなっていることでしょう。皆さんはその先駆者なのです。” (シルバーバーチ 不滅の真理 P224)


予言なのか期待なのか判りませんが、ここで当時の1950年頃にこの“もう一世紀のちには”という数字だけを単純に当てはめてみますと、2050年頃になります。また一方、“すぐそこまで来ている”がはたして地上の時間で100年先のことなのか、200年先のことか、はたまた500年先のことか判りませんが、1848年以降の一連の経過からすると、私にはどうも50年~100年単位でグラデーション的に霊界主導のプロセスが急速に進んできているような気がしてなりません。
すなわち1850年頃からの一連の流れをみると、霊界の存在を示唆しようとする奇跡的現象に対する驚きという感覚・感情心の面から始まり、理性心を使っての科学的証明や霊的摂理の学びと理解へと進み、さらに今後は霊的摂理の実践をとおして霊性心の成長へと人類の精神面が強化成長していくという、“大きな流れ”に沿った一連のプロセスなのではないかと思います。
そこでこのプロセスのワンステップをざっくりと前後の100年とすると、シルバーバーチのいう“すぐそこまで来ている新しい地球の夜明け”とは、2050年から22世紀にかけてがそれに相当するのかもしれません。21世紀初頭の現在(2000年~2050年)は、降ろされた霊的摂理の学びと普及活動を含めた摂理実践の時代のスタートということになるのではと考えています。そうなると我々スピリチュアリストは“その先駆者”ということになります。


  1850年(19世紀) ・・・奇跡的現象
→ 1900年(20世紀) ・・・霊界の科学的証明
→ 1950年         ・・・霊的摂理が降ろされる
→ 2000年(21世紀) ・・・霊的摂理の普及と実践
→ 2050年     ・・・霊主肉従の生活が増加
→ 2100年(22世紀) ・・・顕幽の交流活発化


だからといってこれからのわずか100年やそこいらで利己主義や戦争、破壊活動、拝金主義や環境破壊がすぐに無くなるとはとても思えません。さまざまな霊性レベルの人々の混在する中、反面教師として、また数多くの試練や苦をとおして霊的摂理を学ぶために相対の世界、物質界という学校が存在しているのですから。それこそ地球がシルバーバーチのいう“地上天国”となるには、これから先1000年ぐらいは最低でもかかるのでしょう。
他方で過去の経緯から類推してゆくと、シルバーバーチが述べているようにわずか“もう一世紀のち”(100年先)でみても、霊的摂理を理解しその摂理に忠実に生きようとする人々、すなわち霊主肉従の生活をする人々が大幅に増えてくるのでしょう。
その理由として、科学や肉体の発達はすでに十分な域に達してきてはいるが、物質偏重であまりにも霊的摂理に無知で精神面や霊性面の発達が極端に遅れているために、地縛霊が刻一刻と待ったなしに日々増え続けており、それが顕幽に及ぼす深刻な問題となっているため、それを是正すべく霊界主導で人類の霊性面が啓蒙強化されていくからです。


では次に、ごく平凡な数多くの人々に霊的摂理が日常的に受け入れられてくると、我々は果たしてどのような姿になっていくのでしょうか。


“霊能者とか霊媒と呼ばれている人が進化の先駆けであることに、疑問の余地はありません。進化の梯子の一段上を行く、いわば前衛です。そのうち、心霊能力が人間の当たりまえの能力の一部となる時代がきます。地上人類は今、精神的発達の段階を通過しつつあるところです。このあとには、必然的に心霊的発達の段階がきます。人間が、五感だけを宇宙との接触の通路としている、哀れな動物ではないことをまず認識しないといけません。”
(地上人類への最高の福音 シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズム普及会発行 P205)

霊的知識を得て霊的摂理を実践し霊的に成長してくると、今まで霊体に封印されてきた霊的資質が、動物が持っている第六感などやサイキック能力も含めて自然と発露されてきます。いわゆる“本当の自分”を表現していくことになります。
わかりやすい例として、インスピレーションや気づきなどが頻繁に入ってくるようになります。それがもっと進むと守護霊や背後霊と対話ができるようになるなど、霊界との交流が可能となってきます。


“地上界は永い間の物質偏重の生活によって、霊性を鈍らせてしまったのです。人類もかっては目に見えない界層との連絡活動を盛んに行っていたのです。内在する永遠の実在の資質である霊的能力について、ちゃんとした認識があったのです。”
(地上人類への最高の福音 シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズム普及会発行 P31)


その結果、顕幽を隔てているベールが徐々に取り除かれ広く一般の人びとにも霊界がとても身近に感じられる地上世界となります。一人ではないという意識がもっともっと実感として強くなり、霊界の守護霊との二人三脚で対話しながらこの地上世界を伴に歩むということが、当たり前の世界となります。程度の差は別として、ちょうど2000年前のナザレ人イエスのように。そのことがまさしく“新しい地球の夜明け”なのではないでしょうか。


“スピリチュアリズムを知ったことによって生じる一ばん大きな違いは、自分が一人ぼっちでいることが絶対にない、ということを知ったことです。いつどこにいても、霊の世界からの愛と友情と親愛の念を受けているということです。
最善をつくしている時には、かならず霊界からの導きの力が加わっていること、あなたの持っているものから最善のものを引き出し、あなたの人生から最高のものを学び取ってくれるようにと願っている、友愛と親切心と協調精神に満ちた霊が身近に存在してくれているということです。このことがスピリチュアリズムがもたらしてくれる、一ばん有難いことです。”
(地上人類への最高の福音 シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズム普及会発行 P87)

 

古代の人たちが自然に発揮していた霊媒(シャーマン)としての霊能力との違いは、近世霊界から大規模に降ろされてきた人類の進化にみあった霊的知識を、書物やインターネットを介して一般大衆レベルで持っているかいないかの違いだと思います。もちろん過去には教祖のようなごく一部の霊覚者のようにインスピレーションは受け取っていても、それはごく限られた特別な人に降ろされるだけでした。
シルバーバーチという高級霊から降ろされた霊的知識によって、現代のように霊的摂理を理解しそれを基礎にしているという点では、同じ霊能力でも古代の人たちとはとても大きな違いがあるように思います。
そしてこれからの新しい時代には、これらの霊的知識をベースにインスピレーションを通して霊界の宝庫から数多くの叡智や悟りを入手しながら、地上世界でもっと大きく霊的に成長することができるようになってくるでしょう。


霊的知識が無いままでの霊媒体質者や不自然な無理やりの霊能力の開発は、地縛霊を引き寄せるだけで大変危険であり特段の注意が必要ですが、霊訓を通して霊的知識をしっかりと持ち、摂理の実践を経ての霊能力の自然な発露は必然的に伴ってくるものであり、霊的無知なときの地縛霊による憑依現象とは決して同列に見なすべきものではありません。また同様に、霊界とのコンタクトをいたずらに恐れたり、忌み嫌うべきものでもありません。それは利他愛で霊性意識が高くなれば波長の原理から霊性レベルに見合った霊をおのずから引き寄せるからです。将来は各自の守護霊や指導霊とのテレパシーによる日常の交流対話は当たり前の時代に必ずなります。


“形式を超えた霊と霊との交渉、地上的障害を超越して、次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係――これが最高の交霊現象です。”
(地上人類への最高の福音 シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズム普及会発行 P274)


霊能力にも霊視、霊聴、ヒーリング能力、インスピレーション能力などいろいろと多様化した個性がありますが、その神聖な能力は霊体の霊能力の発露であり神の分霊として神と共に利他愛のために使うようにと授けられた神性な霊的資質です。お金儲けの手段に使ったり、その霊能力を自慢しスピリチュアリズムを利用して自己の名を売ったり、特権差別意識をもつなど利己のために決して使ってはなりません。霊的知識があるぶん、義務や責任、ペナルティーが摂理として自動的に霊的知識の無い人の何倍にもなって返ってくるからです。

 

“わたしは、霊力が今日のように少数の特殊なチャンネルを通してではなく、当たり前の日常生活の一部として、無数のチャンネルを通して地上世界に注がれる日の到来を、楽しみに待ち望んでおります。その時は、あの世とこの世の間の障害物がなくなります。すべての人間に潜在する霊的資質が、ごく当たり前のものとして、(地上世界という)学校教育の中で磨かれるようになります。生命(霊)は一つ(霊的家族)であるという事実が理解されるようになります。わたくしはそういう世界――地上世界が広大な宇宙(霊界)の一部であることを認識し、すぐ身のまわりに高次元の世界の生活者を霊視できるような世界――の到来を待ち望んでおります。何と素晴らしい世界でしょう!”

(地上人類への最高の福音 シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズム普及会発行 P247)

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(平成29年10月)

本当の敵と霊的資質の発揮(平成29年9月28日)(苦しみ・試練


我々地上人にとっての“本当の敵”とは、悩みやトラブルの原因となっている相手や出来事、はたまた霊界の“闇の勢力”や“反抗勢力”にあるのではなく、“真の敵”は取り越し苦労、心配、不安、恐れ、悩み、悲しみなどの自らの心の状態にあるとシルバーバーチは霊訓の中で何度も繰り返し述べています。
その意味するところは、霊界からの永遠の時の視点から観ると、因果律が根底にあって我々を悩ますそれらの要因は霊的成長のためのあくまでも媒介、道具、手段としての役割を結果として果たしているにすぎず、一番問題とすべき“真の敵”は実は自分自身の心のありようであったということに気づいていないということです。
当該相手や自分自身を取り巻く環境や出来事そのものに心がとらわれるのではなく、奇跡的な働きを起こすことの出来る“霊の力”や“背後霊の導き”の方に全面的な信頼をもてるかどうかに全てはかかっているのです。
先回の“霊的教育”で述べた内容と同じことの繰り返しになりますが、日常的でとてもとても重要な事ですので、今回もまた大変長くなりますが以下できるだけ抜粋記述します。


まず初めに理解しなければならない事は、霊界は我々のとても身近なところにあり、我々もまた肉体をまとった霊であるから霊界と交信できてあたり前だということです。霊界の波長とは異なれども、高低のオクターブ同士で共鳴、共振、同調現象がベールを越えて日常茶飯事に発生しているのです。
まずはこれらの知識を学んだ上で、次になぜ心配や不安、恐れ、取り越し苦労が我々にとって“本当の敵”なのかの話に入ります。


以下ページ数のみの表記は全て「地上人類の最高の福音 シルバーバーチの霊訓」(スピリチュアリズム普及会発行)からの引用です。

 

―霊界は空想の産物ではない―
これは空想の産物ではありません。何千回も何万回も、繰り返し証明されてきている事実を、有りのままに述べているまでです。もはや議論や論争の枠を超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお、認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。 (中略) が、死後の存続という事実は、まともな理性をもつ者ならば必ずや得心するだけの証拠が揃っております。 P190 


地上世界も霊的な世界の一部です。なぜかと言うと、霊のすむ世界はぜんぶ重なり合っているからです。宇宙に存在する生活の場のすべてが互いに重なり合い、融和し合っており、霊界とか幽界とか物質界という言い方は、一つの宇宙の違った側面をそう呼んでいるだけです。
ポール君はいま物質界にいますが、同時に幽界にもつながっているのです。 P83 


●五感で知りうる世界は、宇宙のほんの一部です。それは物的手段で感識できるものに限られています。人間は物質を超えた存在です。精神と霊とで出来ているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションがあり、そのバイブレーションに感応する、別の次元の世界が存在します。地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死をへて、より高いバイブレーションの世界が永遠の住処となる日がまいります。 P205


●今日では、霊的波動を捉えることのできる人は、ごくごく少数となってしまいました。今日の人間は“牢”の中で暮らしているようなものです。その牢には小さな窓がたった五つしかついておりません。それが五感です。目に見え、耳に聞こえ、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、肌で感じるものだけを実在と思い、それ以外の、身のまわりに起きている無数の出来事には、まったく気づいていらっしゃいません。あなたが存在するその場所、およびその周辺には、次元の異なる世界がぎっしりと詰まっていて、そこでも生命活動が活発に展開しているのです。見えないから存在しないと思ってはいけません。あなたの感覚ではその波動が捉えられないというだけです。 P31


―本当の敵とは―
“わたしたちが闘わねばならない本当の敵は、実は人間の無用の心配です。” P194


心配克服のプロセス


≪プロセス順≫ (番号は以下の霊訓からの該当番号)


  ①“本当の敵”、“真の敵”とは・・・心配・不安・恐れ・取り越し苦労のこと


⇒ ② 霊的摂理への絶対的な信賴・・・信念(信仰)に燃えよ!


⇒ ③ 霊的摂理への絶対的な信頼に基づいた瞑想による心の沈静化・・・心配・不安・恐れ・取越苦労の排除

⇒ ④ 誰にでもある霊的資質“霊波を感受する能力”の発揮 


⇒ ⑤ インスピレーションをとおして霊界の導きに気づく


⇒ ⑥ ひらめき・叡智・霊力の流入・・・→運命を拓く


⇒ ⑦ 問題の克服


⇒ ⑧ 安心立命の境地

 

《上記各番号に該当する霊訓の引用》


●わたしたちは、暗黒の勢力と反抗勢力、そして、そうした勢力に加担することで利益を確保している者たちに対して、間断なき闘いを続けていかねばなりませんが、同時に、不安とか取り越し苦労といった“恐怖心”との闘いをも強(し)いられているということです。
地上と霊界との間には、その関係を容易にする条件と、反対に難しくする条件とがあります。誤解・敵意・無知――こうした障害は後者ですが、これはお互いの努力によって克服していけるものです。そのためには、わたしたちが存分に力を発揮する上で人間側に要求したい、心の姿勢というものがあります
人間は肉体をたずさえた霊であり、わたしたちは肉体をもたない霊です。そこに共通したものがあります。“霊”というつながりです。あなたも今この時点において立派に“霊的存在”なのです死んでから霊になるのではありません。死んでから霊体をさずかるのではありません。死はただ単に肉体という牢獄からあなたを解放するだけです。小鳥が鳥カゴを開けてもらって大空へ飛び立つように、死によってあなたは自由の身となるのです。
基本的には、あなたがた人間にも“霊”としてのあらゆる才能、あらゆる属性、あらゆる資質がそなわっております。今のところ、それが未発達の状態で潜在しているわけです。もっとも、わずかながら、すでに発現しているものもあります。未発達のものをこれからいかにして発現していくか、本当のあなたを表現していくにはどうしたらよいか、より大きな自我を悟り、大霊からのすばらしい遺産をわがものとするにはどうすればよいか、そうしたことをわたしたちがお教えすることができるのです。 P192 


●しかし、いかなる形にせよ、そうした使命を帯びて地上へ戻ってくる霊は、必然的に、ある種の犠牲を強いられることになります。なぜなら、そのためには波長を地上の低い波長に合わさなければならない――言い変えれば、人間と接触するために、霊的な波長を物的な波長へと転換しなければならないからです。
人類の大半はまだ霊的なものを求める段階まで達しておりません。言い変えれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです。
しかし、人間が霊的存在であることに変わりはありません。霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することができれば、不安や疑いの念はすべて消滅してしまいます。霊は安心立命の境地においてのみ、本来の力を発揮するものです。わたしたちが闘わねばならない本当の敵は、実は人間の無用の心配です。それがあまりに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、現実には存在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎるのです。
そこでわたしは、取り越し苦労はおやめなさいと、くり返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物は決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、⑥霊界から援助し、導き、支えてくれる、あらゆる力を引き寄せることができるのです。P194


信念に燃えなさい。盲目的な信念ではなく、確実な知識に基づいた信念です確信です。これは、古くから言われ続けてきた訓えです。もともと、わたしが申し上げていることに新しいものは何一つありません。そこで、改めてここで、それが皆さんの存在の布地に染み込むように、わたしに可能なかぎりの力を込めて、同じ言葉を繰り返します――信念に燃えなさい!
皆さんは皆さんの役目を果たしてください。わたしたちはわたしたちの役目を果たします。絶対に見捨てるようなことは致しません。宇宙にはインスピレーションが充満しているのです。条件さえ整えば、それを自由に我がものとすることができるのです。③ところが、そこに取り越し苦労、疑念、不安といったものが入り込みます。そうした不協和音が邪魔をするのです。ですから、それらが心に宿るスキを与えてはならないのです。 (中略) 心配・迷い・不安、こうした弱味が心に根を張るのを許してはなりません。
これからも難問が前途を過(よぎ)ることでしょう。が、皆さんもそれを過って進めばよろしい。いっしょに留まってはなりません。解決できないほど大きな難問、背負えないほど重い荷物というものはありません。弱気になってはいけません。明日がもたらすものを、断固たる意志と不敵な精神で迎えるのです。そうすれば万事うまく行きます。 P147 


●しかし皆さんも霊的存在であり、内部に神性の火花を宿しており、程度の問題とはいえ、大霊の資質をそなえているからには、生命の全諸相に顕現している崇高にしてダイナミックな生命力を感じ取ることはできるはずです。ただし、それにも程度の差はありますが……
そのための条件として、物的感覚を鎮静させること(精神統一)ができるようにならないといけません。世間の雑音、不協和音、いがみ合い等は、きれいさっぱりと忘れ去らないといけません。内面を穏やかに保ち、あたりを包んでいる崇高な根元的エネルギーに魂をゆだねるコツを身につけないといけませんその段階で内部から湧き出る静寂の醍醐味(だいごみ)――それが生命現象の背後の霊力と一体となった時の実感です
そこに至るには、時間と忍耐と(霊的)知識とが必要です。が、あなたのまわりに充満する霊妙にして微妙な霊的生命のバイブレーションを感じ取ることができるようになるにつれて、内部の霊的自我に潜む驚異的可能性に気づくようになります。それが、大霊の存在を実感するということです。しかし、それは容易なことではありません  P144 


心に恐怖心を宿してはいけません。恐怖心はバイブレーションを乱します。(中略) 恐怖心は霊気を乱します。 P226 


良心の声が聞こえるのも霊性があるからです。あなたはただの物質ではありません。霊なのです。 P219 


霊界からの声と力による導きと援助を素直に受け入れるようになりさえすれば、さほど大変なことではありません。 P65 


⑦この世に克服できない悩みはありません。ですから、悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来事は何一つ起きないのです。 P106 

 

“将来の展望には自信と楽観と積極性をもって、ご自分の役目を果たすことに専念なさることです。恐怖心、心配、不安、こうした霊力の働きかけを止め無気力にさせるようなものは、いっさい棄て去ってください。私たちから要求するのはそれだけです。出来る限りのことをなさっていればよいのです。それ以上のことは出来るわけがないのですから。
明日はどうなるかを案じていてはいけません。明日は、潜在する神性を開発し、人生を物質的・精神的・霊的に存分に楽しみ、まわりに存在する素晴らしい霊的光輝をますます意識するようになる、その絶好の機会の到来を告げてくれるものなのです。”
(シルバーバーチの霊訓 十巻 P191)

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(平成29年9月)

“霊的時期の来た人とは(平成29年8月31日)(苦しみ・試練


霊的覚醒、すなわち“本当の自分”が霊魂であると気づくためには、自我意識が打ちのめされ、自分自身はいうに及ばずこの世にはもはや頼りとなるものはないと真底観念した時に、初めて霊的な知識を受け入れる心の準備が整うものです。心に受容性が生まれるとも言えますが、それは“本当の自分”(真我・霊魂)の発現を邪魔してきた今意識している自我(仮我)が挫折し、その力が弱くなるからです。
特にこれといったこともなく、多少の凸凹はあってもごく普通の人生では絶対に霊的なものを受け入れたり求めようとはしません。唯物・拝金主義で不本意ながらもそこそこ満足しているからで、その必要性を感じないどころか警戒心までもっているからです。ですから自分の力で世の中、何とかなると思っている間はまず無理でしょう。
地上というこの物質界では、顕在意識(表面意識)上の意識している自分(仮我)が己のすべてであり、科学万能、唯物拝金主義にどっぷりと浸かっているので、とても強い固定観念ができてしまっていて、非物質的な霊的知識や摂理は一切受け付けられないのです。
その鼻を強力にへし折られる厳しい挫折の体験がないことには霊的なものを受け入れる心の空間(隙間)ができないのです。言い方を変えると、この世(物質界)の望みが全て絶たれたときこそ“救い”を物質界以外に求めるようになるのです。
例えば愛児に先立たれるとか、最愛の伴侶が他界するとか、この世の力やお金、権力ではどうにもならないことがそのきっかけとなることがあります。健康はお金では買えない不治の病の宣告もそのきっかけとなることでしょう。
世の中では、小は家庭や職場から、大は社会や国政あるいは国家単位に至るまで争いごとや殺戮が絶えることがありません。加えて憑依霊によると思われる意味不明の凶悪殺人も次から次へと発生して新聞のネタがとだえることがなく、また、大都会では毎日のように鉄道投身自殺も後が絶えません。これが利己主義・唯物拝金主義という“原因”からくる“結果”なのです。このような社会の中で真の実在・本物を求めようとすることはある意味、盲目の目が開かされてきているためともいえるでしょう。物質界にはもはや本当の救いはないと、目が開け霊的覚醒につながる切掛けとなるのが過酷な試練の“真の目的”なのです。
地上人生の“真の目的”である霊的覚醒に至る道には同じパターンをたどる王道があり、別の近道はないようです。シルバーバーチが霊訓で述べている言葉の中にその王道が示されておりますが、最近読んだ霊訓(八巻)(十巻)の中からだけでも以下のように数多く出てきます。

 

まずは、“時期の来た人”すなわち霊的に受け入れる用意ができた人でないと霊的知識は入ってこないという箇所を取り上げてみましょう。


時期の来た人でないと霊的摂理は受け入れられない!
●ですが、受け入れる用意ができていない人をいくら説得せんとしても、それは石垣に頭を叩きつけるようなもので、何の効果もありません。(シルバーバーチの霊訓 八巻 P166)

 

●受け入れる用意ができていないとだめなのです。真理は心を固く閉ざした人の中には入れません。受け入れる能力のあるところにのみ居場所を見出すのです。(シルバーバーチの霊訓 八巻 P171)

 

●と言っても私たちが救ってあげられるのは、差し出した私たちの手をつかまえてくれる人だけです。霊的真理、その崇高な力を受け入れる用意のできていない人は私たちにも為す術がないのです。受け入れ準備の整った魂は、霊的真理の灯台の光に引き寄せられます。(シルバーバーチの霊訓 十巻 P156)

 

それでは次に、霊的真理を受け入れる時期が来る条件とは、

●この交霊会にお出でになる同志の方に私が必ず申し上げていることは、霊的巡礼の旅に立たれた方はみな、同じパターンの人生を体験なさるということです。困難・難題・危機・逆境・失望・挫折、こうしたものを体験させられます。時には失意のドン底に落とされ、あたかもすべての望みが断たれ、奈落の底の暗闇の中に置かれたような、一条の光明も見出せない状態となることもありましょう。しかし、そうした時こそ魂が目を覚まし、真理を受け入れる用意が整うものなのです。奈落の底からの霊的向上が始まります。ゆっくりとして遅々たる歩みです。
それも、必ずしも着実とはかぎりません。時には逆戻りすることもあります。が、光明へ向けて向上し続け、ついに暗黒から脱け出ます。(シルバーバーチの霊訓 十巻  P146)

 

●あなたにこの(霊的)知識をもたらしたのは、ほかならぬ悲しみです。あなたは絶望の淵まで蹴落とされたからこそ受容性を身につけることができたのです。(シルバーバーチの霊訓 八巻 P166)

 

●苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、危機、死別、こうしたものを体験してはじめて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達するための手段となっているケースがたくさんあります。(シルバーバーチの霊訓 八巻 P140)

 

●かってあなたは、もはやこれ以上為す術(すべ)がないと思えた時に啓示を受けられて、人生に一大変革がもたらされました。今日のあなたを導いて来たのは背後霊の働きです。私の説いている霊的摂理の世界へ案内されてきました。(シルバーバーチの霊訓 十巻 P154)

 

●問題が生じるのは当然の成り行きです。地上は困難と挫折と障害と逆境に遭遇させられる場所なのです。地上生活のそもそもの目的は、伸び行く魂が、危機においてはじめて呼び覚まされる潜在的資質を発現するために、さまざまな事態に遭遇することにあるのです。そうした問題を克服しないかぎり霊性の向上は望めません。が、実は克服できないほど大きな問題は決して背負わされないのです。忍耐強く導きを祈り求めることです。時が熟せば必ずドアが開かれ、道が示されます。私はそのことを同志の方にいつもこう申し上げております。――閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません、と。シルバーバーチの霊訓 十巻 P150

 

●―今こそ必要とされている霊的真理を広く一般に証明してみせるために何とかして霊界から大掛かりな働きかけをしていただけないものでしょうか。それとも、今はその時期ではないということでしょうか―

 

“その時期でないのではなく、そういうやり方ではいけないということです。私たちは熱狂的雰囲気の中での集団的回心の方法はとりません。そんなものは翌朝はもう蒸発して消えています。私たちは目的が違います。私たちの目的は一人ひとりが自分で疑問を抱いて追及し、その上で、私たちの説いていることに理性を反撥させるもの、あるいは知性を侮辱するものがないことを得心してくれるようにもっていくことです。
私たちは立証と論理によって得心させなければいけません。これはその人たちが霊的に受け入れる用意ができていなければ不可能なことです。そしてその受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整いません。つまり物質の世界には解答は見出し得ないという認識を得なければなりません。人間の窮地は神の好機であるといった主旨の諺があります。私たちはそういう方法でしか仕事ができないのです。”(シルバーバーチの霊訓 八巻 P165)

 

●―そこで私は今その霊的知識を集大成したいと考えております。テープも書物もかなりの数になりました。それを若い世代のために人生の指針として教えていくためのグループを組織したいと考えているのですが・・・―

 

“・・・私たちの仕事はこうした霊的真理を一度に一人ずつ、受け入れる準備の整った魂に教えていくことです。この点をとくに強調しておきます。それが偽らざる事実だからです。
諺にも“馬を水辺まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない”というのがあります。イエスはこれを豚と真珠という、きつい例えで表現しました。
受け入れるにはその準備ができていなければならないということです。あなたも暗い影の谷間を通り抜けるまでは、真理を受け入れる用意はできておりませんでした。その間の体験が、こうした基本的な永遠の霊的真理を理解しはじめる端緒となる決定的な手段ないし触媒となったのです。” (シルバーバーチの霊訓 十巻 P147)

 

だからこそ、霊的摂理を受け入れるには時期が来ていないとだめであり、それは各個々人が自分自身の心からの求道によって自己責任で覚醒しなければならない極めて個人的な問題であって、霊的覚醒はテレビなどのマスメディアを利用して手っ取り早く集団で一斉にということは不可能なことなのです。

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(平成29年8月)

“霊的教育”(平成29年7月23日)(苦しみ・試練

前回の寸感“死とは その2”の中の霊訓に二度でてくる“霊的教育”について述べてみたいと思います。“本当の自分”に気づき、他界が本当の世界(実在)であるとの霊的摂理に全幅の信頼が置けるまでには、数多くの試練や困難にあたって霊的摂理を適用するという“霊的教育”を受けることが必要となります。それは試練や困難という揺さぶりがないと、拝金唯物主義の中にどっぷりと安住して地上人生を無駄にしてしまうからです。
では、その避けられない試練や困難、心配や不安にあたって、我々の心構えを以下霊訓の中から抜粋してみましょう。

 

“所詮、私たちが扱っているのは不完全な人間です。地上には誰一人として完全な人間はおりません。完全性は神の属性です。ですから、あなた方に一点の非の打ちどころのないものを要求するつもりはありません。よく間違いを犯すものであることを承知しております。人間であるがゆえの煩悩によって過ちを犯しがちであることは十分承知いたしております。”(十)P153

いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません
その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。
責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。背負い切れないほどの荷はけっして負わされませんなぜなら、その荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。けっして神が“この人間にはこれだけのものを負わせてやろう”と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。” (シルバーバーチの霊訓 九巻 P210) ⇒ 因果律は霊的成長のためにある。

地上の誰一人として、何かの手違いのためにその人が克服できないほどの障害に遭遇するようなことは絶対にありません
 むしろ私は、その障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのですと申し上げたいのです。”(シルバーバーチの霊訓 九巻 P206)

 

一かけらたりとも心配の念を宿してはなりません。まったく無用のことです。心配の念は敵です。魂をむしばむ敵です。絶対に侵入を許してはなりません。これまでに啓示された真理に全幅の信頼を置き、それを基盤とした信念に燃えることです。あなたにはスピリチュアリズムという知識があります。それを基盤とするのです。つまり理性に裏づけられた確信、信じるに足る根拠をもった信念に燃えることです。あとのことは万事うまく行きます。真一文字に進んでください。あなたはあなたなりにベストを尽くしておればよろしい”(古代霊シルバーバーチ最後の啓示 P26)

真理を手にした者は心配の念を心に宿すようなことがあってはなりません。地上社会にはずっとトラブルが続いております。霊的な原理が社会秩序の拠って立つ基盤とならないかぎり、トラブルは絶えないでしょう。唯物的基盤の上に建てようとすることは流砂の上に建てようとするようなものです”(シルバーバーチの霊訓 八巻 P121)

 

“しかし、絶対的な忠誠心と堅忍不抜(フバツ)の献身的精神をもって臨めば、必ずや勝利を手にすることができることを、わたくしがお約束します。”(最高の福音 P55)

 

“この世に克服できない悩みはありません。ですから、悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来事は何一つ起きないのです。”(最高の福音 P106)

 

いったん霊的真理に目覚めた以上、今日や明日のことを心配してはなりません。あなた方の霊に危害を及ぶことはけっしてありません。自分の知っていること、これまでに自分に明かされた真理に忠実に生きていれば、いかなる苦難がふりかかっても、いささかも傷つくことなく切り抜けることができます。地上で生じるいかなる出来ごとも、あなた方を霊的に傷つけたり打ちのめしたりすることは出来ません。ご自分の日常生活をご覧になれば、条件が整ったときの霊の威力を証明することがいくらでもあるはずです。
残念ながらこうした重大な意味を持つ真理に気づいている人は少数であり、まだ多数とは言えません。大多数の人間は物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそ力であると思い込んでおります。”(シルバーバーチの霊訓 八巻 P122)

 

霊は物質に優ります。神の霊、大霊こそが宇宙の絶対的支配力なのです。そこで私はいつも申し上げるのです―心を強く持ち、背筋を真っすぐに伸ばして歩みなさい。この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つありません、と。 最後はきっとうまくいきます” (シルバーバーチの霊訓 八巻 P123)

 

“問題が生じるのは当然の成り行きです。地上は困難と挫折と障害と逆境に遭遇させられる場所なのです。地上生活のそもそもの目的は、伸び行く魂が、危機においてはじめて呼び覚まされる潜在的資質を発現するために、さまざまな事態に遭遇することにあるのです。そうした問題を克服しないかぎり霊性の向上は望めません。が、実は克服できないほど大きな問題は決して負わされないのです。忍耐強く導きを祈り求めることです。時が熟せば必ずドアが開かれ、道が示されます。私はそのことを同志の方にいつもこう申し上げております。―閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません、と。” (十)P150

“幸いにして霊的実在についての知識を手にした者は、いかなる程度であっても悲観の念を心に宿すことがあってはなりません。霊力は地上世界のいかなる力よりも強力です。”(十)P163


“元気をお出しなさい。くよくよしてはいけません。取り越し苦労はお止しなさい。心配しても何にもなりません。心配の念は霊界から届けられる援助の通路を塞ぎます。自信を持つのです。道はきっと開けるという確信をもつのです。いつの日か、苦しい体験だったおかげで精神的ならびに霊的に成長したから悔いはない、と言える日が来ることでしょう。”(十)P165

 


――残念なことですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。

 

“それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした(霊的)知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはないはずです。これも人生の一コマだ、すべてではなくホンの一部にすぎないのだという認識ができるからです”(八巻 P141)

 

●唯物的基盤(流砂の土台)・・物量(お金)・権力・支配・暴虐・隷属させることこそ力なり。

 

●霊的摂理を基盤とする(霊的知識の土台)・・・霊的摂理こそ真実の姿、実相なり。

 

 

霊的知識 ≠ 信仰(実践)

霊的摂理の知識と摂理への信仰、すなわち摂理を信じて全幅の信頼を置くという実践(信仰)は別ものです。

 

“いかなる危機が迫りつつあっても、いかなる問題に遭遇しても、あなたの内部にそれを克服する力が秘められていることを忘れてはなりません。同時に、それ以上の強力な力が背後に控えているのです。それを呼び寄せることもできるのです。困難に悩まされた時は―それは人間として避けがたい宿命です―地上の喧騒から身を引いて瞑想の世界に入ることです。そこで霊的意識を広げ、あたりに漂う光輝を存分に吸い込むのです” (十)P171

 

―地上界で受ける霊的教育―

 

どん底の体験から霊的に覚醒し、“本当の自分”に気づいた後につづく霊的教育と霊的成長とは・・

 

第一ステップ・・・霊的知識

 

→「シルバーバーチの霊訓」を通して霊的摂理を学ぶ。

 

→  試練・困難・悲劇に遭遇する。

 

  試練・困難が来ないと信仰が本物かどうか本人にも判らないし、その結果、強化もされません。平穏なときに神を信じるというのは簡単なことです。

 

→ 恐怖心や不安、心配するという“従来からの自分の考えの方”をとるか、自分を捨てシルバーバーチが霊訓で述べていること(前述霊訓の神の保証・担保)を信じる方をとるのか、どちらの方を選ぶかの選択が常に迫られてきます。

 

⇒ 唯物的思考(従来からの考え方)がモグラ叩きのように顔を出し、ふと気がゆるむと無意識に段々と物質的なもの(唯物的基盤)に傾くという強い傾向があります。

 

霊訓を何度読んでいても、記憶として心に残らないのは、潜在意識の中の唯物的基盤が強すぎて、なかなか記憶の中に入ってこられないからです。霊界はフィクションの世界であるかのように無意識に思い込んでいるからです。そのため、何事も繰り返して体で覚えるように、繰り返しての霊的体験が必要となってきます。

 

第二ステップ・・・実践(信仰)

 

→ いかなる状況にあろうとも、従前からの唯物的(本能的)な自分自身の考えよりも、にわかには信じがたく不安ではあるがシルバーバーチが霊的摂理で述べていること(前述霊訓の神の保証・担保)を信じて、思い切って自分自身の考えよりも霊的摂理の方を選ぶという実践的行為の積み重ねの体験が、“摂理に全幅の信頼を置く”ためには必要となってきます。

 

第三ステップ・・・霊的体験

 

→ 霊的摂理(霊訓)の方を選ぶと、思わぬ展開で奇跡的に運命が拓かれてゆき、結果として霊の威力を再確認することができます。

 

→ 唯物的な力(本能に根ざした従来の自分の考え方)よりも、霊的摂理の方が正しくて真実の姿(実相)であるという認識が徐々に深まります。

 

→ “霊は物質に優ります”という体験を忘れては思い出させるかのように、大小の霊的経験を何度も何度も繰り返し繰り返し時間をかけて積んでゆきます。

 

第四ステップ・・・霊性心の発揮と、霊的成長(進化・向上)

 

→ 霊訓で述べられている霊的摂理に対する信頼感が徐々に強くなり、不動の信念化となって確固とした霊的基盤となります。そして自然と霊性心が発揮されるようになってきます。

 

ここに至るまでには数多くの様々な大小の苦難や試練の体験が必要で、不動の信念化は簡単に得られるものではなく、とても時間がかかるものです。

 

《困難・試練にあたっての霊的対処法》

  1. 過去の間違い(結果)にとらわれずに、今からの行動(原因)が大切であることを自覚する。(因果律)

     

    “首をうなだれてはいけません。後ろを振り向いてはいけません。前を見るのです。 過去のページはすでにめくられ、二度と元へは戻せないのです。生命の書は常に新しいページをめくるのです。その日その日のために生き、昨日のために生きてはいけません。

    明日刈り取る収穫のタネを蒔くのは今日なのです。”(十)P166

  2.  

  3. 試練の克服に関して前述の霊訓に書かれてある“神の約束・保証”に自身の基盤を置き、それを担保として全幅の信仰をもつこと。⇒ 自我を捨て、霊訓に述べられている神の約束・保証にしがみつけるかどうかに全てはかかっている。(神との契約)
  4.  

  5. 一人で問題に立ち向かっているのでは無く、守護霊に話かけること。(孤独ではない)
  6.  

  7. 動機は利他からか、また、良心に従っているか。(動機は善なりや、私心なかりしか)
  8.  

  9. 自分にできる精一杯のことをしているか。(精一杯の努力)
  10.  

  11. 当初願っていることとは結果や時期が異なるかもしれないが、必ず問題は克服でき、且つ、自分にとって必ず結果オーライになるとの信念をもつこと。(神の試練克服の約束・保証)
  12.  

 

“容易な手段で得られたものは容易に棄て去られるものです。
 霊的熟達の道は長く、遅々として、しかも困難なものです。霊の褒賞は奮闘努力と犠牲によってのみ獲得されるのです。
 霊的卓越には近道はありません。即席の方法というものはありません。奮闘努力の生活の中で魂が必死の思いで獲得しなければなりません。
 聖者が何年もの修行の末に手にしたものを、利己主義者が一夜のうちに手にすることが出来るとしたら、神の摂理はまやかしであったことになります。それはまさしく神の公正を愚弄するものです。
 一人ひとりの魂が自分の努力によって成長と発達と進化を成就しなくてはならないからです。そうした努力の末に確信を得た魂は、もはや霊的真理をおろそかにすることは絶対にありません” (シルバーバーチの霊訓 八巻 P166)

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(平成29年7月)

死とは その2(平成29年6月26日)(苦しみ・試練

“地上生活の目的は霊が死後に迎えるより大きな生活に備えることです”(シルバーバーチの霊訓 八巻 P133)


前回は“死の意味”について述べましたが、それではなぜ我々は今地上界にいるのでしょうか。
また、死後につづく他界のために我々は今どうしなければならないのでしょうか。
そのことに関して、少し長くなりますがシルバーバーチの霊訓から以下引用します。

 

“そのほとんどが死後への準備が何もできていないのです。みんな当惑し、混乱し、茫然自失の状態です。それでわれわれが、いろいろと手を焼くことになります。本当はそちらで霊的教育を始めるほうがはるかに面倒が少なくて済むのです”(古代霊シルバーバーチ 最後の啓示 P79)

 

―地上界の意義―
「人間はなぜ霊と精神と肉体という構成になっているのでしょうか。」

 

“それは、地球という特殊な体験を提供してくれる世界で精神的に霊的に成長するには、そういう表現手段が必要だからです。精神は、霊すなわち本当のあなたが、脳という物的器官を通して自我を表現するための媒体です。脳は、地上界の物的現象を認知する五感を具えた物的組織の中枢です。
地上界は、実にさまざまな考えや性格をもった人間が入り混じって同じ平面上で生活している、特殊な世界です。その千変万化の生活模様の中からいろいろと学ぶ機会が得られるわけです。

こちらの世界ではその点が異なるのです。こちらへ来て落ち着く先は、あなたと同じ程度の霊性をそなえた者ばかりが集まっている境涯です。当然、発達とか成長というものが地上界とはまったく異なります。
こちらへ来ると、まず地上界の避けがたい穢れ(けがれ)を払い落とすことから始め、霊の純金を出すことに努力します。どれほど純金があるかによって落ち着く先が自動的に決まります。そしてそれに磨きがかけられることによって、霊的により高い境涯へと参ります。その辺がこちらとそちらとの違いです。霊と精神が肉体に宿って同一平面上で生活するところに地上界の意義があるのです

 

「ということは、こちらとそちらでは進化の仕組みが異なるということですか。」

 

“その通りです。進化の原則は一定不変で、一瞬の途切れもなく働いております。が、その顕現の仕方が霊的なレベルの違いによって異なるということです。さきほども言いましたように、地上界ではさまざまなバリエーションの文化、考え方、性格の人間が同一平面上に存在し、互いに影響を受け合っております。無数といってよいほどのバラエティに富んだ人間と接触する機会があるわけです。こちらではそれはありません

 

「同じレベルの者ばかりでは退屈しませんか。」

 

“とんでもありません。霊的成長程度が同じで親和性のある者との交流であり、個性と能力はさまざまですから、少しも退屈はしません。地上で退屈するというのは、親和性のない者と同じ場所に閉じ込められた場合に生じるもので、たしかにうんざりするでしょう。霊的に、そして精神的に親和性のある者同士の間には、倦怠感は生じません。
こちらの世界で互いに愛し合い、同じレベルの霊性を身につけた者どうしは、人間の言語では表現できないほどの生きる喜びを味わいます。退屈するどころか、説明のしようのない喜悦を覚えます”(最後の啓示 P147)

 

⇒(物質界は異なる霊性レベルの人間が混在する世界) × (霊界は同じ霊性レベルの人間のみが同一界層に存在している世界)

 

⇒個霊として新しく誕生する物質界は、比較対照の中で試練や困難をとおして学ぶ世界で、次に進む霊界とは進化の仕組みが異なっている。

 

―物質界と霊界との進化の違い―
“そうして発達を続けていくうちに霊的真理の実相を悟って、もはやその理解のために比較対照というものを必要としなくなる段階に至りますそれは地上においても達成できるものです。つまり知的な思考による理解を超えた“悟り”を地上生活中に得ることができます。それは私たちの世界へ来てから比較対照が無くても実在が理解できるようになるのと同じ段階です”(シルバーバーチの霊訓 八巻 P95)

 

⇒ここの霊的真理の実相とは、具体的に分かりやすい事例として例えると、性も含めて顔やスタイルなどが美しいとか醜いなど、時の経過と共に過ぎ去る肉体美の容姿(虚像・仮の姿)を見るのではなく、“本当のその人である霊魂”の在り様を観ることの方がもっと大切な実の姿(実相)となります。このことは表面的な物的現象の背後で営われている霊的真理の観点からあらゆる事象を観るともいえます。すなわち、永遠のもの(実相)と一時的なもの(虚相)との違いを認識することです。

 

⇒物質界では、比較対照の中で論理的・理性的に判断する“知的な思考”によって理解します。他方、霊界では比較対照や論理的思考によるのでなく、インスピレーションや悟り、直観、啓示などによって理解します。より高い界層から綿々と下ろされてくる叡智を受け入れる段階になったときに、インスピレーションによって受け取れるようになるのでしょう。

 

⇒このように物質界は比較対照をとおして学ぶという明確な目的をもった世界であり、さまざまな霊性レベルの者が同じ平面上に存在するという極めて特殊な世界です。それはいろいろな考え方や性格をもった人間が生み出す千変万化の生活の中から学ぶためなのです。
無意識な霊が個霊として自我意識をもつためには地上界でその表現器官である肉体をまとうことが必要であり、その肉体を持つが故に物質という鈍重な粗い波動のために、精妙な波動である霊魂“本当の自分”や霊性意識が隠されてしまいます。
さまざまな霊性レベルの者が混在する比較対照の世界で、お互いがゼロになって学ぶためにも、当初は“本当の自分”とその霊性意識が潜在意識下に隠され、自分自身も含めて人間の五感には分からないようになっているのです。それは、さまざまな試練や困難の経験を通して“本当の自分”すなわち霊魂を見出し、霊的な成長をするように地上界はなっているからです。

 

―地上生活は他界への準備期間―
人生の究極の目的は、その、あなたという霊の属性を発揮することです。逃れることのできない肉体の死とともに始まる次の段階の生活にそなえるためです。/ 卒業後から始まる社会生活に必要な教育を受けるためです。勉強が十分にできていないと、小学校から中学校へ上がってから、中学校から高等学校へ上がってから、そして高等学校から大学へ進学してから苦労します。そして社会へ出てから困ります。
それと同じです。あなた方はこの世を去ったあとから始まる霊的生活のためのトレーニングを受けるために、今この世に置かれているのです。今のうちに霊的教育を受けていないと、こちらの世界へ来た時に何の準備もできていなくて、大変なハンディを背負って生活しなければなりません。/ その“宮”に宿る霊に、内部に宿る霊性ないし神性を発揮する機会を存分に与える必要があります。その霊性こそ大霊なのです。あなたの内部にひそむ大霊です。それを発揮する機会を求めるのも地上生活における義務です。そのために肉体をたずさえて生まれてきているのですから”(最後の啓示 P145)

 

⇒無意識の霊が肉体に宿ることによって自我意識をもつ魂となり、霊性を発揮しながら神に向かって成長していくという永遠の旅のスタートをこの地上界できったことになります。
新しく生まれたばかりの個霊や、再生を何度もくり返している個霊など、さまざまな霊性レベルの人間が混在し、且つ、霊性(利他愛)とは真逆の唯物拝金主義・利己主義にあふれた比較対照の世界で、さまざまな苦労や試練を重ねて霊的覚醒“本当の自分”に気づくようになっているのです。
すなわち、霊が自我意識をもつようになったこのごく初期の段階では、霊的覚醒や霊的成長をするため光と闇、幸せと不幸、愛と憎しみ、喜びと悲嘆などの比較対照という教材が必須課目となっているのです。霊的成長のスタートをきるには、どうしても地上界の比較対照の体験をとおして目が開かれ、霊的摂理を学ぶことが必要となるのです。だからこそさまざまな試練や困難が我々を待ち受けているのです。

 

“あなたは死んでから霊になるのではありません。こうして生きている今から立派に霊的存在であり、だから死後も生き続けるのです。
その地上生活での体験から教訓を学ぶことは大きな意味があります。しかも、あえて言えば、大きな教訓ほど、困難や障害、ハンディを背負った生活に耐え抜くことから得られるのです。その葛藤の中で内部の霊性が呼び覚まされるのです。
さんさんと太陽がふりそそぎ、すべてが平穏で、問題が何一つ生じないような生活の中では、霊的進化は得られません。困難に遭遇し、それを克服した時にはじめて霊性が向上するのです。鋼鉄が猛火のるつぼの中において鍛え上げられるように、あなたの霊性も苦難との闘いの中においてこそ鍛え上げられるのです”(最後の啓示 P152)

 

“私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいるかぎりは耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。たびたび申し上げておりますように、青天の日もあれば雨天の日もあり、嵐の日もあれば穏やかな日もあるというふうに、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それはもはや幸せとは言えません。幸せがあることがどういうことであるかが分からないからです。悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験してはじめて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達するための手段となっているケースがたくさんあります”(シルバーバーチの霊訓 八巻 P140)

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(平成29年6月)

死とは(平成29年6月2日)(苦しみ・試練

―死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです― (八巻 P103)


※文中の引用本(道しるべ)とは、「シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ」(スピリチュアリズム普及会発行)のことです。
又、今月のテキスト“死後の生活”も参考としてください。

 

死は全員が例外なく体験するとても重要なテーマですが、“死の本当の意味”を理解するにあたっては、まずは“本当の自分”に気づく必要があります。また同時に、予め是非とも知っておかなければならない霊的知識もありますので、それらを以下シルバーバーチの霊訓から引用します。

 

-霊が魂となる-
●“地上の人間的生命は、それまで物質との接触がなかったが故に発現していなかった霊が、肉体という器官を通して表現するのです。その器官は霊の進化にとって大切な地上的教訓が得られるように、実にうまく出来上がっております。
ですから、地上的生命としては新しいといえますが、地上に誕生してくる前に霊として存在していなかったという意味で新しいということではありません。霊とは全生命が創り出される原料です。造化活動の根本的素材です。霊としてはずっと存在しており、これからも永遠に存在し続けます。
もちろん、いっそうの体験を求めて戻ってくる霊の場合は別です。しかし、そうした再生する霊は別として、初めて地上へ誕生してくる霊に限って言えば、そうした霊には地上での表現を始めるまでは個体性つまり人間的意識は所有しておりません。人間的意識は地上への誕生とともに始まります。霊が個的意識として自我を認識する上で決定的な媒体を提供してくれるのは物的身体です

 

「地上へ誕生してくる者の中での“新しい”霊と“古い”霊との割合はどれぐらいでしょうか」

 

“そういうご質問にはおよその数字すら出すことは不可能です。ですが、多分、ほぼ同じぐらいの割合ではないでしょうか”

 

「となると、地上には常に進化の程度の高い霊と低い霊とがいることになりますね」

 

“当然そうなります。そうでなかったら進化が存在しないことになります。”(道しるべ  P213)

 

-地上生活は永遠の生命活動のひとかけら-
●“忘れないでいただきたいのは、地上生活は永遠の生命活動の中のホンの一かけらにすぎないということです。ただの影を実在と思い違いをなさらないようにしてください。
(道しるべ P99)

 

●“その患者さんはどうなると思われるのでしょうか”

 

「たぶん死んでしまうと思います」

 

“それが果たして痛ましいことなのでしょうか。このわたくしも”死んでいる“のですよ。少しも痛ましくはありません。あなたは物的な面ばかりを考えていらっしゃいます。
地上というところは実にこっけいな世界です。生命にとって最も重大な体験である“死”をみんな怖がります。牢から解き放たれることを怖がります。自由の身になることを怖がります。小鳥はカゴから出るのを怖がるでしょうか。なぜ人間はその肉体というカゴから出るのを怖がるのでしょうか
                                         
「でも、たとえば母親が子供を置き去りにしたくないのは自然の情ではないでしょうか」

 

“あなたは生命を五、七十年の地上人生のみで考えていらっしゃいます。永遠の生命をこの世的なことだけで判断できるのでしょうか。大霊の叡智をいま生活しておられるチリほどの物質の世界だけで裁いてはいけません。地上には比較の尺度がないのです。生命活動の世界の中でも最低の界層の一つしか見ていない人間に、どうして最高界のことが理解できましょう”
(道しるべ P145)

 

-死という過渡的現象-
●“そういうわけで、あらかじめ霊的知識をたずさえておけば、死後への適応がラクにできるのです。何も知らない人は適応力がつくまでに長時間の睡眠と休息が必要となります。知識があればすんなりと霊界入りして、しかも意識がしっかりとしています。要するに死後の目覚めは暗い部屋から太陽のさんさんと照る戸外へ出た時と似ていると思えばよろしい。光のまぶしさに慣れる必要があるわけです。
霊的なことを何も知らない人は死という過渡的現象の期間が長びいて、なかなか意識がもどりません。さしずめ地上の赤ん坊のような状態です。ハイハイしながらの行動しかできません。”(道しるべ P23)

 

●“死にまつわる取り越し苦労と恐怖心をなくし、それが永遠の生命の機構の中でそれなりの役割を果たしていることを理解させてあげたいのです”(道しるべ  P25)

 

-寿命は予め決まっている-
●「人間の寿命は前もって決められているのでしょうか」

 

“霊と肉体とは一体不離です。そして地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ分かっております。” (シルバーバーチの霊訓 八巻 P61)

 

●“大自然の摂理の働きに偶然の出来事というものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです” (八巻 P71)

 

-霊魂は進化のつど脱皮を繰り返す-
「(霊的身体は)たくさんあるとすると、死ぬ時はどうなるのでしょうか。一つひとつ抜け落ちていくのでしょうか。」
“進化するごとに身体を脱ぎ替えていきます”

 

「ということは、われわれは何度も死を繰り返すわけですか。」
“そうです。ただし霊が死ぬのではありません。表現の媒体が変わるということです”

 

「いずれは幽体を脱ぎ棄てる時期がくるわけですが、それも死ですか。」
“そうです。肉体が役目を終えて棄て去られるのと同じです”

 

「われわれは何度も死ぬわけですね。」
“そうなります。が、それは有り難いことなのですよ。進歩していることを意味するからです”
(中略)

 

「そこに霊的進化の核心があるのですね?」
“人生そのものの根本の目標が進化であり発展であり成長であり学習なのです。進化するごとに、それまでの役目を果たしてきた身体が自動的に抜け落ちて、その進化した段階にふさわしい身体をまとうのです” (八巻 P106)

 

●“霊的身体は霊格が高くなるほど成熟していきます。霊界での成長は成熟するということです” (八巻 P81)

 

-今までの要約-
①根本的素材、原料としての霊 ⇒ ②肉体をまとって人間的意識をもつ(地上生活) ⇒ 霊が個性意識をもつ魂となる(意識をもった存在)⇒ ③地上で様々な体験を積む ⇒ ④死(肉体を脱ぎ捨て魂を開放するプロセス・波長の調整)⇒ ⑤魂(個霊)として霊界へ ⇒ 何度か再生を繰り返し、地上で霊的覚醒後、霊的成長を始める ⇒ 霊界で脱皮を繰り返し、より高度な永遠の霊的成長の旅へ

 

(参照) 上記①~⑤に対応する霊訓からの引用
①“霊とは全生命が創り出される原料です。造化活動の根本的素材です。” (道しるべ P213)

 

②“初めて地上へ誕生してくる霊に限って言えば、そうした霊には地上での表現を始めるまでは個体性つまり人間的意識は所有しておりません。人間的意識は地上への誕生とともに始まります。霊が個的意識として自我を認識する上で決定的な媒体を提供してくれるのは物的身体です” (道しるべ  P212) ⇒ 霊が肉体をまとって個性(自我意識)を持ち始める。

 

③“地上というのはほんの一時的な生活の場にすぎません”(八巻 P68)
⇒ 物質界は魂の孵卵器 

 

④“それ(死)は霊を解放するという役目を果たすことになるのです”(八巻 P62)
⇒ 外殻(肉体)からの霊魂の解放

 

⑤“私の世界へやってきた人は死が階段を一つ昇ったことを意味すること、大きな解放を得たことを理解します”(八巻 P67) ⇒ 魂が物質界から次のステージ(霊界)へ移行

 

≪解説≫
“死=無になる”ことではないという事実を知っている真のスピリチュアリストにとって、“死”は無いということになります。真実は死にたくても死ねないのです。 死はあくまでも脱皮のための一つの過程(ステップ)であり、次へのステップアップとして、霊界に入るために不用になった肉体を脱ぎ捨てることなのです。長くなりますが、これを四つの譬え話で説明します。

 

(譬え話 その一)
丁度、深海(水中)から海面(大気中)に浮上するときに急激に浮上すると潜水病になるのと似ています。そのため水圧の高い暗黒の深海(物質世界)から明るい海面(幽界)に浮上するにあたっては、ゆっくりと大気圧(霊界)に戻すため再圧室に入らなければなりません。このとき再圧室に入って肉体という潜水服を脱ぎ捨てることが死という現象なのです。すなわち、水中から大気中に切り替わるように、大気(物質界)から霊気(霊界)に対応した体に波長を切り替える(他界への切り替え)ことが“死”という現象なのです。
本体が肉体を脱ぎ捨て、幽体への波長調整のために再圧室の中で深い眠り(死)につきます。そして物質界に近い幽界に入った後、さらに幽界自体が大きな再圧室となって再度徐々に波長を調整、すなわち地上のアカを取り去って、一層精妙な霊体となり霊界に入ります。だからこそナザレ人イエスのように、すでに地上界にあるときから地上に染まらない生き方をして海面近くに(霊界に通じて)おれば、気圧調整のための再圧が不要もしくは短時間で済み、地上のアカ抜きをする幽界を素通りして直ちに霊界入りができるのです。

 

(譬え話 その二)
物質界は大きな子宮・孵卵器のようなもので、霊が魂(個霊)になるために肉体をまとうということは、文字通り母親の子宮内で受精と胚が成長した胎児のようなものです。10月10日で体内から外界に出てくるように、寿命を全うして個性を形成した魂が物質界という大きな子宮から、本来の世界、霊界(幽界)に誕生するプロセスが“死”なのです。

 

(譬え話 その三)
丁度、地中にいた蝉の幼虫が夜中に地上に出てきて木に登り、明け方までには殻から抜け出して蝉になるのに似ています。その外殻が肉体で、死後の肉体はセミの抜け殻のようなものです。本体は真っ暗な地中(物質界)から出てきて脱皮し、とても明るい大気中(霊界)を漂っているのです。

 

(譬え話 その四)
死とは丁度、地球引力にさからって、第一段のロケット(肉体)を切り離し、大気圏から真空の宇宙空間へ脱出するロケットのようなものです。

 

-死の意味のマトメ-

1. 原料、素材としての“霊”が、肉体をまとって地上世界に誕生することによって永遠不滅の個性をもった魂(個霊)となる。

 

2. “死”(霊界への誕生)とは、住む世界に合わせて波長を切り替えるためのプロセスのことです。この波長を切り替えること(死)は霊的成長の一環としての自然法則であり、決して恐ろしいものでもなく、ましてや忌み嫌う不幸でもないのです。

この魂の成長・進化のための“第二の誕生”、物的波長から霊的波長への切り替えは前向きな生理的現象であり、魂を肉体から解放するという役目をもっているのです。
だからこそ、シルバーバーチが述べているように、肉体という牢獄から解き放たれて次のステップとして自由な世界に生きることになった人のことを悲しむことは、地上に残された霊的に無知な人の無用の悲しみ・悲劇・不幸以外の何物でもないのです

 

3. 死とは、霊が肉体をまとって個霊(人間)になるという最低界から始まり、霊的成長をして高い界層へ脱皮を繰り返して進化していくというプロセスの一環なのです。

 

“さらにわたしが嬉しく思うのは、皆さんが永遠に失ったと思い込んでおられた愛する人、あなたを愛してくれていた人が今も健在であることを証明してあげることができたことです。それによって皆さんは、生命がこの宇宙から消えて無くなってしまうことが絶対にないこと、死は愛と情と友愛によってつながっている者を切り離すのではなく、反対に、霊的には一段と親密なものとする事実を認識することができます。” (道しるべ P246)

 

(参考)
1.事故・災害による死について 
●“たとえ地上で60歳、70歳、もしかして100歳まで生きたとしても、無限の時の中での100年など一瞬の間にすぎません。 (中略) 大自然の摂理の働きに偶然の出来事というものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです”  (八巻 P71)

 

2.殺人について 
たとえ殺人で肉体は殺せても、“本当のその人”である霊魂までは波長が異なるため傷つけることができず、殺された本人は本来の実在世界で霊体をまとって生き続けているのです。その霊体は今の肉体よりもよほど実感があるといわれています。
仮に死体を原型が留まらないまでバラバラにして傷めつけたとしても、感情論は別として霊界の視点から観ると、それはあくまでもいわば蝉の抜け殻、脱ぎ捨てられた土に帰る衣服(肉体)を単に引き裂いているにすぎないのです。反対に、むしろ霊界に帰った時に、その殺人行為(重大な摂理違反)に対する“結果”を必然的に自らの身に招くことになるのです。
霊的無知から他界があることを知らず、殺せばすべては無になり永遠に抹殺できると勝手に思い込んでいるだけなのです。もしもこれらの霊的知識があれば、因果律という決して逃れられない絶対的摂理が自動的に働き、物質界もしくは霊界でその結果が自分に帰ってくるということを知っているため、怖ろしくてとても殺人などできないということになります。死後、他界で被害者と加害者が対面させられることになるからです。

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(平成29年5月)

日常的な霊界との交流 その4(平成29年4月19日)(瞑想)

―霊の道具に努める我々地上人を励ます―

霊界と交流し、様々なインスピレーションを受け“霊の道具”に努めてはいるものの、不安を覚え試練や困難に挫けがちな我々地上人に向けて、その心構えと励ましの言葉をシルバーバーチは述べています。最終回として、そのシルバーバーチの言葉でこのシリーズは終えたいと思います。

 

「古代霊シルバーバーチ 最後の啓示」P62から

 

●コリンズ夫人「・・・これからも力のかぎり尽くす所存です。」 

 

あなたに要請されているのはそれだけです。最善を尽くすということです。本日ここに集まった方たちは、私たち霊団も含めて、神の大いなる計画の一翼を担っております。私が永遠の創造過程と呼んでいるものを促進するために、こうして集められたのです。人類の進化に寄与できることは何と素晴らしいことでしょうか。
私たちは地上人類の本来の姿、すなわち物的身体を通して自我を表現している霊的存在であることを教えてあげることができます。その生活の中で最優先すべきものを優先し、霊的原理に基づいた生き方をしていれば、かって経験したことのない生きる喜びを見出すことになります。
地上人類の最大の問題点は、大霊よりも黄金の子牛(金銭)を崇拝の対象としている者が多すぎることです。欲の皮がつっ張れば霊性はしぼみます。霊性が第一であることを一人でも多くの人に説かないといけません。地上のいかなる財産も、この世かぎりのものです。来世まで持っていくことはできません。
(霊的)知識が無知と取って代わるにつれて、光が闇をかき消し、真理が広まるにつれて迷信が退却せざるを得なくなります。私たちと同じくあなたも、物欲第一主義の戦場で霊的開放のために闘うという栄誉を担われた方です。” 

 

さらに、ご主人のフィリップに向かってこう述べた。

 

“・・・これまでも決してラクな道ではありませんでしたが、埋め合わせの法則は間違いなく働きます。低く落ちれば、それだけ高く上がることができます。
失敗しても、すぐに気を取り直して、また始めるのです。/ いついかなる時も泰然自若とした態度を保持することです。なるほど大事業のために選ばれた人は違うと思わせる、冷静で自信に満ちた雰囲気を常に発散してください”

 

●続いて霊視家のマージョリ・オズボーン女史に向かって、

 

“コリンズご夫妻に申し上げたことは、あなたにも当てはまると思いませんか”と問いかけると、オズボーン「そっくりそのままと言ってもよいと思います」

 

霊的大事業の道具として派遣された者にラクな道は有ろうはずがありません。もしラクであれば、授けられた才能が発揮されないのです。ラクで呑気な生活をしていれば、内部の神性は顕現しないのです。困難、障害、難題、悪条件の中でこそ霊性に磨きがかけられるのです。
ダイヤモンドがあの無垢の輝きを見せるようになるまでには、何工程もの粉砕と研磨とを経ているのです。それなしには秘められた美しさが出てこないのです。
霊力に優る力はこの地上には存在しません。万事休す、と思われた絶体絶命の窮地からでも救い出すことのできる力をそなえております。
もしもその力について疑念が湧いた時は、――人間である以上それはやむを得ないことです――かってあなたが真っ暗闇の中に閉じ込められた時に、ひとすじの光明、霊の黄金の光が差し込み、進むべき道が示され、人間的愛とともに神の愛の存在に気づかされた時のことを思い出してください”

 

オズボーン「おっしゃる通りでした」

 

“道に迷ったがゆえに本当の自分を見出すことができたのです。霊的に二度と迷われることはありません”

 

オズボーン「本当に有難いことです」

 

取り越し苦労は何の役にも立ちません。霊性をむしばむ大敵です。不屈の精神・沈着・自信・決意――こうしたものは悟りを開いた魂の属性です。これまで導かれてきたのです。これからも導かれます。疑念が湧いた時は、その思いをそこで押し止め、精神を静めて、魂の奥に引っ込むのです。本当の自我である霊性が道を教えてくれます。
この地球浄化のための戦いにおいて、将校たる者はうろたえることがあってはなりません。持ち場を死守しないといけません。弱気になってはいけません”

 

試練や困難を前にして、霊的知識を信じ実践を決意することによって克服する力が与えられ、その経験が学びとなって霊的に成長するようになっております。霊的覚醒をしたからといって、決して試練や困難が無くなるわけではありません。学びながら成長することが人生の目的そのものだからです。
しかしながら、とてもとても本当にリアルに思えるこの幻影の物質界にあって、“霊の道具”に努めるもののしばしば疑念が湧き、弱気になることもあるのが肉体をまとった不完全な人間です。“人間である以上それはやむを得ないことです”とシルバーバーチ自身が述べているように、なにもコリンズ夫妻やオズボーンに限らず我々にも共通したことであり、それは我々一人一人に向けたシルバーバーチの力強い激励の言葉なのです。

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(平成29年4月)

日常的な霊界との交流 その3(平成29年4月1日)(瞑想)

―より一層 霊能力を伸ばすための方法―

前回に引き続き、次に“霊の世界との正常な関わり合い”をより高めるための方法について、霊訓を引用してみましょう。

 

―霊媒現象の質を高めるための方法をお教え願えませんか。


“いくらでもあります。たびたび引用句を用いて恐縮ですが、ぴったりの言葉があるので引用させてください。聖書に“まず神の国と義を求めよ。さらばこれらの(世俗的な)こともすべて叶えられるであろう”とあります。優先すべきものを間違わないようにとの戒めです。
霊の道具である霊能者が自分の才能が神聖なものであるとの自覚を得た時から、重大な責任を背負うことになります。まず日常生活において、その才能を傷つけたり汚したりすることのないように心掛けないといけません。
次に、その才能を最高の水準にまで高める努力を真剣に行わないといけません。そのためには手にした(霊的)知識を日常生活の中で実践しないといけません。また瞑想と精神統一を実修しないといけません。同じ道を歩んでいる人たちに教えを請う必要もあるでしょう。
あなたにはその指導がお出来になります。これまでの体験から、とかくはまりがちな落とし穴、困難、誘惑を指摘してあげることができます。そうした中でも一ばん大切なのは、自分の責任の自覚です。神の使者としての、途方もなく大きい責任です
そうした優先すべき事柄をきちんと優先させた生き方をしていれば、あとはおのずと収まります。霊的に正しければ、精神的にも物的にもきちんと整います。その優先順位を間違えたら最期、すべてが狂ってきます。” (古代霊シルバーバーチ 最後の啓示 P169)

 

ここでいう霊媒現象を“霊の世界との正常な関わり合い”と捉えてみると、上記の霊訓が我々にもそっくりそのまま当てはまります。
ここの“まず神の国と義を求めよ”の意味ですが、“神の国”すなわち“天国”は自分自身の心の中にあり、神の分霊である“本当の自分”を見出すこと、霊的自我に目覚めること(霊的覚醒)を意味します。また“神の義”とは霊的真理・摂理のことを意味します。
すなわち霊媒現象の質を高める方法とは、“本当の自分”の自覚とその心である良心・霊性心に従い(霊主肉従の努力)、霊的真理・摂理に順応して生きる(利他愛の実践)ことなのです。

“神の王国は各自の魂の中にあるのです。この事実がなんと理解されていないことでしょう。その深い自我に触れる方法は神の摂理にのっとった生き方に徹することです。しかし、どれほどの人がそういう生き方を心掛けていることでしょう。” (シルバーバーチの霊訓 十二巻 P165)


“生命の基盤である永遠の霊的原理を片時も忘れずに、それと調和して生きるように心掛けなさい。それが、“存在”のより高い次元と調和して生きる者にかならず訪れる冷静さと憩いと落着きと安らぎと内的静寂を確保する道です。” (シルバーバーチの霊訓 十二巻 P157)


以上、ここまで霊の世界との正常な関わり合いの必要性と、その質を高める方法について縷々述べてきました。


それでは次に、視点をもっと広くして霊的視野からそれらの意義・目的を理解し、この地上人生を見つめ直してみたいと思います。


1.我々は誕生前に類魂を代表して今生の使命や目標を定め計画して最も適した時期、国、両親や人生を選び誕生してきた。
⇒英国以外ではシルバーバーチの霊訓全巻が揃っている世界で唯一の国日本に、それも全訳がそろったこの段階で地上生活をするように出生してきた。


2.守護霊(類魂仲間)の導きによってこの度の物質界でシルバーバーチの霊訓に出会い、“本当の自分”が霊魂であることに気づかされた。
⇒霊的覚醒を経て人生の真の目的を知り、霊の道具として我々は霊的真理の普及活動という摂理実践の道を今歩んでいる。


3.他界後には霊界でする仕事が我々を待っており、今の地上人生はそれに備えてのトレーニングの場であるとシルバーバーチは言っている。
⇒霊界では、地上人類救済計画という大事業のために高位霊による大霊団が大々的に組織化されている。

“人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時に、あなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまざまな体験を積むということです。” (シルバーバーチの霊訓 一巻 P45)


4.日本に生まれた真のスピリチュアリストは、シルバーバーチの霊訓を通して霊的知識の学びと、利他愛の実践としての霊的真理普及活動というトレーンングを物質界で積み、死後に我々を待ちうける仕事に備えているのです。すなわち喫緊の課題となっている霊的無知からくる物質界や中間境での深刻な混乱に対峙するべく、霊界が計画している人類救済計画という大事業に少しでもお役にたてるように、いろいろな霊性段階の魂の混在する物質界を今体験しているのです。
新卒の新人としてではなく、利己主義、唯物拝金主義に満ちたこの物質界という最も過酷な最前線で即戦力となるべく霊的真理普及の訓練を積んできた人材として。


“ここにおいでの皆さんの多くはみずから地上への再生を希望し、そして今この仕事にたずさわっておられます。” (シルバーバーチの霊訓 八巻 P27)


類魂仲間を代表して21世紀初頭のこの日本で地上生活を送り、そして誕生前の計画通り無事霊的覚醒をした者は、霊の世界との正常な関り合いを地上で経験するのも、その霊媒現象の質をより高めるのも、実はそれもこれも全ては物質界及び幽界での人類救済活動という“本来の使命”達成のためのプロセスなのです。我々が霊界に戻った時に待ち受けるこの大事業の手助けが少しでもできるように、今から死後の世界の水先案内人として、“途方もなく大きな責任”を地上にある我々日本人スピリチュアリスト一人一人は背負っていることになるのです。決して自分一人のためにシルバーバーチの霊訓を通して霊的知識が授けられているのではないのです。


次回に続く

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(平成29年3月)

日常的な霊界との交流 その2(平成29年3月2日)(瞑想)

精神統一の意義
前回に引き続き、今回は“霊の世界と正常な関わり合いをもつ”ために必要となる“精神の統一”について述べてみます。

 

心を空にして穏やかな気持ちの中で精神を統一するだけで十分です。その統一状態の中で霊の力が働くのです。そうした静かな精神状態というのが、物的生活に振り回されている騒々しさに一時的なストップをかけることになります。そのわずかな時間を霊性の開拓と、自宅内での霊的存在の認識へ向けたことになります。地上の人間は静かな精神状態をもつことの効用を十分に認識しておりません。私がよく申し上げているように、あなた方にとって無活動の時が私たちにとって一ばん近づきやすいからです。” (シルバーバーチの霊訓 七巻 P101)

 

―はじめに―
私たちが瞑想をする目的は、丁度、暴走しだしてコントールがきかなくなった(フリーズした)パソコンのメインスイッチを切ってリセットしなおすようなもので、霊魂と精神と身体の三位一体の調和を取り戻すことにあります。そのための方法が瞑想による“精神の統一”なのです。

 

―精神統一の意義―
“精神の統一”とは、“精神の収束”すなわちコロコロと動き回る心の働きを抑えることです。
この“精神統一”の意味をより理解しやすくするために、それとは真逆のことを考えてみましょう。
人間は消極的な暗示には容易に心が感染しやすく、心配や取り越し苦労、不安などの雑念妄想念が際限なく膨らんで、雑念も含めたこの消極的な観念が頭の中を常に堂々巡りしています。一難去って又一難と次から次にやってくる大小の諸問題に、ひっきりなしに振り回されている精神状態が精神統一(収束)の反対なのです。
丁度、海上が常に荒れている状態と同じで、この迷いやすい性格が自分自身を不明にし、自分を信じる信念がもてなくなる原因なのです。

 

これらの雑念や妄想観念に対して、“精神を統一”するとは具体的にいうと“心を空にする”すなわち意識はあるけれども何も考えない状態、頭の中が空っぽで色のない白紙状態の“無我無念”になることです。これが“受身の姿勢”となることなのです。


精神を鎮め、受容性と協調性に富んだ受身の姿勢を取れば、その霊力がふんだんに流入し、人間だけでなく動物をも治癒させる、その通路となることができます。”(シルバーバーチの霊訓 八巻 P27)

 

“精神の統一”(収束)とは顕在意識上の自我(仮の我)の雑念妄想念が消えた意識状態(空の心)であり、その結果、相対的に潜在意識下に埋もれていた本体である霊的自我、“本当の自分”(真の我)が浮き上がってきます。“仮の我”を“真の我”と同化させるともいえます。本能心や感覚・感情心などのエゴ(自我)の力が弱まって一時的に引っ込み、霊性心(良心)の発現力が増してきて、「自己統御」すなわち道具としての「心身の統一」がやりやすくなってきます。
そうなると、この世で霊的自我に目覚めた自我は、本来の姿であるこの心身統一状態の中で“本当の自分”である霊的自我の心(霊性心)に従い、霊主肉従で生きようとしだします。

 

但し、この瞑想は言うは易く行うは難しで、決して簡単ではありませんが、長期間にわたって努力しこの“精神統一”を習慣化していくと、徐々に雑念妄想念(執着煩悩)が少なくなり、心が凪(なぎ)になって落ちつきだします。そうなると心に余裕が生まれてきて霊的知識に基づいて正しい判断ができるようになり、且つ、今までの自我(利己)の力が弱くなってくるため良心(霊性心)に対しても言い訳をしなくなってきます。すなわち素直になって霊的摂理の実践(利他の実践)がやりやすくなってくるのです。その基盤となるのが盤石不動の真理の上に築き上げた霊的知識なのです。
これは丁度、波立って荒れていた海上が徐々に凪(なぎ)になるのに似ています。
心の曇りの払拭ができると隠されていた太陽や月の光が照りだし、海面はその光を反射しやすくなってきます。内なる太陽である神性(霊性心・良心)が発現しだすのです。そして霊力の流れも良くなり、精妙な叡智のインスピレーションと感応しやすくなってきます。このことを東京シルバーバーチ読書会主催者の須江克則氏は、“錆ついたアンテナを磨く”と表現されておられます。
(参考)「スピリチュアリズム研究ノート」 “瞑想の光と影”
http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/10/post-fd28.html


遠隔治療はなぜ睡眠中に効果的なのか、その理由として相手が寝ている間は頭の中が空っぽ(無意識)状態で、顕在意識の自我(仮の我)が邪魔をしなくなり、スピリット ヒーリングの霊力が流れやすくなるからです。
“たいていの場合、それ(遠隔治療)は患者の睡眠中に行われるのです。その方が患者の霊的身体との接触が容易なのです。” (シルバーバーチの霊訓 七巻 P183)

 

同じ無意識でも精神統一と睡眠との違いは、覚醒しながら意識的に“頭空っぽ”状態にすることが精神統一なのです。(動中静感)
わずかな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることが出来、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。”(シルバーバーチの霊訓 七巻 P198)

 

―瞑想のやり方―

まず五感をとり去ります。すなわち視覚、聴覚を消し、次に頭の中の雑念妄念を消します。慣れていないとこの雑念妄念を消すのはとても難しいことですが・・・。


雑念妄念を消すやり方の一例として、以下の“寸感”に私の方法が書かれてありますので参考にしてください。
  ・精神統一とは   その 一 ~ 二 (H25.9~10)
  ・瞑想・精神の統一 その 一 ~ 四 (H27.1~4)

 

―まとめー

瞑想をすると“精神が統一”され、インスピレーションをとおして叡智や悟りが入りやすくなってきます。当然のことですが、精妙な高位霊と感応するためにはこちらも霊性を高め受容性を増す必要があります。そのためには必ず霊的知識の学びと瞑想は併行して進めなければなりません。これは丁度、知識とその実践の関係にあり、表裏一体でどちらも欠かせませんが、あくまでも瞑想は手段、道具にすぎず、“霊の世界との正常な関わり合い”をもつためには正しい霊的知識がその前提となります。高位霊と低位霊との見分けが必要となってくるからです。

 

以上まとめますと、我々は本来神の分霊としての霊的存在であり、それが今は肉体をとおして自我を表現しているにすぎないとの正しい認識を持った上で、瞑想によって内在している“本当の自分”の心、神性心(霊性心)を引き出し、同時に外部からは守護霊や指導霊のインスピレーションを受信しやすくするのです。
結果として、邪心や妄想念が飛び交っているエゴ丸出しの利己主義、唯物・拝金主義のこの物質界で、霊魂・精神・身体の三位一体が得られ円満な精神と平静な感情を育むことにもなります。
疑念が生じた時は精神を統一して物質界の喧騒から逃れるのです。すると霊的理解が得られます。統一状態が深まれば深まるほど内的な安らぎ、静寂、安心感、決意といったものがふかまり、自分にとって最良のものが授けられるとの確信をもつことができるようになります。”(シルバーバーチの霊訓 十巻 P42)

 

深い瞑想をするには長い期間と訓練という不断の努力、そして意志の力が必要となりますが、他界後、幽界に行っても魂の修行は“精神の統一”から始めることになるそうですので(参照:寸感 “精神統一 その一” 平成25.9)、我々はその修行を瞑想によって既にこの物質界で始めていることになるのです。瞑想を通じて集中力や意志の力を養うのです。

 

―私は精神統一の修行を何年も続けておりますが、どうすればいちばん良いのでしょうか。
(中略)
―大霊と一体になるのは可能なのでしょうか。

 

“基本的には人間は大霊と一体です。霊性においてつながっているという意味です。ですから、心配・不安・悩みといった低級感情を消し、大霊の計らいに絶対的な確信と信念を抱き、世俗の喧騒から遁れて魂の奥に入り、平安と静寂の中に休らい、不屈の精神に燃えることです。
精神を統一するにはいろいろな方法があります。いずれにしても、決して容易ではありません。が、修行の努力は必ず報われます。” (古代霊シルバーバーチ 最後の啓示 P48)

 

次回に続く

 

 

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(平成29年2月)

日常的な霊界との交流 その1(平成29年2月1日)(瞑想)

―全員が霊的存在であり例外なく霊能者―
――ということは、霊的能力は物的身体とは関係ないというわけですね?
“能力そのものは霊に備わったものです。霊の機能といってもよろしい。物的身体にいろいろと機能があるように、霊にも機能があります。
霊視能力というのは、肉体の眼で見るように、霊の眼で見ることです。霊聴能力というのは、肉体の耳で聞くのと同じように、霊の耳で聞くことです。人間は本質的には霊的存在ですから、その意味では人間はみんな潜在的な霊能者であるわけです。
もっとも、能力の顕現の仕方には無限といってもよいほどの形態があります。純粋にスピリチュアル(霊的)といえるものに到達するまでには物的なもの・心霊的なもの・幽的なもの、その他いくつもの段階を経ることになります。” (シルバーバーチの新たなる啓示 P117)

 

霊の力の顕現の仕方が千差万別であるということは、我々一人ひとりも千差万別の霊能者・霊媒となる素質があり、能力に程度の差はあっても決して特殊な才能のある人だけが霊能者・霊媒なのではありません。

 

―霊界とコンタクトをとることの大切さ―
要は地上の人間が霊の世界との正常な関わり合いをもつことが大切なのです。とくに現代のような物質偏重の時代にはそれが必要です。なぜなら、何らかの形で霊の世界と結びつくことによって、援助・導き・霊感・叡智・愛といったものが届けられることになるからです。いったんその霊的関係ができ上がると二度と断絶することはありません。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P111)

 

どうも我々スピリチュアリストといえども、“霊界人と直接コンタクトをとる”というような話をするときは、相手に胡散臭さやオドロオドロしさを感じさせないか等々、正直なところ多少のためらいがあります。オカルトやオーム真理教などの似非宗教に対するアレルギーや警戒心が人々の心の中に強くあるからです。
しかしながら、上記の霊訓で判るように、我々が直接“霊の世界と正常な関わりをもつこと”の大切さをシルバーバーチ自身が明言しています。だからそれが“正常な関わり合い”でさえあれば、霊界人とコンタクトをとることの必要性を時に応じて我々は正々堂々とためらいなく主張してもよいのです。
但し、“正常な関わり合いをもつこと”ということが前提条件であり、そのためには宗教者も含めて霊的知識に無知な今の時代では、シルバーバーチの下ろした霊訓に基づいた正しい霊的知識・法則の学びが必須となります。

 

―嘆かわしいほどの霊的無知―
嘆かわしいほどの無知を考えればそれも止むを得ないことです。すでに役目を終えた肉体の死を大げさに嘆き悲しみ、その肉体から抜け出て元気はつらつとした霊の存在については、毛の先ほどの知識も持ち合わせない―残念ながらそれが地上界の現実です。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P108)

 

残念ながら世の中の大多数の人々、特に宗教を専門職とする人々といえども霊的知識に関しては嘆かわしいほど無知なのです。

 

―霊界の存在と霊的真理を広めること―
“あなたの役目は、霊にかかわる真理を事実に即して披露することです。地上で生活している人に、今そうして生きているそのすぐ身のまわりに、より大きな生命の世界がひしめくように存在していて、それこそが永遠の住処であり、いずれはみんなそこに行くことになるということを教えてあげることです。” (シルバーバーチの新たなる啓示 P112)

 

先に導かれて霊的真理を知った者は、すぐ隣接する霊界の存在と霊界との正常な関わり合いをもつことの大切さを、事実に基づいて人に伝える責任がでてきます。

 

―霊の世界との正常な関わり合いの中で、霊界の宝物庫からいろいろな形の霊力が届けられる
“その大霊の力は、ある時はインスピレーションとなり、ある時は啓示となり、ある時は叡智となり、ある時は真理となって届けられ、またある時は支援の力となり治癒力となって届けられます。” (シルバーバーチの新たなる啓示 P87)

 

ここで判るように、物理的な奇跡的現象を起こすことだけが霊能力ではないのです。

 

次回の“寸感”は、“霊の世界と正常な関わり合いをもつ”ために必要となる手段のお話をいたします。

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(平成29年1月)

最善を尽くせばそれで良いのです(平成28年12月26日)(苦しみ・試練)

―正しい知識を手にしながら相変わらずそれが実行できないのは、どこがいけないのでしょうか?
“それは、まだまだ霊性がひ弱だからです。強健でないからです。”
(シルバーバーチの新たなる啓示 P208)


 “知識には責任が伴います。”(シルバーバーチ不滅の真理 P25)
霊的自覚に至り、霊的知識を知った者には“責任が伴う”とシルバーバーチは言っています。
では、この責任とはいったい何でしょうか?
すぐに頭に上ってくるのは、いまだ知らない人に対する“霊的摂理の普及”という責任です。しかしながら、霊的摂理普及のチャンスは、四六時中常にあるわけではありません。
それももちろんそうですが、ほとんどの時間を費やしている普段の日常生活や仕事場での霊的知識に対する責任のことをいうのです。


私達は常日頃、霊的知識を忘れていて普段は意識していません。すなわち、霊訓を読んでもその時だけの単なる読書であり、その時に読んだ知識はほとんど頭には残っておらず日常の意識には上ってこないのが実情です。その証拠にとても身近な例として“霊的真理を学んだ者は、不安や心配・取り越し苦労はしてはいけません”とシルバーバーチが口を酸っぱくして諌めていても、そんなことにはおかまいなく“のべつ幕無し”に何となく不安や心配、取り越し苦労をよくしているのがそのよい左証です。


日常、試練や困難がさほど無いときは霊的摂理に適って生きていると錯覚しています。
しかし、一旦試練や困難が生じると“これが心配せずにいられるか”とばかりに世間に流されている自分がいます。このときシルバーバーチの霊訓をとるのか、世間一般常識の方を選ぶかの選択に迫られますが、ベテランといえども不安や心配・取り越し苦労が絶えないということは、真底から霊的摂理を信じていない(霊性がひ弱で強健でない)何よりの証拠なのです。


“霊的真理を手にした者が恐れや不安を抱くようなことがあってはなりません”(シルバーバーチの新たなる啓示 P99)という霊訓の知識がありながら、不安や心配・取り越し苦労が絶えないということは、その知識を日常で実践するという“責任”を果たしていないということになるのです。一言でいって信念(信仰)がひ弱なのです。それだけ物質世界の幻影は強烈で我々にとってはリアルだということでもあります。


“真理を手にしたら、その時から、それをいかに使用するかについての責任が問われるということです。霊的真理に目覚め、霊力の働きに得心がいったら、その時から、今日の悩み、明日への不安を抱くことがあってはなりません。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P100)


それでは不安や心配・取り越し苦労の原因となっている“苦しみ・試練”とは一体何なのでしょうか、そのことについて以下に霊訓を抜粋します。


みなさんが遭遇する問題について、私はそのすべてを知っております。とくに何人かの方とは、地上的表現でいう“ずいぶんと永いお付き合い”を続けております。生活上でもいろいろと変化があり、悩みごとや困難、避けられない事態に対処していかれる様子をこの目で拝見してまいりました。ですが、今こうしてお会いしてみて、魂に何一つ傷を負うことなく、そのいずれをも見事に克服してこられたことが分かります。
遭遇する問題の一つひとつを、あなたへの挑戦と受け止めないといけません。障害の一つひとつが挑戦なのです。ハンディキャップの一つひとつが挑戦なのです。地上生活では挑戦すべき課題が次から次へと絶え間なく生じます。しかし、いかに強烈でも、いかに強大でも、あなたの進化を妨げるほどのものは絶対に生じません。大切なのは、それにどう対処するか―その心の姿勢です。
自分の霊性の発達にとって、どういう体験が大切であるかの判断は、あなた方自身にはできません。大きな全体像の中のごく限られた一部しか目に入らないために、あなた方自身が下す判断はどうしても歪められたものとなります。
ですから、体験の価値をうんぬんしていないで、とにかくそれを克服していくのです。きっと克服できます。克服するごとに霊性が強化されていきます。身体は不完全であり、弱さをもっております。あまりのストレスに負けて、体調を崩すことがあるかも知れません。
しかし、あなた方に宿る霊性は大霊の一部なのです。霊は、潜在的には完ぺきです。すべてを克服していく資質を秘めております。その認識のもとに対処すれば、きっと克服できます。
このことを語気を強めて申し上げるのは、それが私たちの教えの中枢だからです。”
(シルバーバーチの新たなる啓示 P74)


以上のことをふまえて、我々のとるべき態度は次の通りです。


“私が同志の方々にいつも申し上げていることは、自分の可能な範囲で最善を尽くすということ、これ以上のことは人間に求められていないということです。
あなたがた地上の人間は、不完全さをたくさん携えた存在であり、その欠点を少しずつ改めていかねばなりません。が、それは長い時間を必要とする仕事であり、たった一回の地上生活で成就できるものではありません。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P95)


そうです。欠点だらけでとても不完全な我々は最善を尽くすだけでよいのです。
人間の視野はきわめて限られております。ですから、背後霊に任せることです。万事うまく行きます。一時的には不遇を忍ばねばならないことがあるかもしれません。しかし最終的には必ずうまく収まります。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P105)


これが霊的摂理であり、高級霊からの約束(契約)なのです。だからこそ、高級霊の守りや導きを信じ、霊性心(道義心・良心)に従いベストを尽くせば、あとは不安や心配・取り越し苦労をする必要はないのです。というか、してはいけないのです。

我々にとってとても身近な問題である悩みや心配、不安が絶えないということは、これらの霊的摂理を知っている者に対してその“責任が真剣に問われている”ことになるのです。

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(平成28年12月)

霊的知識を正しく理解した人(平成28年11月30日)(雑記)

“大切なのは暗闇と難問と混乱に満ちた地上世界にあって、霊的知識を正しく理解した人が一人でも多く輩出して、霊的な灯台となり、暗闇の中にある人の道案内として、真理の光を輝かせてくださることです。
霊的真理を手にした時点で、二つのことが生じます。一つは、霊界との磁気的な連絡ができ、それを通路としてさらに多くの知識とインスピレーションを手にすることができるようになることです。もう一つは、そうした全生命の根元である霊的実在に目覚めたからには、こんどはその恩恵を他の人々に分け与えるために、自分がそのための純粋な通路となるように心がけるべき義務が生じることです。” (シルバーバーチの新たなる啓示 P46)

 

ここでシルバーバーチは“霊的知識を正しく理解した人”は、まず一つ目として霊界との磁気的な連絡ができる“カギ”を手にしたことになり、霊的宝庫から多くの叡智をインスピレーションをとおして引き出すことが出来るといっています。

 

そして二つ目として、霊力の“導管”すなわち霊界からの働きかけの純粋な通路(道具)となるように心がける義務が生じると述べています。自分一人のために霊的叡智があるのではないからです。霊界から観ると地上世界はエゴ丸出しの地獄の様相を呈しています。その漆黒の暗闇の中にあって地獄の苦しみを体験している人に、正しい真理を伝える責務が同時に生じるといっています。

 

この二つのことは表裏一体にあり、知識と実践という切り離せない関係なのです。人に霊的真理を伝えるからさらに多くの叡智が入ってきます。他者に流れていった霊力が“導管”の通りを良くし、さらに多く霊力がインスピレーションとして霊界から流れ込んでくるといってもよいでしょう。

この二つの関係が“真理を正しく理解した人”の共通した特徴となります。
但し、あくまでも霊界の“導管”ですので、霊的能力を自慢したり、霊感ビジネスとして報酬を求めたりすることは間違っているのです。無償で与えられたものは無償で人に分け与えるべきです。それがさらに多く得るための秘訣なのです。人に与えるということはそのおこぼれが自分にも必ずついてまわるのです。そのおこぼれを物質界のお金や権力に換えてはいけないのです。

 

“そこにあなた自身の責任が生じます。真理を手にしたら、その時から、それをいかに使用するかについての責任が問われるということです。霊的真理に目覚め、霊力の働きに得心がいったら、その時から、今日の悩み、明日への不安を抱くことがあってはなりません。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P100)

 

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(平成28年11月)

霊的成長に合わせたより高度な叡智(平成28年10月26日)(人生の目的)

私の友人から興味深い話がありました。シルバーバーチの原書の翻訳文が近藤千雄氏のものと、スピリチュアル普及会のものとは異なっている個所があるというものでした。参考までに事例の一つを具体的に取り上げてみましょう。

 

原書と二冊の翻訳本からそれぞれを引用してみました。

 

Children of Evolution:
(I, whom you call Silver Birch, represent only a small portion of the knowledge that belongs to the infinity of the spheres.)
As you grow, other teachers greater than I can use me to impart higher knowledge and wisdom to you. (Teachings of Silver Birch by A.W.Austen P109)

 

第十一章 進化の土壌としての地上生活:
皆さんの成長の度合いがこの私の知識では満足しきれないほどになれば、私に代わって一段と高い界層の霊団が、より高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。(シルバーバーチは語る  P188  近藤千雄訳)

 

第十章 霊的進化の道を歩む神の子供たち:
皆さんがさらに成長すれば、私よりも一段と高い指導霊が、私を使ってより高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。(シルバーバーチの教え 上巻  P163 普及会訳)

 

これは私見ですが、近藤千雄氏はご自身のインスピレーションをとても重視して読者が理解しやすいようにと翻訳されているようで、他方、普及会は複数の人の合意のもとで翻訳されているために、原書にできるだけ忠実な訳となっているように思います。

 

ついでですのでこの霊訓の内容について、私の考えを述べさせていただきます。

シルバーバーチ自らが“神の道具”と呼んでいるように、その霊訓の内容自体はさらにもっと上流の高級霊から降ろされているようです。きっと、シルバーバーチ自身の体験を通して我々に伝える叡智と、シルバーバーチが霊媒となり“導管”となって降ろされる叡智とが霊訓の中には混在しているのだろうと思います。どの霊訓がシルバーバーチ自身のものかは知る由もありませんが、永遠の霊的真理であればどちらでもよいことです。
さらに、これらとは別に読者の霊的成長度に応じて、シルバーバーチの霊訓を使って(use me)降ろされるより高度のインスピレーション(叡智)があるのだろうと思います。

 

このことを具体的に述べますと、霊訓をくり返し読み返すことによって、一見何でもない同じ個所の霊訓でも今までまったく気づかなかった大きな叡智をインスピレーションで受け取ることがあります。すなわち霊的成長度に合わせて、受け取れる段階になったときに始めてより高い叡智のインスピレーションを受け取ることがでるようになります。

 

霊訓を読んでいても、シルバーバーチからくる霊訓の知識と、これとは別にもっと上流の高級霊からくる高い叡智との違いがあっても不思議ではないと考えております。その理由は、同じ霊訓の個所でも我々の理解度の深さ、すなわち霊訓の意味する意味合いの深さが霊的成長度によって異なってくるからです。このことを分かりやすく表現すると、表面づらだけではなく、文章の裏のそのまた裏が読めるようになってくるということです。(ある意味、理解できる段階になるまでそれらはあえて隠されているのかもしれません。) 
“摂理の裏にも摂理があり、またその裏にも摂理がある”とシルバーバーチも霊訓で述べています。例えば、因果律という摂理があり、それは一人ひとりに完全な公正が行きわたるという摂理でもあり、その目的とするところはその因果律を使って霊的に成長することができるという摂理です。そして成長することによって宇宙の進化発展の創造活動に共に参加するという摂理があります。さらに、これら一連の摂理の背後には神の大いなる愛があるという摂理です。

 

また、単に一ヶ所の霊訓の意味合いの深さの違いだけではなく、いろいろな個所で、一見別々のように語られていることが、実は全てが一つのものに集約され大きな叡智に繋がるということもあります。それら一連の個所に出会うのも、また気づくのも霊界からの導きやインスピレーションの為せる技です。

霊界人とのコミューンが進むと、こういうこともできるようになってきます。このことが正に無尽蔵の霊的叡智の兵器庫を開く“カギ”をまずは手に入れたということになるのです。何せ“あなた方が地上で手にする(霊的)知識は死後に待ち受けている膨大な(霊的)知識の宝にくらべれば、そのホンの上っつらを引っかいた程度にすぎません”(十二)P163 のですから。

 

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 (平成28年10月)

真の宝”とは、その宝を手に入れる“カギ”とは(平成28年9月30日)(人生の目的)

(七)はシルバーバーチの霊訓の七巻です

先月使用したテキストにはとても大切なことが含まれておりますので、一部修正して今月の“寸感”といたしました。

 

“いつも申し上げておりますように、あなた方はそれぞれに無限の可能性を秘めたなのです。宇宙を創造した力と本質的に同じものが各自に宿っているのです。
その潜在力を開発する方法を会得さえすれば、内在する霊的な貯えを呼び覚ます方法を会得さえすれば、霊力の貯水池から吸い上げることができるようになりさえすれば、恐怖の迫った状態でも泰然としていられるようになります。
人生の旅においてあなたを悩ますあらゆる問題を克服していく手段は全部そろっているのです。それがあなたの内部に宿っているのです。イエスはそれを“神の御国は汝の中にある”と言いました。神の御国とはその無限の霊的貯蔵庫のことです。自己開発によってそれを我がものとすることができると言っているのです。開発すればするほど、ますます多くのが永久に自分のものとなるのです。もしも私の説く訓えがラクなことばかりであれば、それは人生には発展と進化のチャンスがないことを意味します。人生には無数の困難があります。だからこそ完全に向けてのチャンスが無数にあることになるのです。” (七)P75 

 

Ⅰ)ここでいう宝とは? 
そのヒントとなる言葉が下記の霊訓に述べられています。

 

“どうか私がこれまで述べてきた知識の中から物的生活の背後で働いている霊的活動、あなたの身のまわりにほうはいとして存在する莫大な霊力、あなた方を善のために活用せんとして待ちかまえている霊の存在を認識してくださいあなた自身の中に潜在する可能性をしっかりと認識してください。それが自我の霊的本性のもつ莫大な兵器庫魂の宝庫を開くカギとなるからです。神の叡智は無限であるということ、宇宙の宝物は無尽蔵であるということの意味を、しっかりと理解してください。” (七) P58

 

知識こそすべての者が所有すべきです。” (七)P50

 

“私たちの勢力は、生命が永遠であること、人間は例外なく死後も生き続けること、愛に死はなく、死者への哀悼は無用であること、そして宇宙には誰にでも分け隔てなく与えられる無限の霊的叡智と愛とインスピレーションの泉があることを教えたくて戻ってくる男女によって編成されているのです。” (七)P117

 

ここでは“神の叡智”という無尽蔵の“宝物”が兵器庫(魂の宝庫)にたくわえられていると書かれてあります。兵器庫にある“宝”とは霊的成長に直結する“霊的叡智”、“愛”、“インスピレーション”のことなのです。

 

Ⅱ)では、その“真の宝”を入手する方法、“カギ”とは? 
前記の霊訓の三通りの方法や魂の宝庫を開く“カギ”とは、具体的にどのようなことを示しているのでしょうか? その解は次の霊訓に書かれているようです。

 

“人類の大半を占める人たちがまだ霊的なものを求める段階まで達しておりません。言いかえれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです。” (七)P30 

 

“霊界には、いついかなる時も、インスピレーションによる指導と鼓舞の手段を用意した霊の大軍が控えております。真剣に求めてしかも何一つ手にすることが出来ないということは絶対にありません。求める者にはかならず救助と援助と指導とが与えられます。かって地上のためにこれほど大規模な活動が行われたことはありません。真摯に求める者のために生きた真理の水を用意し、叡智に満ちた驚異的現象を用意し、霊の貯蔵庫が無尽蔵であること、いかなる要求にも応えられること、誰であろうと、どこにいようと、その恩恵にあずかることができることを知っていただく態勢ができております。
生まれや地位、身分、職業、民族、国家の別は関係ありません。また仕事で地下に潜っていても、海洋へ出ていても、空を飛んでいても、あるいは列車に乗っていても、船に乗っていても、工場で働いている時も事務所で働いている時も、お店でお客の相手をしている時も、あるいは家で家事にたずさわっている時も、つねに霊の力の恩恵にあずかることができるのです。霊的貯蔵庫との波長がうまく調和しさえすれば、その恩恵にあずかることができます。各自がもつ受容能力に似合った分だけを授かります。何とすばらしい真理でしょう。それなのになお地上にはそれを否定する人がいます。” (七)P113

 

霊界からの声と力による導きと援助を素直に受け入れるようになりさえすれば、さほど大変なことではありません。” (七)P63

 

これらの霊訓から推測すると、神から与えられた霊的資質(霊体が有する能力)である“霊的波長を感受する能力”“高感度の波長を感じ取る”ことこそが“魂の宝庫を開くカギ”となるようです。
霊交、すなわち霊界の守護霊や指導霊と常にコンタクトをとることなのです。私たちの本体は霊であり、物質界に生きていると同時に霊界にも生きているからこそ可能になるのですが、神から与えられたこの霊的資質、すなわち交霊能力があることに気づいていないので使いようがないのです。まさに宝の持ち腐れです。

 

“地上の人々が霊的な摂理を理解し、内部に具わっている霊的資質が自然に発揮されるような自然な生活を送れば、二つの世界の間にかかっているベールが突き破られ、すべての障害が撤去されることでしょう。その障害はことごとく人間の無知と迷信と偏見とによってこしらえられたものばかりなのです。言うなれば闇の勢力です。ぜひとも打ち破って、愛と力と導きと光明がふんだんに地上へ届けられるようにしなければなりません。” (七)P87

 

霊交ほど強い味方はありません。物質の目で観るよりも確だからです。これがM・H・テスターのいう霊人とのコミューンという意味です(平成26年6月の寸感“背後霊とのコンタクト方法について”参照)。
では、どのようにすればコミューンが可能となるのでしょうか。それには霊的知識に基いて、祈りと瞑想で心を空にし、できるだけ磨きのかかった鏡面のごとく精神を統一することです。

 

―まとめ―
私たちは“シルバーバーチの霊訓”を通して霊的知識を常日頃学んでおりますが、例外なく日常生活や仕事の場でさまざまな試練や困難、喧騒に遭遇します。困難に遭遇すると祈りや瞑想をとおして心を開き、守護霊や指導霊からの“導き”を求めるようになりますが、そうするとふとした時にインスピレーションや霊的知識が生きた言葉となって入ってきて、励ましを受け勇気づけられて試練の真の意味を理解することができるようになります。きっとそういう経験をすでに何度もお持ちのことだろうと思います。

 

このように普段、霊的知識として学んでいることが背後霊の導きやインスピレーションにより、実体験をとおして“悟り”や“叡智”となって初めて霊的知識が身につくのです。単に知識として知っているだけでは絶対にダメで、実際に適用しなければそれは単なるフィクションの世界にとどまってしまうことになるのです。持っているだけではダメで、実際に使わないと生きてこないのです。霊的知識を日常生活に適用し実践すること、すなわち実際に食べてみて咀嚼し、始めて血となり肉となって、永遠の実在である“叡智”や“悟り”となり身につくのです。このように物質界はさまざまな経験や失敗を通して霊的知識を学ぶ場所ともいいかえることが出来ます。だからこそ人生には無数の困難があり、実体験を通して霊的叡智を身につけるチャンスが無数にあるのです。そして霊的叡智や悟りによって霊的成長をするためには、守護霊や指導霊からの繊細な波長をインスピレーションとして感じとる霊交能力がその“カギ”となるのです。

 

“ご自分の経験から得られる叡智を道しるべとする――これが一ばんです。人間を導く上で私たちはそれを一ばんの拠りどころとしています。だからこそ説得力があるのです。” (七) P56

 

平凡な日常生活の中で培われた霊的資質(霊的叡智・悟り)こそあなたの永遠の財産となるのです。” (十二)P33

 

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(平成28年9月)

困難・試練に際して(平成28年8月14日)(苦しみ・試練)

(七)はシルバーバーチの霊訓の七巻です

“人生には無数の困難があります。だからこそ完全に向けてのチャンスが無数にあることになるのです。” (七)P75

 

右に行けばよいのか、左に行けばよいのか判断にとても迷うことが多々あります。
世のため人のためによかれと思って行動する場合ですら、同じような困難に遭遇します。そのような場合、私たちは守護霊に道の選択を誤らないように、霊界からの“導き”を心底から祈ります。祈った後、良心の咎めもなく純粋に人のためと思って行動していても、残念ながらその行動が誤解を受け非難を浴びたり、蔑まれたりすることがあります。場合によれば、問題をかえって複雑にしたり、仇になることもあります。その場合、とても反省し行動を起こしたことを後悔するものです。何もしなかった方が信用や面目を失わなかったかもしれず、とても残念に思い後悔いたします。
人のために良かれと思ってしたことが思うようにいかないと、守護霊に“導き”を真剣に頼み全託して道を選んだことはすっかり忘れて、判断を間違ったのではないかとくよくよとするものです。“不動の信念”どころではありません。
うまくいったら守護霊に感謝し、失敗すれば(思惑と異なると)自分の判断の誤りや軽はずみな行動をとても悔やみます。しかしながらよくよく考えてみると、これは守護霊に対してとても失礼なことなのです。守護霊の“導き”を本当は信じていなかったことの裏返しなのです。
この現象世界で我々が物質的な視点で物事を観察していることと、霊界から永遠の視点で物事を観察しているのとでは、同じ現象でも全く真逆の捉え方をしているそうです。
残念ながら当事者である本人にはそれが見えませんし、想像すら出来ません。過去になって振り返ってみて初めて“導き”や“結果”が我々に観えるようになります。時間軸の長さが違うからです。

 

“求めつづけるのです。きっと与えられます。要求が拒絶されることはけっしてありません。ただし、解答はかならずしもあなたが期待したとおりのものであるとはかぎりません。あなたの成長にとって最善のものが与えられます。” (七)P34

 

“いかなる問題においても、私たちは決して地上的観点から物ごとを見ないということ、地上的尺度で判断しないということ、人間的な憎しみや激情には絶対に巻き込まれないということ、往々にして人間の判断力を曇らせている近視眼的無分別に振り回されることはないということを忘れないでください。さらに大切なこととして、いま定住している霊的世界における神の摂理の働きを体験してきた私たちは、地上の人間を悩ませる問題を人間自身の受け止め方とは違った受け止め方をしていること、あなた方と同じ視野で捉えていないということを知ってください。以上の大切な前置きを大前提として申し上げますが、そうした問題において何よりもまず第一に考慮すべきことは“動機”です。” (七)P59

 

ですから我々スピリチュアリストは、皆と同じ目線で同じように物ごとの結果を眺めていてはダメなのです。たとえ思惑とは異なった一見悪い方向に進んでいようとも、それが“導き”なのです。だからこそたとえ非難を受けようとも、“動機”が大切であり原因としての利他行為は必ず良き結果になるとの、とても強い信仰や信念が必要となります。

 

絶対的な忠誠心と堅忍不抜の献身的精神をもって臨めば、必ずや勝利を手にすることが出来ることを私たちがお約束します。” (七)P53

 

思惑とは違った逆風が吹いてきた時に、そのように考えることは非常に困難であり、容易ではないとシルバーバーチ自身も認めています。が、真のスピリチュアリストはそのことを実体験を通して真剣に“悟る”必要があるのです。とても辛いことですが・・・。

 

大変大切なことですので繰り返しますが、たとえ人との問題や誤解を受けようとも、それも霊界は十分承知の上での“導き”なのです。目的は唯一つ、私たちの霊的成長のためなのです。物的視野で見ず、霊界に行ったつもりで霊界からの視点で観察することです。刹那的な視点(水平軸)からか、永遠の視点(垂直軸)からかの違いです。その真の目的に自分自身も含めて周りの者誰一人気づいていないだけなのです。
逆境の中にあっても決して一人ではなく、霊界から常に見つめられ、見守られ導かれているのです。
“どこにいても、まわりには物的束縛から解放された先輩霊の一大軍勢が待機し、地上へ働きかけるための手段を求めて常時見張りを続けており・・・” (七)P46

 

ついては、お互い次のことを忘れないようにしたいものです。

 

困難や試練に際して、“動機”が良心に恥じない利他の行為であり、全託の“導き”を守護霊に祈ったあとは、結果として非難され逆風が吹いても、物的視野でその現象を捉えず、あくまでも守護霊の“導き”を固く信じ、必ず試練は克服できるという高級霊の約束を信じ、克服するまで“不動の信念”を持ち続けること。

 

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(平成28年8月)

道具意識(平成28年7月28日)(その他)

一般的に人間のことを“道具”というのは、まるで人間性を否定しているようで、違和感を覚えるのは至極当然だと思います。一体、“道具”という日本語訳に対して、シルバーバーチはどのような言葉を使っていたのでしょうか?
何冊かの霊訓の本を調べてみますと、この本文の最後に引用していますように、“INSTRUMENTS”(インスツルメント)という言葉が基本的には用いられていました。この“INSTRUMENTS”は“TOOL”よりも精密な学術的研究に使う道具や器具のことを示す他に、楽器や人の手先、媒介者という意味もあります。ただ中には“ARMS”(腕)という表現や、さらには原典にはなくても近藤氏ご本人のご判断で“道具”という言葉を用いて翻訳されている箇所もありました。

 

私の趣味は同じ骨董でも高価な美術品の収集ではなく、江戸時代から明治初期につくられた古民芸品を中心とした骨董の収集です。そして簡単な修理や復元が得意でもありますので、古くなったものを蘇らすのに一種の喜びさえ覚えております。
皮の張替、ペンキのはがれや、釘打ち、陶磁器の割れなど千差万別の修理が伴いますが、その時にとても重宝するのは、やはり何といってもそれぞれの修理用途に最も適した道具や材料です。本当にいろいろな用途向けに道具や材料が開発されております。各種塗装剤や接着剤も一種の補修道具です。もしも道具や修復材料が悪ければ修理には時間がかかり、また大概失敗するか、きれいな仕上がりにはなりません。

 

私は本来が歯科医でもありますので、細かな作業や修復が得意なのは職業柄あたりまえですが、その時にも治療の成否を左右するものはインスツルメントなどの器具や歯科材料です。それぞれの用途に合わせて専用に開発されております。このことは道具を普段使う習慣の無い方にはピンとこない話だと思いますが、各用途に適した道具の有無が、いかに修復の成否を左右する条件であるかを普段身にしみて感じております。

 

人間には個性があって多様性で、霊言霊媒に向いていたりスピリチュアルヒーラーに向いていたりとそれぞれ得手不得手があります。それぞれの用途で最大限の力が発揮できるような専用の道具(インスツルメント)という表現は、文字ずらではなく実質という意味では、正に言い得て余りあると感じております。ドライバー一本で全てをカバーすることは絶対にできないのですから。多分、オーケストラのようにそれぞれの特性を生かしお互いが協力しあって、全体として創造・進化発展に寄与するように人類もなっているのでしょう。

 

霊媒現象は基本的には自我を滅却し、できるだけ純粋に霊力の通路に徹することが必要となります。すなわち、万能で千変万化に変化する霊力の流れる“導管”となるのです。道具というものは使う人がいて始めて生きてきます。当然ですが、道具自体が意思をもって勝手に動き出すのではありません。その“道具”あるいは楽器を使う人が別にいるということです。我々が協力者となって自主的にわが身を提供し導管となることによって、物質界では霊界人が我々をとおして用途に応じた霊力をはじめて流すことができるのです。まさにスピリチュアルヒーリングと原理はまったく同じです。善霊による憑依現象の裏返しであって、本人の同意があるかどうかの違いだけです。

 

“われわれは、われわれの一人ひとりを使用せんとするより大きくより高い存在の道具であることを忘れないようにしましょう。言わば“導管”のようなものであり、それを通して慰安の芳香が送り込まれ、地上の悲しみを癒します。無限の目的をもった霊力が存在し、それには人間が直面するいかなる問題をも解決する力が秘められていることを忘れないようにいたしましょう。” 

シルバーバーチの霊訓(十二)P173

 

“道具”という表現は各種用途に最も適した霊力の流れるこの“導管”のことを指しているのです。シルバーバーチ自身も自分のことを大霊の道具、代弁者(マウスピース)といっています。
多くの人は気づいておりませんが、生命エネルギーが神より与えられているからこそ我々は生かされ活動ができているので、さらにはインスピレーションを受けて霊的真理の普及活動や利他への奉仕も行えるのです。厳密にいうと、それらは自らの力によるひらめきや能力・才能、活動ではないのです。

 

“魂を鼓舞する力は霊界から送られているのです。すべてのインスピレーションの始源はこちらにあるのです。”

 シルバーバーチの霊訓(十二)P48

 

この“道具”と言われて強く反発や抵抗を覚えるうちは、いまだ自らの力で何ごとも成すのだと考えているからであり、これでは霊力の通路として霊界の“良き道具”にはなれないでしょう。無意識に自我が前面に出て来て邪魔をし、自分の成果だと勘違いするからです。スピリチュアルなものに対価を求めたり、奢り、傲慢な霊能者が多いのはそのためです。無償で通過したものは無償で分け与えるべきです。“良き道具”として働く者には、生活の糧は他からいくらでも得ることができるように支援されます。

 

“忘れないでいただきたいのは、皆さん方のような地上での道具(arms)がなくては、わたしたちも何も為し得ないということです。皆さんはわたしたちに闘いのための武具を提供してくださっているようなものです。皆さんの力をお借りする以外に地上には頼りにすべき手だてがないのです。喜んでわたしたちに身をゆだねてくださる人以外に、道具(instruments)とすべきものがないのです。その道具が多すぎて困るということは決してありません。こちらの世界では、使用に耐えられる人物の出現を今か今かと待ちうけている霊がいくらでもいるのです。わたしたちの方から皆さんを待ち望んでいるのです。皆さんがわたしたちを待ち望んでいるのではありません。
地上への降下を待ち望んでいる霊力には、その表現形式が無限にあります。種類も様式もおびただしい数があり、さらには、用意された通路に合わせて形態を変えます。
もっともっと多くの人材――これがわたしたちの大きな叫びです。いつでも自我を滅却する用意のできた、勇気と誠意と率直さにあふれた男女――霊力がふんだんに地上世界へ降下して人生を大霊の意図された通りに豊かさと美しさと光輝にあふれたものにするためならいかなる犠牲をも厭わない人材がほしいのです。 
わたしたちの仕事は、人生意気に感ず、の気概なくしては出来ない仕事です。その仕事の尊厳に誇りを覚えて全身全霊を打ち込むようでなくては成就できません。”

「シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ」 P115

 

“ひたすら人の幸せを願い、少しでも霊的資質を発揮する生活を心掛け、いつでも霊力の通路として使用してもらえる態勢を整えておけば、それでよいのです。”

シルバーバーチの霊訓(十二) P183

 

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平成28年7月)

神は悪や憎しみの中にも存在する(平成28年6月27日)(その他)

シルバーバーチの霊訓(五巻)第九章 “神は愛の中にも憎しみの中にも”より

 

―神は悪や憎しみの中にも宿る― という、一見すると理解に苦しむようなことについて、霊訓を引用して考えてみたいと思います。

 

―根源的素材である霊が自我を持つには、物質の世界で肉体に宿る必要があるー
●「霊が意識をもつ個的存在となるためには物質の世界との接触が必要なのでしょうか。」

 

“そうです。意識を獲得するためには物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。物から霊へと進化していくのです。つまり物的身体との結合によって、物的個性を通して自我を表現することが可能となります。霊は物に宿ることによって自我を意識 するのです。” P145

 

●“種子が暗い土中に植え込まれるのは、生命活動を開始するための養分を摂取するためです。人間の魂も同じです。死後に始まる本当の生命活動にそなえて物的体験という魂の養分を摂取するために、この地上という物的世界へ送られるのです。” (十二巻) P150

 

●“霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根元的素材です。生命の息吹きです。それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。” P147

 

―悪がなければ善もないー
●“神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではラチがあきません。では、その悪魔はだれがこしらえたのかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます。” 

 

「悪魔はキリスト教が生み出したのでしょうか?」

 

“そうです。自分たちからみて悪と思えるものを何とか片付けるためにはそういうものを発明しなければならなかったのです。
悪も進化の過程の一翼を担っております。改善と成長―絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。人間にとって悪と思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。痛みがなければ健康に注意させる警告がないことになります。暗闇がなければ光もありません。悪がなければ善もありません。地上にもし悪が存在しなければ、何を基準に善を判断するのでしょうか。改めるべき間違い、闘うべき不正が存在しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう。” P154

 

●「愛の神が人間の最低の感情である憎しみの中にも存在するということが理解できないのですが・・・」

 

それは今だに神というものを人間的存在と考える概念から抜け切っていないからです。神とは法則なのです。法則がすべてのものを維持し保持し顕現させているのです。神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。” P150

 

―人間には自由意志があり、向上することも堕落することも選ぶことができるー
●“私は悪とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです。/悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。” P152

 

―霊的成長は善と悪の対比の中で行われるー
●“人生は一本調子ではありません。光と陰、晴天と嵐、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、美と醜、善と悪の双方が揃わなくてはなりません。人生はそうした比較対照を通じてのみ理解できるものだからです。奮闘を通じて、逆境の克服を通じてはじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能性が発揮されるのです。そういう摂理になっているのです。(中略)人間的存在としての神は人間がこしらえた概念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。” P155

 

―まとめ―

●肉体は滅んでも個性をもった霊魂は不滅で死なない。人間は神の分霊であり、神との絆は絶対に切れない関係にある。いかなることがあろうとも、実在である霊魂の消滅はありえないのだ。

 

●因果律は宇宙の法則であり、そこには神の絶対的な公平が働いており、償いや更正のチャンスがある。

 

●未熟な本能心(利己心)から神性の霊性心(利他心)へと、人間は神を目指して進化向上・霊的成長をするようになっている。

 

●対極にある“善と悪”は、不完全な霊魂が完全である神を目指して成長するための手段・道具としての働きをしている。

 

●内なる世界、人間の心の中に“善と悪”(霊性心と本能心)が存在する。そして外の世界にみられる“善と悪”はその内なる世界の反映なのだ。

この内なる世界が“善と悪”に“支配された状態”とは、用具である肉体に本体である霊が支配されている状態、すなわち物質中心の拝金主義、利己主義の「肉主霊従」の生活を送ることにある。
他方、神のごとく“善と悪”を“僕”にするとは、主人である霊(真我)が肉体を僕にして霊中心の利他主義、すなわち「霊主肉従」で生きている状態のことをいう。

 

“(第二次世界大戦は)言いかえれば人間の霊性のすばらしさを見せると同時に、堕落したときの極悪非道ぶりも見せつけたのです。しかし、いずれも同じ人間のしたことです。霊と肉の両極から成り立っている存在だからです。そのどちらがより強く人間を操るかによって生じる差にすぎません。霊の道を選ぶか、それとも肉の道を選ぶかの差です。”

シルバーバーチの霊訓(七) P43

 

“霊優位性の自覚にもとづく修養的生活、これが最高の生き方です。”

シルバーバーチの霊訓 「地上人類への最高の福音」 P243

 


 

(平成28年6月)

苦難の目的と対処法 その2(平成28年5月29日)(その他)

困難に伴う取り越し苦労や心配、不安は常につきまとっています。それはある意味、霊的摂理に対する信仰(信念)の深さと比例しているともいえます。程度の差はあっても常に大なり小なり例外なく普通にあります。だからこそ霊訓で何度もその話が出て来るのです。ですから常に心配、不安があるから私はダメなのだと決して卑下することはないのです。それが当たり前、普通だからです。逆にいうと、特殊な悟り切った人以外、困難に伴う取り越し苦労や心配、不安がまったく無いという方は、今以上に成長ができないということを意味しております。筋肉だって鍛えないと弱くなるのと同じことです。

 

“地上生活の悩みごとから逃れることはできません。必ず生じるものです。それなしには目的地にたどり着けない、踏み石のようなものです。人生の嵐を一つ一つ切り抜けていくうちに霊性が強化され、性格が高尚さを増してまいります。困難こそ霊的な力と成長を身につけさせてくれるのです。ですから、困難にしりごみしてはなりません。内部から引き出す力と、外部から引き寄せる力とによって克服していくべき挑戦課題として、堂々と受け入れていくことです。” (十二)P71

 

いつもそうですが、“寸感”に書いたことは、真っ先に自分自身に突き付けられます。それを学ぶための試練がその後に続いて必ずやってくるからです。学習と実習のようなものです。“情けは人のためならず”とは、このことをいうのでしょう。
今回の“取り越し苦労”に関する私の一連の“寸感”の内容も、真っ先に自分自身に突き付けられた課題なのです。まずは自らそれを学べと正に守護霊から突きつけられた“信仰”を学ぶ宿題なのです。励ましの言葉もそうです。

 

より高みに引き上げるために、霊的成長に合わせた形でこれからもおそらく常に試練はやって来るでしょう。が、誰にでも容易にクリアできるような試練や困難では意味がないのです。困難の経験は霊的成長に必要であるからこそ、生涯続くのだろうと思います。この霊的成長こそ、類魂を代表して物質界に出生してきた今生の目的だからです。

 

ただそんな中でも、霊的摂理に沿って少しでも“安心立命の境地”に近づけるように目指すべきであり、また神からの遺産として、“霊の力”を少しでも自由に扱われるように霊的に成長すべきだろうと思います。そうなって初めて良き霊界の使者として優れた働きができるのではないかと思っております。
そのためには、困難に伴う取り越し苦労や心配、不安、それに対応して霊的摂理への信仰という、繰り返し数多くの克服体験が時間をかけて求められることになります。その結果として、奇跡的な過去の困難克服の道のりが、霊界からの導きの動かぬ事実・証拠、知識となって信念化してきます。これこそが“事実を根拠とした信仰、つまり、かくかくしかじかの事実がある以上はそう信じてもよいはずだという論拠をもった信仰”(十一)P136 につながるのでしょう。

 

それでは次に、先月の寸感から“苦難の目的と対処法”を私なりに整理してみたいと思います。
(カッコ内の番号はシルバーバーチの霊訓の巻番号です)

 

宇宙には神の莫大な宝の貯蔵庫がある。(七)P16

 

⇒ その宝物とは“霊の力”のことである。(七)P40

 

⇒ あらゆる力を引き寄せるこの“霊の力”で解決できないものはない。(七)P30

 

⇒ しかしながら、不必要な不安、心配、取り越し苦労、恐怖心などがこの“霊の力”の流入を妨げている。(十一)P47

 

霊は精妙な波動であるため、物質界の粗い波動である取り越し苦労や心配は霊的雰囲気を乱し、霊力の流入や背後霊の導き・援助を阻害して受け付けなくしている。

 

では、どうすれば取り越し苦労が止められて“安心立命の境地”になり、“霊力”を呼び込むことができるのでしょうか? 霊力の流入を促進し、“霊界から働きかけやすい条件”を以下に列記します。

  1. 宇宙の摂理に絶対的自信を置く  (十一)P33

  2.  

  3. “苦難克服の摂理”を信じる  (七)P30

  4.  

  5. 守護霊を信じ導きを意識する   (十一)P33

 

―マトメ―
霊的成長にとって苦難・困難の経験は必須です。
しかしながら不必要な心配や取り越し苦労は無用であり、その正しい対処法として苦難克服の摂理を信じ、安心立命の境地になって霊力が流入しやすくする必要があります。
それには自分にできる精一杯の努力をし、その後は守護霊を信じて導きに絶対的信頼を置くようにすれば霊界からの援助や導きを得て、すべての困難は克服でき、且つ、霊的に成長することもできるようになります。

 

いま周りで起こっている私たちを悩ますいろいろな個人的出来事も、五感を通して観ている水平的な関わりの視点、すなわち地上的な視野(肉主霊従)で観るのではなく、立ち位置を変え全てのことは私たちの霊的成長のための出来事として、霊界・地上界という垂直的な視点、すなわち霊的な視野(霊主肉従)、“真の自我”から観て自分に係る全ての現象の真の意味・目的を捉えることが必要となってきます。

 

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(平成28年5月)

苦難の目的と対処法(平成28年5月11日)(その他)

霊的成長のために、物的世界で我々は霊的摂理の実践と信仰の訓練を繰り返し、繰り返しさせられていることになる。(ページ数のみはシルバーバーチの霊訓十一巻より引用)

 

霊的無知からくる不安霊的知識霊の力霊的知識への信仰勇気と実践霊的成長 ⇒ これの繰り返し

 

霊的無知からくる不安
“確固たる霊的知識に裏うちされた完ぺきな信頼と自信と信仰とがある時はその通路が開いており、受容性が高いのですが、そこへ不安の念が入り込むと、とたんに雰囲気が乱れて、通路を塞いでしまう要素が生まれます。取り越し苦労は無知の産物です。霊的知識をたずさえた者が不安の念を抱くようなことがあってはなりません。同じく、悩みの念も、その中身が何であれ、成就されるはずのものを成就されなくしてしまいます。私はいつも交霊会の開会に際してこう述べています――心配、悩み、疑い、不安の念のすべてを、しばし、わきへ置きましょうと。霊力が存分に、そして自由に流入するのを、そうした念が妨げるからです。私たちを信頼してください。きっと道をお教えします。扉を開いてさしあげます。閉め切られた扉をノックしてみて開かない時は、あきらめることです。ノックしてみてすぐに開いた時は、真っすぐに突き進まれるがよろしい。それがあなたにとって正しい道なのです。私たちとしてはそういう形でしか援助できないのです。良い知恵をしぼって導いてあげるということでしか援助できないのです。” P47

 

 

霊的知識 ・・・“苦難克服の摂理”

 

“あなたの人生思想の根幹となるべき霊的知識にまず絶対的自信を置くことです。そしてその知識だけでは処理できない事態が生じた時は、それに信仰を加えるのです。手にされた知識を根拠とした信仰です。(中略) 背後霊の存在を信じることです。機が熟した時に必要な援助があります。条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果を生じさせる力があります。” P33

 

霊は安心立命の境地において本来の力を発揮するものです。私たちが闘わねばならない本当の敵は無用の心配です。それがあまりに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、本当は実在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎます。
そこで私は、取り越し苦労はおやめなさいと、繰り返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物というものは決して与えられません。しかも、溢れんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれるあらゆる力を引き寄せることになるのです。” 霊訓(七)P30

 

いかに暗い体験も克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えられないほどの試練や危機に直面させられることはありません。” 霊訓(六)P202

 

 

 

霊の力

 

“慌てず我慢するのです。霊の力は物質に勝ることを忘れないことです。霊界から働きかけやすい条件さえ提供してくれれば、いかなる障害も、いかなる困難も、いかなるハンディも、霊の力で克服できないものはありません。” P138

 

 

霊的知識への信仰

 

“人生には二つの大切な要素があります。一つは知識であり、もう一つは信仰(信念)です。知識の裏付けのない信仰は折れた葦のようなもので、いざという時に頼りになりません。が、知識に信仰を上のせする――これが最高の組み合わせです。あなたは人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識はすでにお持ちです。が、それとて、これから先あなたが入手していくべき知識に比べれば、ほんのひとかけらにすぎません。そこでその不足を補うための信仰というものが必要となります。しかしそれも、あくまで事実に即した知識を根拠にした信仰です。軽々しい信仰、理不尽な信仰、知性を侮辱するような信仰ではなく、事実を根拠とした信仰、つまり、かくかくしかじかの事実がある以上はそう信じてもよいはずだという論拠をもった信仰です。それはあなたにとって大切なものです。” P136

 

 

 

勇気と実践

 

“私たちの教えはいたって単純ですが、それを実行に移すには勇気がいります。” P189

 

 

 

霊的成長

 

“あなたの地上生活は霊の幼稚園のようなものと思えばよろしい。真の自我である霊が私たちの世界つまり霊界での生活に備えるために、この地上で学習をするのです。しかし現実には、あまりに多くの人間が何の備えもなくやってまいります。そのため、こちらで改めて教育しなければなりません。地上でも、学校へ行かなかった大人に基本から教え直すのは難しいものですが、こちらへ来た人間に基本的な霊的教育をするのは、それよりはるかに困難となります。
P127

 

―苦難の克服についての留意点―

  1. 霊的摂理である“苦難克服の摂理”を霊的知識として知り、その摂理を信じるという信仰を何度も何度も信念化するまで地上生活で試されることになる。

  2. 必ずしも期待したとおりの結果にならなくても、自分の霊的成長につながる最善の道であったとあとで振り返ってみると判る。

  3. 困難が解消する時期については、我々が望む時期と霊界から観ての最善の時期とは異なることがある。

力強く前進なさい。最善を尽くすことです。それ以上のものは人間に求められていません。しくじった時は立ち直ればよろしい。しくじるということが立ち直れることを意味します。皆さんは不完全な世の中の不完全な存在である以上、かならず失敗を犯します。完全へ向けての巡礼の旅は永遠に続くのです。” P102

 

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(平成28年4月)

宇宙の法則への絶対的信頼があれば苦しみを感じなくなる(平成28年4月6日)(その他)

●“あなたは永遠の霊的規範を物的尺度で測り、魂の視点からでなく肉体の視点、言いかえればいま物質を通して顕現している精神だけの視点から眺めておられます。”

 

「それを災難と受け取るのも進化のある一定段階までのことだとおっしゃるのでしょうか」

 

“そうです。それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば苦しい思いをしなくなります。苦は進化と相関関係にあります。(中略) あなたの体験の“質”を決定づけるのはあなたの進化の“程度”です。ある段階以上に進化すると憎しみを抱かなくなります。愛のみを抱くようになります。苦を感じず幸せばかりを感じるようになります。難しいことですが、しかし真実です。苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります。”  シルバーバーチの霊訓(六)P193

 

●“さて、苦しみとは一体なんでしょうか。苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神または魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公平が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。なぜなら各人が置かれている環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません。”   シルバーバーチの霊訓(六)P195

 

●“要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。また、すべきではありません。”  シルバーバーチの霊訓(六)P195

 

●“苦と楽、悲しみと喜び、平静さと怒り、嵐と晴天、こうしたものがみな魂の成長の糧となるのです。そうしたものを体験し教訓を学んではじめて成長するのです。その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され、その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです。 (中略) つまり宇宙の摂理に不動の、そして全幅の信頼を置くことができるようになれば、人生で挫折することはありません。なぜならその信念が内部の霊力を湧き出させ、何ごとも成就させずにはおかないからです。
その霊力を枯渇させる最たるものは、心配の念です。全幅の信頼心――盲目的な信仰心ではなく知識を土台とした完全なる信念は、人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます。神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり、そこに憩うことを忘れないかぎり、自分を焼くつくす火も吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです。“

 

「すばらしいことです。」

 

“本当にそうなのです。本当にそうなのです。物質に包まれた人間にはその理解はとても困難です。魂そのものは知っていても、その物質による束縛がどうしても押し破れないのです。しかし、それを押し破っていくところに進化があるのです。人生問題を霊の目で眺めれば、その一つ一つに落ち着くべき場がちゃんと用意されているのです。地上的な目で眺めるから混乱と困難と誤解が生じるのです。そこで私たちの出番が必要となります。すなわち霊的真理の光をお見せするのです。” シルバーバーチの霊訓(六)P196

 

霊的摂理(宇宙の法則)の理解があれば苦しい思いをしなくなるプロセスを上記の霊訓からまとめると、以下のようになります。

 

⇒ 苦難や試練にあうと、地上的な目(肉体の視点)や世間の常識で判断するため、迷いからくる取越苦労、不安や心配などとても苦しい思いをする

 

⇒ 霊的摂理(宇宙の法則)への理解が進み、背負えない重荷は絶対に背負わされないことや、背後霊の護り・導きなどの霊的知識に基づいた摂理の神への絶対的信頼度に応じて、取越苦労、心配や不安などの雑念妄想念に心が徐々に支配されなくなってくる。そしてたとえ嵐の中でも愛の神(不動の摂理)に全托した静寂・平穏な精神状態に少しずつなってくる

 

⇒ そうなると、苦難や試練を霊的視野(魂の視点)で冷静に眺め、インスピレーションを受けてその本当の意味が理解できるようになり、そこから悟りや叡智を得て霊的に成長できるようになる

 

⇒ 長い時間をかけてこれを繰り返し、ある一定以上に霊性が進化すると、苦しみの体験は霊的成長への必須条件ではあるが、霊的摂理に調和してさえしていれば、摂理への信頼と霊的知識から苦難を苦難と感じなくなり、なお且つ、そこからより高度の真理を悟り霊的成長もできるようになる。これを真理に近づく直接的な道というのでしょう。

 

●“神の真理に近づく道にも直接的に近づく道と迂回する道があります。が、それはその道を歩む本人の発達程度によって決まることです。” シルバーバーチの霊訓(六)P192

 

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(平成28年3月)

車窓の景色(平成28年2月19日)(その他)

“物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばらないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているのかといったことを忘れずにいることは困難なことです。 (中略) あなた方は霊的な目的のためにこの世に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫のようなものにすぎません。”

シルバーバーチの霊訓(六)P175

 

早朝、ベッドの中で目覚めと同時に会社のことや昨日の業界活動のことなどが頭の中をぐるぐると駆け廻りました。同時にそのような社会的ラベルの自分、ビジネス世界の中で俗世の欲にまみれた自分とは別の“もう一人の自分”がそれを見ていました。どのように表現すれば良いのか判りませんが、目覚め直後の多分夢うつつ状態の中、昨日の出来事の中の自分を“もう一人の自分”が客観的に夢の中で見ているような感じでした。これまでと根本的に違うのは、今までのような単なる自己反省とか思い出しているとかというものではなく、“もう一人の自分”が第三者の立場で高い位置から昨日の出来ごとの中の自分を観察しているという点です。せかせかと動いている今の自分と、“もう一人の別の自分”とが明確に分かれていたのが印象的でした。

 

地上の生活で発生する出来事は人によって本当に千差万別です。程度も色々でしょう。国家の支配者から問答無用で殺される人、細かく切り刻まれてトイレに流される人、テロの爆弾で木っ端みじんに吹き飛ばされる人、子の前で強姦された上に殺される人、黒人なのに色素が抜け落ちているという理由で5歳の幼子が手足を切り取られて願い事の生贄にされたなど、本当にニュースを見ているととても気分が悪くなってきます。しかしながら、人生の真の目的は最悪を体験して光を見出すことにあるのですから、大方の人はここまではひどくは無くてもそれなりに色々と人生体験をさせられていると思います。

 

困難・苦難の渦中にある時には、知識として読んだ霊訓などフィクションの世界であったかのようにすっかり忘れてしまって、取り乱しているものです。霊訓を読んでいる時はいくらそうだ、そうだと思っていても一旦本を閉じ日常生活に戻ると、まるで小説の世界であったかのように感じとっていてスイッチが切り替わり、とても現実の話とは受け止めていないようです。

 

それがコツコツと地道に霊的知識を学びながら時間をかけ色々な霊的体験を積んでいくと、今までは肉の目(地上的な視点)で見ていたことが、少しずつ少しずつ霊的知識に基づいた霊の目(霊界からの視点)で出来事を捉えるようになってきます。そして霊的知識や体験が増えるのに比例して、当然のこととして手段とその目的を履き違えなくなってきて、自分の周りに発生している出来事の真の目的や意義に気づくのが段々と早くなってきます。それは、すべてのことは偶然ではなく因果律の結果ではあるが、守護霊はそれまでも利用して霊的成長へと常に自分を導いているということを知っているからです。
自らに発生するあらゆる事象は、霊的覚醒とそれに続く霊的成長のためのとても貴重な体験ということを永遠不滅の“もう一人の自分”は知っています。そのため霊的知識に基づいた霊界から見た観点でとらえていると、この幻影の世界で自ら体験する出来事はまるで次から次に移りゆく「車窓の景色」のように見えてくるものです。

 

“要は視点の違いです。私たちは永遠の霊的観点から眺め、あなた方は地上的な束の間の観点から眺めておられます。”

シルバーバーチの霊訓(六)P184

 

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(平成28年2月)

心の分類と霊的成長(平成28年2月2日)(その他)

人間は、霊、霊の心、霊体、肉体の心、肉体から構成されているといわれています。

 

その心を分類してみますと、物質心、植物心、本能心(動物心)、感覚・感情心、理性心、霊性心に別けられます。
地球の心はこの物質心かもしれません。動物の場合は本能心で、精々感覚・感情心まででしょう。人間に至って初めて理性心があります。しかし往々にしてこの理性心は、本能心や感覚・感情心に強く振り回されるとても弱い存在なのです。いわゆる頭では理解しているつもりだが、体がついていかないというものです。この理性心には信念(信仰)という強い意志のバックボーンが必要となります。
他方、霊性心とは判り易く言うと良心のことです。スピリチュアリズムでいう霊の心、神が与えた霊的監視装置のことです。

 

本能心とは自己保存の心すなわち自己中心(エゴ)の心であり、この自己保存の心は突き詰めると他人の不幸を喜ぶという利他の心(霊性心)とは対極関係にあり、その両極端の心が一人の人間の内に存在しています
人間には神の子としての自由意志が与えられており、この自由意志を発揮し成長するためにはこの両極端の心がどうしても必要になるのです。だからこそ物質界はいろいろな霊的成長レベルの人が混在する特殊な世界となり、反面教師として成長することができるのです。
物質界はさまざまな試練や苦難の体験をとおして、本能心である自己中心の心(エゴ)から、短期間に神性である利他の心をより多く顕現する人になるための舞台装置のそろったありがたい界層なのです。すなわち舞台装置としての現象世界は対極の世界であり、地上人生は相対の中で霊的成長を図るようになっているのです。

 

“よく理解していただきたいのは、地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)から成っていることです。霊界では同じ発達段階の者が同じ界層で生活しておりますが、地上ではさまざまな発達段階の者が混ざり合って生活しております。ということは、対照的なものを見たり体験したりする機会が得られるということです。かくして光があれば闇があり、温かさがあれば冷たさがあることになります。そこに地上生活の存在理由があるのです。そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。言いかえれば地上は学校です。そこでいろいろと学ぶことによって、いつかは住むことになる霊の世界での生活に必要な教訓を身につけるのです。苦悩を味わうということは、その反対である喜びを味わえるということです。”

シルバーバーチの霊訓(十)P187

 

利他愛を知るにはまずもって利己愛、エゴ丸出しの自己中心とはどういうことなのかを学ばなければなりません。自ら、または他人からの自己中心(エゴ)というものを体験しなければ、人の思いが理解できず、赦しや寛容などの思いやりや優しさという利他の有難味が判らないのです。その成長に必要なため物質界では“本当の自分”や過去生が隠され、未熟な思念も目に見えないように隠されているのです。

 

纏めとして我々スピリチュアリストにとっては、初めは本能心中心(肉主霊従のエゴ)の未熟な成長レベルであったものが、さまざまな試練や困難などの体験を通して“本当の自分”を知り、その心である霊性心をどの程度顕現し発揮(霊主肉従)することができるようになるかが、物質界に出生してきた本当の目的(霊的成長)なのです。

“光明を味わうには暗黒を体験しなくてはなりません。(中略)人生は両極性を体験しなくてはなりません。” 

シルバーバーチの霊訓(十)P89

 

“いかなることにせよ、良いことをすればそれだけ霊性が向上し、自己中心的なことをすれば、それだけ霊性を損なうのが道理です。” 

シルバーバーチの霊訓(十)P85

 

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(平成28年1月)

霊的摂理の実践と信仰(平成27年12月25日)(その他)

(  )内の数字は「シルバーバーチの霊訓」の巻番号です。

霊的摂理の実践とは、利他の心で“具体的な行動を起こすこと”と一般的には理解されています。これもその通りですが、この実践に関してベテラン スピリチュアリストといえども気づいていないとても大切なことがあります。今回はとても重要なポイントですので、饒舌で大変長くなりますがそのことを以下に述べてみます。

 

あなたは何一つご心配なさることはありません。愛に守られ、行く手にはいつも導きがあるとの知識に満腔の信頼を置いて前進なさることです。
来る日も来る日もこの世的な雑用に追いまくられていると、背後霊の働きがいかに身近なものであるかを実感することは困難でしょう。しかし事実、常にまわりに存在しているのです。あなた一人ぼっちでいることは決してありません。

 

「そのことはよく分かっております。なんとかして取越苦労を克服しようと思っております。」

 

“そうです。敵は心配の念だけです。心配と不安、これはぜひとも征服するべき敵です
日々生じる用事の一つ一つにきちんと取り組むことです。するとそれを片づけていく力を授かります。今やあなたは正しい道にしっかりと足を据えられました。何一つ心配なさることはありません。これから進むべき道において必要な導きはちゃんと授かります。私にはあなたの前途に開けゆく道が見えます。もちろん時には暗い影が過ることがあるでしょうが、あくまでも影にすぎません。
私たちは決して地上的な出来ごとに無関心でいるわけではありません。地上の仕事にたずさわっている以上は物的な問題を理解しないでいるわけにはまいりません。現にそう努力しております。しかし、あくまでも霊の問題を優先します。物質は霊の僕であり主人ではありません。霊という必須の要素が生活を規制し支配するようになれば、何ごとが生じても、きっと克服できます。
少しも難しいことは申しておりません。きわめて単純なことなのです。が、単純でありながら、大切な真理なのです。満腔の信頼、決然とした信念、冷静さ、そして自信――こうしたものは霊的知識から生まれるものであり、これさえあれば、日々の生活体験を精神的ならびに霊的成長を促す手段として活用していく条件としては十分です。地上を去ってこちらへお出でになれば、さんざん気を揉んだ事柄が実は何でもないことばかりだったことを知ります。そして本当にためになっているのは霊性を増すことになった苦しい体験であることに気づかれることでしょう” (六)P154

 

我々の日常生活では本当に色々なことが発生してきます。楽しいことばかりではないのが常です。その試練があるからこそ鍛えられ、霊的成長がなされるのだといわれています。
死別の苦しみ、嫌なこと、辛いこと、心配なこと、不安・恐怖心を感じる出来ごとなどさまざまな苦しみが波のように次から次へとやってきます。これが習い性となって、仮に特段の心配ごとがなくても、何とはなしにどこか不安、心配の念が常に心の奥底でつきまとっています。
シルバーバーチも交霊会では毎回のごとく常連の霊的知識のある参加者に向かって、霊的知識のある方は取り越し苦労や心配をしてはいけませんと口を酸っぱくして何度もいっています。
“霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません
あなたの内部には霊的兵器——非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。” (十)P23
これは裏を返せば、ベテランのスピリチャリストといえども、心配・不安が絶えず、常に取越苦労をしているということなのです。
霊的知識がある人は辛い試練に対しても取越苦労や心配をしてはいけないという一方で、他方では辛い試練がないと霊的成長は出来ないと明言しています。一見するとこの矛盾(逆説・パラドックス)はどう理解すればよいのでしょうか。

 

シルバーバーチは如何なる試練がこようとも、霊的摂理として“背負えない荷は背負わされず”、必ず克服できるので逃げないで真正面から挑みなさいといっています。未知の経験であることからくる不安、想定される相手からの反撃、病気の心配など、消極的な考えほど際限なく膨らんでくるものです。そんな中でシルバーバーチのいっている霊的摂理を信じることを選択するのか、世間常識としての今までの物的思考形態から、これが心配せずにおられるかとばかり取越苦労を続けるのか、どちらを選ぶかの判断を迫られる出来ごとが常に身の回りに発生してきます。今までの生まれ育った思考形態では、こうすればああなり、ああなればこうして、ひょっとすれば一層悪化してこうなるので、はて、どのように対応しようかとか、常に頭の中は底なし沼のように堂々巡りの妄想念で一杯というのが我々世間一般の話です。
世間常識でいうと心配せずにはおれないほどの重大ごとでも、シルバーバーチのいう、毎日毎日、その日一日だけ精一杯の努力をしたあとは背後霊に思い切って全託しその問題を手放す、という決断は言うは易しで、なかなか容易にできるものではありません。それはとても不安で勇気のいることです。
“万事がうまく行っている時に信念をもつことは容易です。が、信念が信念として価値をもつのは暗雲が太陽をさえぎった時です。が、それはあくまでも雲にすぎません。永遠にさえぎり続けるものではありません” (六)P144
“皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです” (十)P20

 

不安、心配や取越苦労厳禁の根拠として、シルバーバーチは背後霊が常にあなたを見守り導き、必要に応じて霊界から様々な援助が与えられることを既にご存じだからといっています。そして“背負えない荷は決して背負わされませんから”とまで断言しています。心配や不安があると、魂、精神、肉体の調和が乱れ、生命力である霊的エネルギーが流入してこられず、背後霊からの導きにも気づかないからです。それが進むとうつ状態になります。心と体がバラバラになるのです。
シルバーバーチの下ろした霊的摂理を信じて、これを実行する。すなわち自分自身の今までの判断基準よりも、霊訓のいっている摂理・約束の方を選ぶということがとりもなおさず、霊的摂理のりっぱな実践行為になるのです。霊訓を信じて思い切ってそちらの道を選ぶ決心をする、ということが正に霊的摂理の実践行為そのものなのです。決断は心で行う実践です。
将来が見通せない未知の問題に直面すると、知識の及ばない領域は霊的摂理を信じる(宗教でいう信仰)ということで補いなさいとシルバーバーチはいっています。
“知識の及ばないところは信仰心でもって補いなさいと申し上げているのです。” (六)P128
“知識が生みだす信仰心を土台とした絶対的な自信です。” (九)P88
霊訓で述べられている霊的摂理を信じて、清水の舞台から飛び降りるつもりで思い切って守護霊に全託すると、随分と重荷が軽くなりとても気が楽になるものです。

 

以上、縷々述べてきたことをもう一度整理しますと、宗教でいうところの神を信じる信仰とは、スピリチュアリズムでいうシルバーバーチの下ろした宇宙の法則・摂理(霊的真理)を理性で判断し、あなたの知識を越えた領域は絶対不変の法則・摂理としてその約束を信じることなのです。この霊言を信じてそのように決断すること、すなわち今までの物的思考形態(物質の目)から、魂の知識から霊的摂理を信じて心を切り替えるということは、イコール霊的摂理の実践行為そのものなのです。実践と信仰は別々のものではなく、表裏一体で実は同じものだったのです。信仰が無くては霊的摂理の実践ができないのです。
そしてこの信じる強さを高めるプロセスが霊的成長のプロセスともいえるのです。
困難に直面して、いざ霊訓のいっていることを信じ、直面している問題に霊訓を適用するといっても当然、初めはおっかなびっくりです。半信半疑といってもよいでしょう。それが一度克服し、二度克服し、三度克服し、四度目も克服し、五度目もうまくいって、六度目もうまくいくと、経験則から段々と自信に繋がって、七度目も今まで通りうまくいくという確信めいたものを持ちだします。長い時間をかけてこの体験を繰り返していくと守護霊との関係も深まり、ついには信念化して何が起ころうとも驚かなくなる“泰然自若”の精神に至るようになるのです。

 

“私はつねづね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み込むときは、その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は神からの授かりものです。(中略)一見矛盾しているかに思える言説がいろいろとありますが、この合理性もその一つであり、一種のパラドックス(逆説)を含んでおりますが、パラドックスは真理の象徴でもあるのです。” (六)P135

 

ここでいうパラドックス(逆説)とは、合理的な判断基準である理性心と、その真逆の信じるという理性を越えた信仰心との相反する二つの心のことです。日常生活で霊的真理を実践するにあたってはこの理性心と信仰心が必要です。
そういうことが理解できたなら、早速、今から下記の霊訓を実践しましょう。

 

“首をうなだれてはいけません。後ろを振り向いてはいけません。前を見るのです。過去のページはすでにめくられ、二度と元へは戻せないのです。生命の書は常に新しいページをめくるのです。その日その日のために生き、昨日のために生きてはいけません。明日刈り取る収穫のタネを蒔くのは今日なのです。” (十)P166

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(平成27年12月)

“霊的摂理の普及”(平成27年11月21日)その他)

日本人の特性として、無宗教の国ではあるものの古来より神道でみるごとく自然崇拝で必ずしも物質万能主義、唯物思想一辺倒ではなく、全ての宗教を受け入れる素地のある世界的にも異色な人種で、人との和を尊び寛容と柔軟性に富んでいる。ある意味、合理主義一辺倒で個人主義の西洋人とは考え方が根本的に異なっている。日本人の本来の姿は他人に優しく思いやりがあり、儒教の影響を受け道徳を重んじ礼儀正しい成熟した文化人、世界中から驚嘆と尊敬をされている国民なのだ。国家単位としてみると明らかに日本人固有の個性のようなものがある。

 

●スピリチュアリズムの普及からみた日本

霊訓の本場英国をはじめ、欧米では“シルバーバーチの霊訓”は現在では忘れ去られつつある。信じがたいことであるが、シルバーバーチの名前は正に風前のともしびなのだ。

 

毎日のようにニュースで陰惨な出来事を見聞きするにつけ、世界中で戦争やテロ、飢餓、また最近の日本では意味のわからない殺人が平気で行われており、今まさに世界は唯物思想、拝金主義のエゴまるだしの危機的状況にある。そのような中で21世紀に入ったばかりのこの時期に、何故にこのような特性、遺伝子をもった日本人として生まれ、今生で霊的覚醒をしたのだろうか。
日本には近藤千雄氏の翻訳による“シルバーバーチの霊訓”をはじめとして三大霊訓他の日本語訳全巻と、とても大きな働きをしているスピリチュアリズム普及会(旧:心の道場)の存在がある。また、霊界からの働きが盛んであった20世紀初頭(明治初期)には西欧と歩調を合わせるかのように、日本にも浅野和三郎をはじめその後継者、中村天風等などの霊覚者が次々と生まれて来ている。日本におけるスピリチャリズムの先導役をなされたのだ。それ以来現在に至るまで決してマスコミには紹介されることなく、人知れず地道に謙虚に霊的摂理の啓蒙活動やスピリチャルヒーラーとして人知れず霊界の良き道具になって働いている方々がおられた。まさに、地ならしをされてこられたのだ。
このことには実は我々がまったく気づいていない、とても大きな意味と目的があるのだ。
世の中にはたまたまの偶然はなく、全てのことはなるべくしてなっているのだ。ましておや今回のスピリチャリズム普及活動は、計画に基づいて霊界あげての強い働きかけがなされているのである。今はただ単に我々にその自覚がなく、気づいていないだけではないのだろうか。

 

●その大きな意味と目的とは
“地上に本物のスピリチャリズムと呼ばれている新しい啓示が世界中に知れわたるのに、ほぼ一世紀を要しました(19世紀半ば~20世紀半ば)。もう一世紀のち(20世紀半ば~21世紀半ば)には、その数は信じられないほど多くなっていることでしょう。皆さんはその先駆者なのです。” シルバーバーチ 不滅の真理 P224 

 

シルバーバーチによると、信じられないほどスピリチャリストの数が多くなるのに、残りあと僅か30、40年しか残されていないのである。世間にはさまざまなスピリチャル関連書籍があまたある中で、我々は霊的摂理としてシルバーバーチの下ろした霊訓は最高峰のものであると信じている。そのシルバーバーチがあと30、40年もすると、信じられないくらいの数のスピリチャリストが世界中にあふれていると断言しているのだ。シルバーバーチの名は日本以外、風前のともしびにあるというこの現実の中でだ。この意味するところは一体何なのだろうか。
その数は信じられないほど多くなることがもしも真実だとすると、日本からそれが始まるに違いないのである。わずか15年前(20世紀末)には表だった日本のスピリチャル・チャーチ、すなわち “シルバーバーチ読書会”は日本全国どこにもなかったのだ!

 

この時期に日本人として生まれ霊的覚醒をしたということは、たまたまの偶然ではなくとりもなおさず次の段階、すなわちシルバーバーチによって下ろされた霊的摂理を日常生活に実践し、信念(信仰)として霊的摂理に基づいて生きる段階に入るため、霊的摂理の松明を国内はもとより日本から世界に向けて大きく燃え上がらせる使命をもって我々は今生に出て来たということになるのだ。霊的摂理を普及する目的実現のために英国ではなく、当初から次の段階として日本がその計画実現の地として計画されていたのだ。
正に今21世紀初頭に生きている日本人スピリチュアリストは、誕生前にこの目的実現を託されて使命をもって物質界に出て来た先駆者・パイオニアなのだ。

 

霊界側から物質界への働きかけの推移

1. 霊界存在のサインは米国で始まる(19世紀中頃) 
    ⇒ サイキックの時代・・・奇跡による霊界の存在証拠 → 実演の時代:(ローカル)

 

2. 霊界の科学的証明が英国で行われる(19世紀後半~20世紀初頭)
    ⇒ サイエンスの時代 → 霊界の科学的立証の時代

 

3. 霊的摂理が地上界 英国に下ろされる(20世紀初頭~中頃)
    ⇒ 霊界通信の時代 → 新聞・本などの出版物の時代:(英語圏、翻訳国)

 

4. その霊的摂理の普及と実践は日本から始まる(20世紀中頃~21世紀中頃)
    ⇒ 霊的摂理の普及活動と実践の時代 → インターネットの時代:(世界中へ普及) 

 

“ますます発達していく科学技術のおかげで私たちが為しとげた以上の規模の人々に真理を普及する手段が活用されるようになります。” (十)P141

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(平成27年11月)

“本当の自分”霊魂はなぜ隠されているのでしょうか(平成27年10月22日)

“地上生活の究極の目的は、人間が霊的成長のある段階において、物的現象の世界のウラ側に存在する実在に気づくように、さまざまな体験を提供することです。 (中略)

霊が地上に誕生するというその事実が、潜在的にその子供にもいずれ芽生えるであろう霊的自覚が秘められており、そのための機会がこれから与えられていくということを意味しております。” 
シルバーバーチの霊訓 八巻 P117


実在の世界(霊界)や“本当の自分”(霊魂)はそもそも何故隠されているのでしょうか? 
また、何故わざわざ様々な人生体験をしてまで、物的現象の世界(物質界)のウラ側に存在する実在(霊界)に気づかせるようになっているのでしょうか。


●隠されている理由
一つの理由として、霊界、及び“本当の自分”や過去生が敢えて隠されて誕生して来るのは、霊格の高い人も低い人も等しく混在した地上ならではの世界で、振り出しに戻ってスタートを同じくし切磋琢磨するためではないでしょうか。

また、もう一つの理由として、全ての人が始めから自分が永遠不滅の霊魂であることをもしも仮に知っておれば、地獄の苦しみに直面すると、やり直すために自殺して簡単に霊界に戻ろうとするかもしれません。自殺した場合どうなるか結果まで知っておれば話は別かもしれませんが、我慢することをせず、多分地獄の苦しみには耐えられない人も多いことでしょう。
自分の死ぬ時期が始めから判っていたり、安易に自殺していてはカルマの解消や修行にはならず、一向に成長ができないでしょう。特に霊性の低い段階では、いつまでたっても向上できなくなってしまうかもしれません。
安易に自殺しないためにも、“本当の自分”は永遠不滅の霊魂であることが隠され、抑止力として本能的な死への恐怖心が必要となってくるのでしょう。


●霊的覚醒
シルバーバーチは霊訓の中で、実在(霊界)を知る機会は例外なく等しく与えられているといっています。但し、霊的覚醒には、地獄のようなどん底の体験が必要なようです。地獄のようなどん底の体験をしていると、意識している今の自分(仮我)がまったく頼りにならず、非力で無きに等しい存在に思え、そのためしがみついていた自分(仮我)をようやく手放すことができます。霊的成長のある段階に至った魂にとっては、そうなると自分とは何か、何のためにここにいるのか、人生とは何かとかを自然と考えるようになるものです。苦しいからこそ、それを克服しそこから逃れる道、救いの道、“本当のこと”を真剣に求めるようになるものです。こうして徐々に催眠術から目覚めてくるのです。
全てに恵まれ順風満風の燦々とした陽光の下では、実在の世界という星が天空に輝いていることすら気づかないものです。


●霊的成長
いろんな霊的成長レベルの魂が混在した“光と闇”の対極したこの物質界で、苦しい体験を経て“本当の自分”は霊魂(真我)であることに気づくことが、次の霊的成長にとってどうしても必要となってくるのです。
何故なら、気づくことによって始めて自分自身を取り巻く環境、出来事、諸現象の本当の意味・真の目的が理解できる準備が整うことになるからです。また、肉体という衣を着ているからこそ経験できる、善悪、幸不幸、喜びと悲しみ、愛と憎悪、利己と利他、天国と地獄、健康と病気、貧富の差等など相対の世界のさまざまな体験に霊的摂理を応用実践し、霊的真理の悟りを経て霊的に成長することが可能となってきます。
神の子として霊的成長をするために、光を知るために暗闇を、愛を知るために憎しみを、幸福を知るために不幸を、本能心と霊性心をまずはこの相対の世界で体験しなければならないのです。


●時期が来ていることが条件
霊的覚醒、“本当の自分”(霊魂)を知るためには霊的成長のある段階にきていることが必要で、やはり霊的に成長していて時期がきていることが必須条件のようです。
霊的摂理が理解でき受け入れられるようになる、ある一定の段階まで霊的成長をするまでは“本当の自分”は隠されている、というか理解できず気づきようがないのです。
時期が来ていないと霊的真理というダイヤモンドも、何の価値もないどころか道端の捨石のようにしか見えないものなのです。この物質界の唯物主義という幻影のマジックにかかってしまって、この世界が全てと錯覚してしまい死ねば全ては無になると考えている人が大多数ほとんど全てなのです。

 

“私たちは立証と論理によって得心させなければいけません。これはその人たちが霊的に受け入れる用意ができていなければ不可能なことです。
そしてその受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整いません。つまり物質の世界には解答は見出だし得ないという認識を得なければなりません。人間の窮地は神の好機であるといった主旨の諺があります。私たちはそういう方法でしか仕事ができないのです。 (中略)
霊的自我に目覚めたその魂にとっては、その時から本当の自己開発が始まるのです。そして霊的知識に照らして自分の人生を規制するようになります。自然にそうなるのです。それによって内部の神性がますます発揮され、霊的に、そして精神的に、大きさと優雅さが増してまいります。” シルバーバーチの霊訓(八)P165

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(平成27年10月)

“幽界の続き”(2015年9月21日)

“霊界の下層界では地上で起きていることのすべてが再現されております。地上での戦争や抗争がそのまま続けられております。が、霊的覚醒とともにその界層を離れて、地上で培われた偏見と敵意をきれいに棄て去ります。そうなると問題はひとりでに解決されてまいります。
霊的摂理の理解とともに、自分の為すべきことは霊的な身支度をすること、自分自身の霊性を磨くこと、自分自身の能力を開発することであることを自覚し、それは他人のために自分を役立てることによってのみ成就されるものであることを認識します。
いずれにしても問題はあくまで過渡的なものです。霊的事実を知らずにいる者にいかにしてそれを認識させるかということです。そのためにあらゆる手段を講じるのです。
一番厄介なのは、自分がすでに地上を去った人間であることが納得できない人たちです。” 
シルバーバーチの霊訓(七)P74


ここでいう霊界の下層界とは幽界、そして死んだことが納得のできない人たちのいる世界とは、幽界の中でも最下層の物質界に接する中間境のことを指しているのだろう。まさに地縛霊がさまよう境涯だ。
では、程度の差はあるだろうが、この物質界で霊的自覚を経て利他で生き、霊的成長をなしていると、中間境はいうに及ばず幽界も短期間に済まして霊界に進むことが出来るのだろうか。物質界では幽界と違って粗い波長のため、夢や意思を実現するには相当な時間がかかるが、正に幽界の目的とすることを既に我々スピリチュアリストは霊的覚醒のもと、今生で同じことを目指し実践していることになるのではなかろうか。


では、なぜわざわざこのような物質界が必要で、そこでの体験・経験が求められるのだろうか。
シルバーバーチは、今生で「霊的覚醒」を経て「霊的成長」をすることは、次の世界での生活や、そこで待ち構えている仕事に備えるためだといっている。
物質界では、霊性レベルの異なる個霊が混在する難しい対人関係の中、肉体を維持するために額に汗して働かなければならず、最後まで残る強烈な性欲などいろいろと肉体があればこその苦労をしながら生きているが、霊的覚醒さえあれば霊的知識を物質界で実体験によって学ぶ方が理解しやすく、霊的成長が速いからだろう。


進化発展は宇宙の大原則で、“完全”という方向に向けて常に宇宙全体が成長している。
当然、宇宙の構成要素であり摂理・法則の中に組み込まれている我々自身もその例外ではない。私たちが好むと好まざるとにかかわらず、神の子として“完全”を目指し永遠に霊的成長をしながら、創造活動に不可欠の存在として何がしかの貢献をしていることになるのだろう。
それ以上のことはシルバーバーチもいっているように分からないのだ。


“人生には無数の困難があります。だからこそ完全へ向けてのチャンスが無数にあるということになるのです。” 
シルバーバーチの霊訓(七)P76

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(平成27年9月)

幽界の存在意義と類魂仲間(平成27年8月29日)

今回の寸感は、東京シルバーバーチ読書会を主宰されておられる須江様のプログ(下記ブックマークを参照)を引用し、私なりの解釈をプラスして書き下ろしたものです。参考になりましたら幸いです。

 

我々は類魂を代表し、目的を持ってこの世に誕生してきたといわれております。
私がこの世で経験したことを類魂仲間全体の直接体験として共有し、類魂全体として霊的成長を図るようになっているようです。それではプラスの良い面ばかりを共有し、マイナスの負の面も共有するのでしょうか。
結論から言って、これは連帯責任を取らされるのではなく、自己責任(因果律)として個霊のみにカルマとして残るようです。マイナスの責任は自己がとり、プラスの体験は類魂全体で共有するようになっているようです。
それでは、そのことを少し回りくどくなりますが、順を追って説明していきます。


[死後の旅立ちガイドブック]

1.中間境へ・・・幽界の最下層で、物質界と接するところ
死後のプロセスとして、シルバーコードが切れると肉体を脱ぎ捨て、幽体をまとって幽界に移行します。霊的世界の中でも物質的要素の濃い低い界層を“幽界”と呼んでいます。
肉体の粗い波動から幽体の精妙な波動に移行するには、一時的な意識の中断(深い眠り)が必要となり、ちょうどパソコンのOSソフトのように書き換え作業(再起動)が行われます。
この作業は幽界が物質界と接する“中間境”というところで行われます。この中間境は一人の例外もなく、死後すぐに訪れる境涯です。この中間境で死者は霊的世界で生活するための霊的調整の準備、すなわち幽体(霊体の中でも一番物質性の影響が残っている霊体)を完成させるのです。


2.中間境の目的は・・・肉体とダブルを脱ぎ捨て、幽体を分離する処
死の深い眠りから目覚めると、この中間境でまどろみの中、地上時代の出来事をフラッシュバックのように映像の形で見させられます。そして“死の自覚”が得られたなら、半物質状の幽質結合体(ダブル)を脱ぎ捨て、幽体を完成させて幽界に入っていきます。
この中間境とは「霊界の病院」とか、「幽界の休息所」、「地上時代を反省する場所」として霊訓で述べられている処です。要は肉体と幽質結合体(ダブル)を脱ぎ捨てて、幽体の波動に切り替わる(脱皮する)ところです。


※地縛霊とは
地縛霊は、死後にも次の界があることを知らず、物質界に強い執着があり、死んでもいまだ死の自覚が持てないため幽質結合体(ダブル)を捨てられず、そのため幽体が完成しないので幽界に行くことが出来ず、中間境に留まっている“落ちこぼれ霊”のことです。


3.幽界へ・・・ガイドがあらわれ、浄化のため幽界に導かれる
次に、幽体をまとって地上時代の霊的成長に見合った界層の幽界に移行すると、反省や浄化の世界が待っています。この世界は地上時代に身に付けた傲慢さや淫乱、貪欲、物欲などのケバケバしさを浄化する幻想の世界(幽界)です。生前と死後の違いはただ単に肉体があるか否かだけであり、いわば死は人間の生活の場を地上世界から霊の世界に変えるだけで、人間そのものを変えるわけではありません。
幽界では思念したことは全て叶い、その内に退屈となり飽きてきます。そうなると本来の姿、意識が物的なものから霊的なものに徐々に移ってくるのです。このことは人によってはとても長い期間を要しますが、この幽界で霊的自覚(覚醒)を経て霊体へと移行していきます。その移行は浄化に伴いグラデーション的に精妙さを増して徐々に完成された霊体へと脱皮していくのです。


4.霊界へ・・・類魂仲間の元に帰る
この幽界で地上時代での体験を反省し、カルマとして残るものがあるものの、カルマ解消のため高級霊のお手伝いをして償い等をし、マイナス面のケバケバしさが浄化され綺麗になっていきます。幽界はこの浄化を目的として霊的調整をする世界です。このようにして霊的覚醒を経て霊界に移行する時には地上生活で得たプラスの面を手土産に持ち帰り、地上時代の貴重な体験を類魂仲間ともども直接体験として共有し、全体として霊的成長を遂げて行くことができるのです。


―マトメ―

幽界(幻影の世界)では地上生活で身に付けたマイナス面の浄化を行い、幽体から霊的覚醒を経て完成された霊体に脱皮し、類魂仲間の待つ霊界(実相の世界)に戻ります。そして類魂仲間と地上生活で得た霊的成長に繋がるプラス面の体験を直接体験として共有し、さらなる霊的成長に繋げていくのです。


≪他界後のプロセス≫
他界の準備(シルバーコードが徐々に切れていく)
⇒ 死(一時的な意識の中断・深い眠り・・・書き換えのための再起動による波長の劇的変化)
⇒ 物質界との接点である幽界の最下層“中間境”で、まどろみの中、地上人生の反省をする
⇒ 明確な“死の自覚”をもつ
⇒ 幽質結合体(ダブル)を脱ぎ捨て幽体を完成させるという霊的調整を行う


⇒ ガイドと出会い、幽界に移行する
⇒ 幽界で浄化を行いながら霊的覚醒を経て、徐々に上層に移る(グラデーション的変化)


⇒ 幽体から徐々に完成された霊体に脱皮して、霊界に移行する
⇒ 霊的家族(類魂仲間)のもとに帰還する
⇒ 地上のプラス体験を霊的家族(類魂仲間)と共有し、霊的成長に繋げる

 

地上人生の目的は、「霊的覚醒」と「霊性の開発」にあります。この「霊性の開発」とは、自我の本体である“神の分霊”を少しずつ顕現させていくことを意味します。
具体的には人のために役立つ行為(利他愛)をとおして顕現させるのですが、この鈍重な物質界では利他愛を具現化するには、実践、行動というエネルギーが必要で、それには粘り強い意志力と集中力が要求されます。
来るべく“思念の世界”で必要となる意志力と集中力が、この唯物主義に満ちた暗黒の世界“物質界”にあって苦労しながら養成されているのです。

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(平成27年8月)

(平成27年7月16日)

"地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もってわかったからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。霊的生長というのは実際に物ごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の全目的があります。” シルバーバーチの霊訓(四)P83


前回までは実在の世界は霊界で、この物質界は夢幻の世界というお話をしましたが、では何故、幻影の世界 物質界に再生してくるのでしょうか?
その答えが上記のシルバーバーチの霊訓に書かれてあります。


霊的知識を学び、地上での苦難・試練の体験によってその知識を身につけ、霊的生長を成して他界後の仕事に備えるとあります。霊的生長をするための好条件がこの物質界には全てそろっているからです。


それでは他界後に待ち受ける我々の仕事とは一体何でしょうか? 
今のこの物質界に最も必要なことは、霊的真理の普及といわれます。霊的知識の無さがすべての不幸の根源であるからです。


“人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。”
“不安のタネの尽きない世界に平和を招来するためには霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて他に手段はありえません。” シルバーバーチの霊訓(六)P82~84


そして霊的真理を先に知った者は、今度は他人にそれを伝える責任があるとシルバーバーチはくり返し述べています。


“ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は真理の使節としての自覚をもたねばなりません。”
“霊力の地上への一層の顕現の道具として、己の全生活を捧げたいという熱誠にもう一度燃えていただきたいのです。” シルバーバーチの霊訓(六)P84~85


私たち一人一人は、それぞれの各類魂を代表して使命を持ってこの物質界に再生してきております。今生で霊的覚醒を得た我々は、霊的真理の普及活動を目的としているシルバーバーチ霊団のお手伝いが出来るように、類魂を代表して今生でその実力を身につけ、類魂全体としてお手伝いできる資格が得られるようにすることが我々一人一人の今生の特命なのです。

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(平成27年7月)

霊界と物質界(平成27年6月26日)

"ではもし永遠に目覚めないと仮定したら、その夢はあなたにとっていつまでも現実であり、その夢の中の生活と比較すべき覚醒時の生活がない以上は夢の中で起きたことはことごとく現実であり、逆にそれまでの覚醒時に起きたことは全て夢まぼろしであったことになりませんか。
死後の世界ではそうした夢の中での精神的過程が何倍もの強烈さをもって働くと思っていただければ良いのです。そうした精神状態はこちらの世界の者にとっては実在であり、あなた方が物質に実感を覚えるのと同じように、霊にとっては実感があるのです。"

「何だか怖いような気がします。」


"なぜですか"


「どうも私にはその生活が現在の地上の生活のような実在感を伴った、しっくりとしたものではないように思えるのです。」


"それはまったく相対上の問題にすぎません。実際は地上生活は霊界という名の太陽によってできた影にすぎません。地上生活は殻であり実質がないのです。物質が霊によって実在が与えられている以上、物質的には真に実在と言えるものは何一つ存在しません。物質というのは霊的実在の波長によって形を与えられた表現の一つに過ぎません。

シルバーバーチの霊訓(二)P155~P156


前回の寸感では"物質界の地球舞台"というお話をしましたが、次に、霊界と物質界の関係について以下、私見を述べさせていただきます。


肉体とともに意志や意識も脳と伴に消失するという考えが一般的ですが、肉体、及び脳というコントロールルーム 兼 レシーバー(送受信機)が瓦解しても、思念や意志・意識のような心が仮に生き続けるとすれば、ちょうど毎晩みている夢の中の世界(霊体での霊界訪問)が続いていることになります。戻るべき肉体がもはや無いからです。但し、その場合は、意志の発生源としての霊魂"本当の自分"の存在が大前提となります。
シルバーバーチは肉体が滅んだあともその人の真の愛は不滅で、実在だといっています。その根拠として霊性心から来るからだと。この愛があるからこそ他界後、愛する家族やペットにも再会できるのだといっています。また、死後は肉体がないので二度と目覚めないから、相対上夢の中とはいえず、むしろそれまでの物質界での体験の方が"夢のまた夢"となってしまうともいっています。


同じ波長の者同士(類魂)が共通の夢の中で暮らすようで、波長がわずかでも異なると交流が出来なくなるようです。(但し、波動を下げることは霊魂が物質界に降りてくるように、可能なようです。)
そういう意味ではこの物質界は異なった波動を有するいろいろな霊性レベルの混成集団で、可視光といわれるごく限られた範囲の波長を感受する世界に一緒に住んでいるという、極めて特殊な世界といえます。宇宙船地球号の肉体という宇宙服を着ることによって、霊魂が波動の粗い肉体に縛られて閉じ込められ、同時に"本当の自分"や過去生の記憶を潜在意識下に隠されます。その理由は、成長した霊や未熟な霊など異なる波長(霊格のレベル)の魂同士が、共通の物質界で混在することを可能にし霊的成長をするためです。善と悪・光と闇、利己と利他、愛と憎悪などの相対の世界で自己責任のもと、個性をもって霊的成長を促進することにあります。だからこそ、今生の真の目的を知るためにはどうしても"本当の自分"に気づく必要があるのです。


ほとんど大多数の人々は今この現象界が唯一の実在で、肉体が死んだら全て終わりと信じこんでいますが、決して可視光の世界だけが存在する唯一の波長ではなく、ごく限られた一部の波長にすぎないことは明らかです。可視光の波長を離れると物質そのものが見えなくなってしまいます。霊界とはもっと精妙な波長で、可視光の物質界とは全く異なった波長の世界なのです。


個性や体験、憎愛など魂に刻まれたものは肉体から霊体に波長が切り替わっても霊界に持って行くことができますが、他は全て霊力によって形を与えられた表現の一つで、実在の影、実質のない殻であり持って行くことはできません。
個人そのものが消滅するにしろ、死後にも存続するにしろ、特に男性にいえることですが、人生のほとんどをそのことにかけてきた地位や名誉、お金をはじめとする物質はこの世限りの立場や物であり、いうまでもなくそれらは手段、道具であって死後には何の意味もなしません。そういう意味でいろいろな成長レベルの混在したこの相対の世界は、霊的成長のためというとても大切な目的をもった世界ではありますが、永遠不滅の個霊の視点からみると最大100年間の"色即是空""空即是色"の幻影舞台なのです。

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(平成27年6月)

霊こそ実在(平成27年5月28日)

“霊こそ実在であるという真理は永久に不変です。これが全ての謎を解き、全てをあるべき位置にあらしめるカギです。” シルバーバーチの霊訓(一)P188


“本当の自分”とは霊の力(生命エネルギー)が肉体をまとって個性を持つようになった霊、これを魂というが、私達はこれが判ったようで実は判っていないのだ。

漠然と、霊あるいは魂というものがあるらしいということまでは何となく知識として理解しているが、我々スピルチュアリストといえどもこの範疇の人が多い。一言で言って、肉体が霊を備えているという程度なのだ。無意識にそう思い込んでいるのだ。もっとひどいのになると、死んだら霊になると思っていたり、死んだら宇宙にある気のような無機質に戻ると思っている人までいる。

シルバーバーチは肉体が霊を宿しているのではなく、霊が肉体を宿しているのだと何度も霊訓でいっている。この認識の差は、実は非常に大きい。主客がまるで逆転しているからだ。

 

それでは“霊こそ実在であるということが、全ての謎を解くカギである”とは一体どういうことであろうか。

いま内戦状態で無法地帯の国がある。大地震で長い間路上生活を余儀なくされている国もある。個人レベルでは大病を患っていたり、社会的地位や名声、お金の有無、エゴ丸出しのドロドロした地獄のような人間関係、生まれ持った容姿の優劣など、千差万別で本当にいろんな環境、条件のもとで我々は日々生活を営んでいる。

自分とは一体何なのか、人生の目的とは一体何なのか、病気や苦労、災難は一体何のためにあるのか等など、迷いながらの人生には常に不安感がつきまとっている。突き詰めると、本当のことがわからない、先が見えない不安から来ているのだと思う。

 

霊界こそが実在の世界であり、他方、霊の力によって創られたこの物質界はある明確な意図を持って創られた一時の夢幻・幻影の世界であるとシルバーバーチはいっている。 そういう意味では霊界からやって来た我々は全て、いま物質界という地球舞台の上での役者であり、男女のそして容貌という舞台衣装を着て、役柄を演じているといえるだろう。むしろ役者になりきってしまって、本当の自分をすっかり見失っているのだ。 但し、その役柄は変えられないほど融通のきかないものではない。“神の子”だから自分の運命(役柄)は、自分の意志で変えられるのだ。

この世には恐怖政治をする為政者役の人、はたまた社長役の人もいるし、その部下役の人もいる、舞台の幕を引く人もいるし、弁当を売る人や切符切もいる。さらには病気の人もいる。霊界から観ると各自が配役を演じているだけで、物質社会の身分(配役)の上下の差は実は一時の幻影であり、それぞれの役柄を演じながら、厳格な自己責任のもと因果律をとおして霊的成長を図っているだけなのだ。霊的成長を図るために配役を交代しながら、成長の種であるカルマをもって物質界に何度も誕生してきているのだ。

 

“霊こそ実在である”と真に理解することができると、霊の実在界からこの世の身の周りの出来事の意味を観るようなり、その結果として全ての謎が解けるカギを手に入れたことになるといっているのだ。

そうなった暁には、“魂の真の満足は内的な静寂と輝きとなって表れます。すなわち真の自我を見出したことから生まれる魂の平安と自信です。魂がその状態になった時を“悟った”というのであり、“神を見出した”と言うのです” と、シルバーバーチはそのあとを続けている。

シルバーバーチの霊訓(一)P189 ページトップへ


(平成27年5月)

霊的成長は孤独の中、自分一人でするもの(平成27年4月20日)

“霊性の開発は茨の道です。苦難の道を歩みつつ、あとに自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。” シルバーバーチの霊訓(一)P111


“最高の宝、最も豊かな宝は、最も手に入れ難いものです。しかもそれは自らの努力によって自分一人で獲得していかねばならないのです。” シルバーバーチの霊訓(一)P111


“知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るということは最後はみな一人でやらねばならない―自らの力で“ゲッセマネの園”に踏み入り、そして“変容の丘”に登らねばならないのだということです。悟りの道に近道はありません。代わりの手段もありません。・・・悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。”シルバーバーチの霊訓(一)P112
(ゲッセマネの園:キリストが最大の苦難と裏切りに遭った場所 ― 苦難の象徴)
(変容の丘:キリストがこの世のものとも思えぬ輝ける姿に変容した丘 ― 苦難克服の象徴)


私も含めて、少なくとも私の霊の友は全員孤独の中、一人で霊的成長をされておられます。但し、それは物的世界でのことであって、守護霊や背後霊とのコミューン(触れ合い)としての交流はいついかなる場所でも常に可能で、そういう意味では一人ではありませんが・・・。
霊的成長は一人でするものであるとは、単に霊的覚醒をされた方が極端に少なく、周りには誰もいないというだけの単純な話ではなさそうです。
一人でなければならない理由は、自由意志の行使のもと厳然たる自己責任の因果律が働いているからで、自らの責任とはいえ、悪霊にそそのかされて霊性を下げることも有りうるからです。
また、霊性レベルが多種多様で個々人によって異なっており、それぞれに守護霊や指導霊による霊性に応じた個別の導き、教育が必要となってくるからでもありましょう。
それは、霊的真理を真に理解、体得するためには、実生活での自らの実体験がどうしても必要となるからです。“霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことになりません。実生活の場で真剣に体験して、初めてそれを理解するための魂の準備が出来上がります。” シルバーバーチの霊訓(一)P63


但し、だからといって他人のことはほっといても良いという話ではありません。叡智や悟りを先にインスピレーションで得た者は、自分一人の成長ために啓示が与えられたのではなく、同時に魂の時期の来た人にそれを伝える責任、義務があるとシルバーバーチは霊訓で何度も繰り返し述べておられます。
これは同胞の霊的自我の覚醒・成長のきっかけのお手伝いをするということであり、そのことが霊界の使者・道具としての役目を果たすことになって、結果として自動的に自らもさらなる成長ができるような利他・協調の摂理に宇宙の法則がなっているからです。


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(平成27年4月)

瞑想・精神の統一 その四(最終回)(2015年3月22日)

前回に引き続き、私の実体験から“瞑想・精神の統一”についてQ&A方式で述べてみたいと思います。


C.霊的摂理の学びと併行して、“瞑想・精神の統一”から得られた私の実体験

Q1:精神の統一によって、どのような変化がみられますか?
A:休みの日は、早朝一時間ぐらい平気で瞑想するようになってきました。
雑念妄念も相変わらずとても多いですが、少しずつですが“頭空っぽ状態”の時間が延びてきました。
一度、宇宙との一体感が感じられましたが、必ずしもこれを求める必要はないと思います。 理由は、このこと自体が執着煩悩となるからです。
瞑想が深まると、両耳の耳鳴り(圧迫感)で始まり、頭の先からピリピリ感が手足の先まで徐々に降下するのが感じられます。そしてこれが周期的に発生します。これは外部から霊的エネルギーが流入し、気となって全身を駆け巡っているのだと私なりに理解しています。具体的には、全身に軽く電気が走ったような感じとか、音楽を聞いて感動し鳥肌が立ったときと同じような現象です。
 
Q2:大霊(神)に対する思いに変化がありましたか?
A:“我とは霊魂である”の自覚が少しずつ進み、時間をかけて徐々に当たり前のことになってきました。あわせて、大霊の分霊であるがゆえに大霊と永遠につながっているとの信念化(信仰)も少しずつですが強くなってきました。


Q3:自分自身がどのように変わってきましたか?
A:自分が永遠の存在であることを自覚し、地上のいかなるものにも傷つけられることはないとの信念化(信仰)が少しずつ強くなるとともに、取り越し苦労や不安、悩みが昔と比べて格段に減ってきました。以前は大変消極心で、性格も暗くとても愚痴っぽかった私ですが、守護霊との二人三脚で、今では一人ではないということも数多くの経験をとおして徐々に理解・体得し、併行して少しずつ摂理に対する信念化(信仰)も出来てきて、物ごとに動じる割合が極端に少なくなってきました。“私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。” 霊訓(一)P63
信念化(信仰)は前進と後退のくり返しで、霊的成長はとても時間のかかるものだなあとつくづく思います。
“内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。” 霊訓(一)P71


Q4:背後霊とのコンタクトは?
A:時々ですが守護霊の声が聞こえるようになってきました。それは丁度良心の声のような聞こえ方(声なき声)で、常日頃いつの間にか自分以外の第三者と明らかに対話しているのです。
同時に、日常生活の中で背後霊の導きが気づきとして直観的に感じられるようになり、インスピレーション、叡智、啓示が必要に応じて入ってくるようになりました。
霊的視野、すなわち“本当の自分(霊魂)”の立ち位置(霊界)から、現象界のまわりの出来事(意図、意味)をとらえ理解する機会が多くなってきました。


Q5:時間の経過が早くなってきます
A:精神統一で“頭空っぽ状態”にあると、時間の経過が非常に早く感じられるようになってきます。私の場合、ざっくりいって約三分の一程度に感じられます。休みの日には“頭空っぽ”の精神統一を1時間程度することが普通になってきましたが、20分程度にしか感じられません。その間、もちろん雑念・妄想念も常時入り混じってきますが、トータルの時間がとても短く感じられるのは、きっと時間の感覚が夢の中のように違ってくるからだろうと思います。
参考として、下記リンク先の「続 いのちの波動」大空澄人氏の“時間とは”(2015.3.12インスピレーション)にも同様のことが書かれてあります。


Q6.私の“瞑想・精神の統一”のやり方は?
A:あくまでも私の場合ですが、以前の“寸感”(平成25年9月、10月)で述べた方法で精神の統一を行っています。多分、これが私にとって一番適しているのでこの方法に導かれたのだろうと思います。
日常、機会があるごとに“頭空っぽ状態”がたとえ2~3秒間でもよいので実践し、必要に応じてその時間を延ばしていけばよいのだと思います。常日頃実施していると、いつでも瞬時に“頭空っぽ状態”にできるようになってきます。
もう一つ大切なことがあります。恩師から教わった方法で以前の“寸感”でも述べましたが、私の場合、瞑想中は務めて“第三の目”に眼球をもってくるというか、あわすようなつもりになります。その方が右往左往している心が安定するからです。

 

≪私の瞑想・精神の統一のやり方≫
“頭空っぽ状態”に慣れていない初期の頃は、小川の流れる音や小鳥の声などの自然音やリラックスする音楽などから有我一念(実際の音に一心に聞き入る)になります。
(ブザーの音や御錀(おりん)の音でもよい)


⇒次に、頭の中の“シーン”という“音無き音”や、親指と人さし指とで輪をつくり、その指先の微妙な脈拍などから無我一念(音無き音に心を傾ける)になり、同時に“第三の目”に目を寄せるつもりになる。


⇒そこから“頭空っぽ状態”の無我無念(何も思わない状態)に誘導します。


・・・これがオーソドックスな私の精神統一のやり方です。


シリーズ“瞑想・精神の統一” 終り 


“宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落ち着きを身につけなければなりません。そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることができます。それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。”

 霊訓(一)P141 ページトップへ


(平成27年3月)

瞑想・精神の統一 その三(2015年2月27日)

今回は引き続き、精神の統一について、シルバーバーチの霊訓からQ&A方式で述べてみたいと思います。
B.Q&A
Q1:“魂の兵器庫の扉を開く”とは、一体どのようなことをいうのでしょうか?
A:●霊訓 一巻 P57:
“何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。”

 

(“魂の兵器庫の扉を開く”とは“瞑想・精神統一をする”ことです。
これはシルバーバーチのいう“宇宙で最強の生命力の源にプラグを差し込む”ことと同じことを指します。
また、この“神の武器”とはもちろん“霊の力”のことを指します。取り出すその武器も霊性レベルに応じたものとなります。

 

ここで注意しなければならないのは、邪心からむやみやたらと無理やりに扉を開こうとしないということです。初めは針の先程の窓、扉ですが、霊的摂理を学びながら、日常のいろいろな苦労や試練を経て霊的摂理の実践を行い、霊性が上がるにつれて、時間をかけて徐々にこの扉が大きく開くようになるのです。当然です。無理やり開くと善霊ではなく、悪霊や地縛霊も入ってくる恐れがあり、憑依されたり悪用されるからです。だからこそ、身を守るために先に霊的知識が必要で、且つ、意味が判らないようにこの“扉”はぼかされて表現されているのです。
繰り返しますが、もって生まれた才能でない限り、この顕幽交通の“扉”の開閉は、各自の実体験の中で霊性レベルに応じて、時間をかけて徐々に広げていくものです。いっきにはいきません。
また、“扉”から霊力がどの程度流れるかは、丁度、スイッチを入れても電流の引き込みには絶縁に近いニクロム線(人間)と、流れの良いゴールド線(人間)の違いがあるように、霊性レベルに応じて流れる量(悟り・叡智など)も異なってきます。)

 

Q2:なぜ、スピリチュアリストにとって、“瞑想”や“精神の統一”が必要なのでしょうか?
A:●霊訓 二巻 P125:
人間が恐れを抱くとまわりの大気を乱す波長を出し、それが援助しようとする霊を近づき難くします。霊的な力が地上において本来の働きをするためには、静かで穏やかな確信――全ての恐怖心が消え、より大きな生命力と調和した光輝が漂い、何が起きようと必ず切り抜けられることを信じ切った、そういう確信が無ければなりません。

●霊訓 一巻 P63:
恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。“

 

(対人関係や、疑い、取り越し苦労、心配、不安、恐れなど、雑念妄想念となる心を乱す要因が世間には溢れています。特に消極的な考えほど、むやみ矢鱈と想像して強くなる傾向にあります。さしあたっての心配が仮に無くても、仕事上の事や日常生活の事が、走馬灯のように雑念や妄想念としてひっきりなしに頭の中で行き交いしています。
こうなると顕在意識の自我が振り回されて、ますます幻影(現象界)に囚われて抜け出せなくなります。そのため、潜在意識下に覆い隠されている“本当の自分”(真我)が出て来れなくなるので、雑念の排除、妄想念離脱のために精神の統一が必要となるのです。丁度、フリーズしたパソコンを、一旦、メインスイッチを切ってスタートに戻すようなものです。)

Q3:精神の統一状態とは、どのような状態になることをいうのでしょうか?
A:“精神統一の気持ちとは、ひと口に言うと、何も思わない状態です。いくらか眠っているのと似ていますが、ずっと奥の、奥の方で自覚しているようなのが少々睡眠とは違います。“
要するに、意識はあるが、“頭の中は空っぽ”になっていること。すなわち、心を幼子のようなくもりのない鏡の面のようにすることです。
前回ご紹介したM・H・テスターの「私は霊力の証を見た」の著書に、背後霊の指導の受け方が繰り返し書かれてあります(P123)。どんな姿勢でもよいから、できるだけリラックスして“魂の静寂”の時をもつ、すなわち“頭の中を空っぽにすること”と書かれてあります。また、別の箇所では“霊媒を通じての直接の交信が出来なければ、前に紹介した背後霊との触れ合いが出来る。これには、”静寂の時“さえ確保できれば一人でも出来る。10分間あるいは15分間ほどやって何の変化も感じられなくてもよい。うっかり寝入ってしまってもよい。それを折にふれて実行していくのである。いつでもどこでもよい。”(P190)と書かれています。

 

Q4:瞑想・精神統一をすると、どのような変化や効果が出てくるのでしょうか?
A:●霊訓 四巻 P212:
となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。その静寂の中で、まわりに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することができます。その宝は使われるのを待ち受けているのです。

 

(精神の統一状態とは、精神が収束した状態で、純一無雑の心になることです。すなわち、小我から大我(本当の自分)へ移行することになります。この状態が心身の統一状態、すなわち霊、精神、身体が三位一体となることであり、囚われが無くなり、 無碍自在の境地、泰然自若 、動中静感となって 自己統御につながってくるのです。)

 

Q5:この無限の宝庫から摂取できる霊力とは?
A:●最後の啓示 P79:
援助は自分の内部と外部の双方から得られるのを知ってください。(霊力は内外から来る)

 

●新たなる啓示 P129:
泉のごとく霊力が湧いて出て、静寂、沈着、平穏、安らぎといったものがもたらされます。
(消極心に対する本当の積極心とは、くそ~と力んだり、せかせかと行動するような活発な活動のことを云うのではなく、不動の心、泰然自若の状態になることを指します。)

 

●霊訓 十巻  P11:
その霊力病気を癒し、悲しむ人を慰め、道を失った人を導き、無知を知識に置き換え、暗闇を光明に置き換え、生きる意欲を失った人には元気を与え、真理に渇いた人の心を潤し、真の自我を見出そうとする人には神の計画のガイドラインを提供してあげます。

 

●霊訓 十巻  P13:
霊力の機能はそれ以外にもあります。日常の生活において他のすべての策が尽きたと思えた時の支えとなり、指示を与え、導きます。

 

●霊訓 九巻  P89:
お二人は霊力という最大の武具を備えていらっしゃいます。それをある時は支えとし、ある時は安息所とし、ある時は避難所とし、ある時は至聖所とし、そしていつも変らぬインスピレーションの泉となさることです。
(生命エネルギーとしての霊力の機能は変幻自在で、さまざまな性質をとるようです。)

 

Q6:では、どのようにすれば精神統一(頭空っぽ)の状態に入りやすくなるのでしょうか?
A:Ⅰ)霊的摂理の知識が必須条件・・・では、どのような霊的知識でしょうか?
●※P196:
自分が永遠の存在であることを知り、従って地上のいかなるものにも傷つけられることはないとの信念に燃える者に、悩みの入る余地はありません。  

 

●※P48:
大霊の計らいに絶対的な確信と信念を抱き、世俗の喧噪から遁れて魂の奥に入り、平安と静寂の中に休らい、不屈の精神に燃えることです。

 

Ⅱ)私の経験から述べますと、精神の統一状態に入りにくい理由として、過去の嫌なことや将来の取り越し苦労などを背負ったまま、そのままで“頭空っぽ状態”に入ろうとしているからです。顕在意識の自我に雑念妄想念があると、潜在意識下の“本当の自分”(真我)が出て来られないのです。
ここは開き直って、過ぎ去った過去は元に戻せず、将来のことは背後霊にまかせることにして、ただ今、生きていることのみ喜び感謝すればよいのです。今あるがままの状態で“頭空っぽ状態”に入ればよいのです。必要なことは、一度に一日ずつを生きればよく、“ただ今を精いっぱい生きる”という心境になると、“頭空っぽ状態”に入りやすくなります。
今の問題も3000年後、霊界から振り返ってみると、どおってことはないのですから。

 

―マトメ―
霊的摂理に基づいて、我とは永遠不滅の霊魂である。そして今この現象界に霊的成長のため修行に来ているのだ、との自覚をもち信念化すること。
また、ただ今日一日のみを精一杯生き、天命(摂理)に従い、天命(摂理)に処し、天命(摂理)に安住するという心境になることです。

 

Q7:体力減退した場合でも、元気を回復することができるのでしょうか?
A:●シルバーバーチ 最後の啓示 P138
人間は肉体をたずさえた霊なのですから、宇宙で最強の生命力の源にプラグを差し込むことができます。心の姿勢一つです。それができれば、疲弊しきった身体に再充電することができます。

 

Q8:なぜキリスト教やヨガ、仏教でいくら瞑想しても真の目的(①~③)に至らないのでしょうか?
A:霊というだけでオカルト扱いし拒絶するなど、基本的な霊的摂理の知識ですら皆無だからです。
まずは霊的自我の覚醒、“本当の自分”が霊魂であることに気づくことが最も大切であるのに、自ら偏見という牢獄の壁を作ってそこから外の世界(霊界)に一歩も出られなくしているからです。


次回に続く

 

 

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(平成27年2月)

瞑想・精神の統一 その二(2015年1月21日)

精神統一の目的・意義の二番目の“背後霊とのコンタクト”は、我々スピリチュアリストにとって人生を変えるかもしれない程のとても大切なポイントです。今回の“寸感”はそのことについて述べてみたいと思います。

近藤千雄氏が三大霊訓に次いで読んでほしいと薦めた本の著者で、シルバーバーチの交霊会にも何度も参加し、直接教えや導きを受けた英国の有名なスピリチュアル・ヒーラー、M.H.テスター氏がいる。彼の著書の中で何度も繰り返し説明されているが、シルバーバーチのいう“宇宙の生命力の源にプラグを差し込む”方法とは、精神を統一し、“頭を空っぽ”にすることだったのだ。精神統一は、インスピレーションや霊力、背後霊からの導きを得る非常に大切な手段なのだ。
そこで少し長くなるが、その著書(「背後霊の不思議」 近藤千雄訳 潮文社)からそれに関連する箇所を引用してみよう。

●P45  ホンの数分間でいいから静かにしていられる部屋を選び、上着をとって横になる。安楽椅子に腰かけるのもよい。男性はネクタイをゆるめ、ベルトをはずす。女性であれば、身体をしめつけるような肌着をとる。次に明るさは大なり小なり刺戟性があるのでカーテンで部屋を薄暗くする。左右の手を重ね、足を交叉させ、目を閉じ、眼球の力を抜いて動きにまかせる。この状態で深呼吸をする。ゆっくりと吸い込み、ゆっくりと吐き、吐いたあと、次に吸い込むまで少し間をおく。これを数分間くり返す。以上である。これが精神を落ち着かせる最上の方法である。というのも、こうした所作によって身体のコンピューターは休めの司令を発し、生理機能が調和を取りもどすのである。
これで、あなたはいわば落ち着いた冷着な人間のマネをしたわけである。それでよいのである。これを必要と思った時に、何回でも繰り返すことである。そのうちこれが習性となり、本当に落ち着いた人間になってくる。

 

●P77 問題はいかにしてその霊魂と交信するかである。それでは次にその方法をお教えしよう。・・・・
精神統一の方法について私はこう述べた。すなわち静かな部屋を選び、窓のカーテンを引いて薄暗くする。男性は上着を脱ぎネクタイをゆるめベルトをはずす。女性は身体をしめつけるような下着は着がえた方がよい。クツも脱いだ方がよい。すわり心地のよいイスでゆったりとくつろぐ。
さて、その状態であなたが今かかえている問題を声に出して述べる。人に話しかけるような調子でしゃべる。そして、今まで自分なりに最善をつくしてきたつもりだが、自分一人の手に余るのでよい知恵を授けていただきたい、とお願いする。
そうお願いしてから頭の中を空っぽにする。実はこれがなかなか難しい。何も考えまいとするとかえって余計な雑念が湧いてきて、それを払いのけようとするとますます絡んでくる。そんな時は何も考えまいとするよりも、いっそのことその逆をいって、ある一つの考えに集中した方がよい。たとえば白いバラの花を想像してそのイメージに全神経を集中するのである。バラの花はおそらく、あなたの人生の悩みには何の関係もないはずである。だからいいのである。悩みごとに関係のある事物はいけない。それが先入観となって背後霊からの通信を邪魔するからである。
そうやってバラの花のイメージを思いうかべながら静かにしていると、身体がくつろいでくる。ウトウトと軽い眠りにおちる人もいる。それでよい。やがてわれに戻ったら立ち上がって大きく伸びをして、身支度をキチンと整え、冷たい水を飲む。何とも言えないサッパリとした気分になる。これであなたは背後霊に心の窓を開いたことになる。言いかえると背後霊との間に心の触れ合いができたのである。この触れ合い(コミューン)が大切なのであって、語り合い(コミュニケーション)はかならずしも必要でない。コミュニケーションは特殊な霊能がないとできないが、コミューンなら誰にでもできる。またできるだけ多くその機会を持つ必要がある。いま説明したやり方がその一つであるわけである。
背後霊とのコミューンをもつと非常に気持ちがよくなり、イライラした緊張感がほぐれてくるのが普通である。それもそのはずである。今までかかえていた難問を背後霊にあずけたことになるからである。が、その回答つまり背後の援助がいつどんな形であらわれるかはまったく予想がつかない。二、三日するうちに人が変わったように考えが変わってしまうこともある。インスピレーション式に頭にパッと解決方法がひらめくこともある。何の気なしにやり始めたことが、解決につながっていることもある。あるいは事情が急に変化しておのずと解決してしまうこともある。いずれにせよ、背後霊からみてあなたにとって一ばん戒めなければならないのは、自分の欲にこだわって、こうして欲しいああして欲しいと、勝手な要求を出すことである。

 

●P86 心霊知識をよく身につけた上でないと霊的生命源にむやみにプラグを差し込むのは危険このうえない。・・・
さて、煩雑な日常生活を忘れて静かに精神を統一することは、背後霊との触れ合いの機会を与え、必要な援助をうけ、生命力を体内に流れ込ませることになる。触れ合いに成功したあとの気持ちはさわやかそのものである。一度その味をしめると、悩みというものから縁が切れる。自我へのこだわりを棄てるからである。悩みこそが体内の生理的バランスを崩す大敵であることはすでにのべた。それがきれいに消えてしまうのであるから、緊張がほぐれ、バランスが回復すると同時に、精神的に生まれ変わったような気分になるのも当然であろう。
この精神統一を少なくとも一日一回行い、同時にさきにのべた心の姿勢に気をつければ驚くほど元気になり壮快になる。これを繰り返すうちに、やり方にこだわらなくなる。さきに白いバラを想像して意念を集中しろと言ったが、その必要がなくなる。次に時と場所にこだわらなくなる。いつでもどこでも、たとえば仕事場でも列車の中でも、あるいは停車した車の中でも、まわりの世界から遮断し、魂の奥深くもぐり込むことができるようになる。つまり生命の源に、いつでもどこでもプラグを差し込むことができるようになるわけである。背後霊というのは我欲から出た要求でなければ何でも聞いてくれる。要求を妥当とみると、それに必要な措置をいろいろと講じてくれる。

 

●P96 まったく無知のままでいるのも気の毒であるが、こうして私の体験を読むことによって、こんなすばらしい真理があることを知ったあなたが、それを単なる一片の知識としてしまっておくのもまた実にもったいない話である。あなたもみずから体験してみてはどうであろうか。そう、生命の源に自分でプラグを差し込んでみることだ

 

●P179 無我の境地に入れば、当然そこに背後霊からインスピレーションがひらめく。

 

●P180 本当に我欲を捨て切り、無我の境で精神を統一すれば、その時点における最善の策が一瞬のうちにひらめくはずである。もしもひらめかなかったなら、あるいはその策を採用してうまく行かなかったとしたら、その原因は精神の統一が充分でなかったか、それとも完全に無我になりきっていなかったかのいずれかである。
精神統一には訓練が必要である。また我欲を捨てるということも容易なわざではない。
が、ぜひともやらばければならないことであり、修得すればこれほど価値のあるわざはほかにないといってよい

 

●P185 今もし、何かの問題をかかえて判断に迷っているのなら、ただちにこの本を閉じて、その場で黙祷して心を空っぽにし、背後霊に知恵をお願いすることだ。

 

●現代人の処方箋 M.H.テスター 近藤千雄訳 P79
人間には例外なく背後霊がついている。その中に一人ないし複数の、とくにあなたと連絡がとりやすい霊がいて、その霊が取り次いでくれる。別に霊能者は必要ではないのである。
身体を締めつけるような衣類(コルセット、ドルト等)をはずし、思い切り寛ぎ、お気に入りのイスに腰かけ、部屋を少し暗くして、騒音を遮断する。そうした環境の中で日常生活の物的な煩わしさを一切忘れて瞑想する。これが背後霊との連絡に最も理想的な状態である。
もとより、霊の声を聞くとか姿を見るとかの現象は起きないかもしれない。幻想的な光の変化を見たとか、草原が燃えるシーンを見たとかの話にはならないかもしれない。
そういうことは、実は、無用なのである。背後霊はコミュニケーション(通信)ではなくてコミューン(交わり)によって指導するのである。導き、慰め、援助、その他、あなたに必要なものがどこからともなく得られることに気がつかれるはずである。
霊的援助はそうした形で得られるのであって、人間的努力を省くために霊能者に頼ろうとするのは、霊的能力の悪用である。

 

以上、長々となりましたが、精神統一、すなわち“頭を空っぽ”にする目的・意義を列記してみました。
スピリチュアリストにとっての瞑想・精神統一は、日常生活でのりっぱな霊的摂理の実践行為になるのです。このホームページを見に来られるくらいですから、すでに霊的知識をお持ちだとは思いますが、“シルバーバーチの霊訓”を通して霊的摂理の学びをしっかりと行い、精神統一も合わせて行っていると、その内あなたの守護霊からのインスピレーションや導き、悟り、守りを自ら実体験できるようになってきます。もうその時から、あなたは一人ではなくなります。
すなわち“死によって隔てられた二つの世界の交信を可能にしてくれる霊的法則の存在を知った者”といわれるようになるのです。

P123 シルバーバーチ不滅の真理


次回に続く

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(平成27年1月)

瞑想・精神の統一とは(2015年1月2日)

 「瞑想」について以前にもこの“寸感”で述べましたが、そちらの方も参考にしていただきながら今回のものを読んでください。また、大空澄人さんの「続 いのちの波動」のカテゴリの “真理を求めて” の中の “瞑想の心得” (2014.02.02)と、“再び、瞑想の話” (2014.02.22)を参考にしてください。
今回の寸感のテーマは非常に重要なテーマではありますが、あくまでも“シルバーバーチの霊訓”から得た知識を私なりに解釈したものであって、やり方を含め色々な方法や考え方があるようです。もしも私の経験や体験から得るところがありましたら参考になさってください。今回も何回かに分けて述べます。

 

[はじめに]
世間一般では瞑想と精神統一は、ほぼ同じ意味に使われている。
瞑想とは神やイエス・キリスト、マリヤ様の事を考えたり、または念仏やマンダラなどを一心に唱えたり、心に出てくることを第三者の立場で客観的に観察するなど、いろいろとそのやり方や意義・目的について云われているが、これ一つというものは無く、宗教・宗派によって異なっている。
しかしながら、霊的摂理に基づくスピリチュアリストの瞑想や精神統一の意義・目的は、これらとは根本的に異なっている。


[スピリチュアリストにとっての瞑想・精神統一とは]
Ⅰ)スピリチュアリストの瞑想とは、霊的知識をベースとして、覚醒しながら仮相の小我(仮我)から、実相の大我(真我)の世界へと移ることにある。
一言でいって、覚醒しながら物質界から霊界に移ることにある。


Ⅱ)スピリチュアリストの瞑想・精神統一が、世間一般の瞑想と根本的に異なる点は、その目的(以下の①~③)にある。

 

では、
A.スピリチュアリストの瞑想や精神統一のやり方(青文字)と、その目的(①~③)を、“シルバーバーチの霊訓”から引用してみよう。   ※は古代霊シルバーバーチ 最後の啓示より引用
● ※P169:
その才能を最高の水準にまで高める努力を真剣に行わないといけません。
そのためには手にした知識を日常生活の中で実践しないといけません。
また瞑想と精神統一を実修しないといけません。 

● ※P48:

本質的には人間は大霊と一体です。霊性においてつながっているという意味です。
ですから、心配、不安、悩みといった低級感情を消し大霊の計らいに絶対的な確信と信念を抱き、世俗の喧噪から遁れて魂の奥に入り、平安と静寂の中に休らい、不屈の精神に燃えることです。精神を統一するにはいろいろな方法があります。いずれにしても、決して容易ではありません。が、修行の努力は必ず報われます。

● 霊訓 七巻 P101:

心を空にして穏やかな気持ちの中で精神を統一するだけで十分です。
その統一状態の中で①霊の力が働くのです。
そうした静かな精神状態というのが、物的生活に振り回されている騒々しさに一時的なストップをかけることになります。そのわずかな時間を霊性の開拓と、自宅内での②霊的存在の認識へ向けたことになります。地上の人間は静かな精神状態をもつことの効用を十分に認識しておりません。私がよく申し上げているように、あなた方にとって無活動の時が私たちにとって活動の時なのです。あなた方が静かに受身の心でじっとしている時が私たちにとって一ばん近づきやすいからです。
(その直前にこうも述べている。)
②背後霊とのつながりを求めたとえ表面的には何の反応もなくても、霊的にはかならず何かが起きているものです。


● ※P67:

疑念が湧いた時は、その思いをそこで押し止め、精神を静めて、魂の奥に引っ込むのです。③本当の自我である霊性が道を教えてくれます。 

 

ここでいう精神統一とは、“心を空”にすること。すなわち、頭空っぽの無活動状態で静寂の中に入ることである。


次に、瞑想・精神統一の三つの目的とは、
霊力の流入 ⇒ ●最後の啓示P34:霊力が霊界との間にできたリンクを通して流れ込みます。

背後霊とのコンタクト ⇒ オーラを乱している顕在意識の雑念妄念を取り除き、潜在意識で背後霊との一体化、調和を図ることにある。不滅の真理  P80~82


霊性の発現 ⇒ 真我が発現してきて、良心の声が聞こえやすくなる。


次回に続く

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(平成26年12月)

本物の霊能者とは(2014年11月17日)

 世間でいう霊能者とは、五感の延長であるサイキック能力も含めて、霊が見える、霊の声が聞こえる、医者から見放された病気でも治せるなど、霊視、霊聴の能力を有する者やスピリチュアルヒーラーのことを一般的に指している。
これらの霊能力は本人にとっては意図せずに発現するなど、持って生まれた能力によるところが大きく、丁度、絵や音楽などの芸術の才能と同じものなのだ。

 

昨今、巷ではやっている霊能力養成講座なども、英会話教室や絵画教室同様、サイキック能力を主体とした、これらの能力開発・向上を目的としているようだ。

 

以前、スピリチュアルヒーラーの元祖のような霊覚者の教えを引き継いだ日本講演に参加したことがある。まるでアイドルのコンサート会場のように数百人の若い人々の熱気で会場は溢れ返っていた。中高年といえば大阪から来た我々夫婦他数える程度で、場違いのようにさえ感じたが、教えそのものというよりも霊能力開発に憧れて来ているように思えた。関西でもその聖人の名を冠した勉強会を我々が定期的に主催したが、霊が見える、声が聞こえる、予知能力があるという人々の参加や、スピリチュアルヒーラーに憧れて来た人達が多く、一種の霊能力養成講座と勘違いされて来られたのではないかと思われた。その点、霊的摂理・真理のみを学ぶシルバーバーチ読書会とは明らかに異質なのだ。主催者の一人である私自身は霊が見えるわけでもなく、サイキック能力やヒーリング能力もないので、霊が見える人からは霊能力もないのに勉強会を主催しているといわんばかりで、小バカにされたことがある。この勉強会は案の定、ひっかき回された揚句、途中でおかしくなって解散せざるを得なくなった。この勉強会から判ったことは、霊が見える方や感じる方は、我々凡人よりも霊性が高いから見えるのだという自負心をご本人はお持ちのように感じられた。もちろん例外もあり、この“寸感”の下にリンク先として掲載している“続 いのちの波動”の大空澄人さんのように、霊的知識をしっかりとお持ちで、霊的摂理の普及のために霊界の良きエージェントとして、真摯にその霊能力を最大限有用に使っておられる方も居られるのも事実だ。

 

他方、シルバーバーチは誰にでも霊能力があると霊訓でいっているが、はたしてこれら特殊な能力のことを指しているのだろうか。
このことに関して、“シルバーバーチ最後の啓示”の第二章 二人の“ドリス”の中から引用してみよう。ちなみにこの二人の“ドリス”は共に英国の有名な女性霊媒である。

 

“大霊の大事業に霊界から参加し、地上人類に本来の生き方を教えることに献身している霊たちは、あなたのような方を通して仕事をするのです。あなたのような才能を身につけた方を通して働く以外に方法はないのです。地上の指導者であるべき人たちが何もできずにいるとき、あなた方は悲しみに暮れている人、病気に苦しんでいる人、悩みを抱えている人、生きる目的を見失った人に解答を授けることができます。崇高な霊力のチャンネルとして、そういう人々の霊性に働きかけて、本来の機能を取り戻させることができます。それは霊能者にしかできない仕事です。大霊に奉仕するという特権を授かっているということです。” P61

 

“今この部屋にいる私たち一同、および霊界で同じ仕事にたずさわっている同志たちも、みなこの崇高な計画の一翼を担っているのです。その目的とするところは、地上の人間に本来の生き方を教え、肉体と精神を存分に発揮すると同時に、本来の自我である霊性をよりいっそう顕現させるように導くことです。かくして得られた人生の目的についての悟りは、本来はエデンの園であるべきでありながら今や身の毛もよだつ恐ろしい唯物病に冒されている地球を救済するための手段でもあるのです。” P36

 

このように霊力は、大主教や主教や法王、司祭や牧師などを通してではなく、あなたのような、ごく普通の人間でありながら崇高な愛や叡智や霊力をあずかることのできる人を通して地上へ顕現されるように計画されているのです。” P37

 

私たちは地上人類の本来の姿、すなわち物的身体を通して自我を表現している霊的存在であることを教えてあげることができます。その生活の中で最優先するべきものを優先し、霊的原理に基づいた生き方をしていれば、かつて経験したことのない生きる喜びを見出すことになります。地上人類の最大の問題点は、大霊よりも黄金の子牛(金銭)を崇拝の対象としている者が多すぎることです。欲の皮がつっ張れば霊性はしぼみます。霊性が第一であることを一人でも多くの人に説かないといけません。地上のいかなる財産も、この世かぎりのものです。来世まで持って行くことはできません。” P63

 

地上生活の目的の一つは霊的意識の覚醒です。” P44 

 

たとえスピリチュアルヒーリングで肉体の病気そのものは治っても、霊的覚醒にまで至らなければその治療は失敗だったとまでシルバーバーチはいっている。その理由として、シルバーバーチの使命は、“こうしてお届けする霊界からの真理の言葉によって地上の人々が本当の自我の存在に気づき、霊的に目覚めるように導くことです”にあるからである。だからこそ、奇跡によるのではなく、真理の言葉で理性に訴える霊的摂理一筋で、60年間も押し通したのだ。

 

以上、縷々述べてきたが、要約すると、霊視・霊聴をはじめ霊媒現象も、スピリチュアルヒーリングもいわゆる霊能力といわれるものを使用する真の目的は、本当の自我に目覚める霊的覚醒のためにあるのだ。霊能力の目的とするのは、それを使って霊的意識の覚醒を促すための道具として霊界から用いられることにあるのだ。具体的にいうと、霊界からの支援・要請・導きを受け、我々が霊的知識をとおして、霊的覚醒を促すための霊的エネルギーやインスピレーションを相手に注ぎ込む通路、道具となることなのだ。このことが取りも直さず、物欲第一主義の戦場で、霊的解放のために闘っていることになるのだ。
この霊的意識覚醒のための良き道具となっている者こそ、真の霊能者なのだ。これなら何も霊視や霊聴、ヒーリングなどの特殊な能力は必要でなく、霊的自覚さえあれば誰でも真の自我に目覚めさせるための道具、さらには魂を救うスピリチュアルヒーラーになれるのだ。
本物の霊能者になるためには、巷にあるような霊能力養成所などいらないのだ。

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(平成26年11月)

永遠不滅の“本物の宝物”とは・・・(2014年10月29日)

 私たちは、霊的真理・摂理というものの真の価値を本当に理解し、日常生活で常に自覚・実践しているだろうか?
霊的摂理を知識としては知っていても、ややもすると日常生活で適用していない自分がいることに度々気づかされる。特に、世間的にみんなが憧れ、ちやほやし、もてはやされるような華やかな舞台や場面では、眼が眩まされて霊的知識も影がとても薄くなってしまう。今月の叡智の言葉にあるように幻影のマジックに罹っているともいえるが、五感でストレートに感じているからだ。自分自身のパワー、能力、価値を五感で感じている現象界の自分(仮我)のみにおくのか、霊魂としての“本当の自分(真我)”におくのか(霊主肉従)の正にせめぎ合いである。この世にあって、この世に属せず。霊的知識をもって、この世にありながら俗世に染まない生き方が本当にできているのかどうかが、常に問われているのだ。
時間が経てば自分に代わって誰かがやっているだけで、色褪せて人々の記憶からも消え去るような一時的な栄華ではなく、時を超えて輝き続ける本当の価値、本物の宝物とは一体何なのだろうか。
 ちなみに、ここで広く世間が人生の目標としてその価値を認め、羨ましく思うものを思いつくまま列挙してみよう。お金、大会社経営、社会的地位、名声、学識、能力、健康、美貌、若さなどなど。
 私は男性だからつい男社会が求めているものが中心となってしまったが、女性にとっても共通する点があると思う。もちろん小さな単位として家族団らんの家庭だけで十分満足という人もいるだろうが、霊的知識を持っていても、世間が羨むような華やかな場ではどうしても当事者と比較して物的優劣を比べてしまい、つい自分の立ち位置が見えなくなって、みじめな思いをすることが時々ある。いつの間にか本能的に世間的な物差しで比較している自分がいるのだ。もちろん努力の結果としての成果を、軽視しているわけではない。命をかけてまで、全力でエネルギーを注ぎ込んで取り組んでいるからこその成果であろう。何事も努力なしでは達成できないものだ。

 

 これらこの世での栄華がある一方で、むしろ私たちは霊的摂理に本当の真価を置き、本物とは何かを常に真剣に求めているのも事実である。しかし、死んだら全ては終わりと思い、物的なもののみを追い求めている者にとっては、この霊的摂理など何の価値もないどころか、むしろいかがわしい、怪しげなまやかしものにさえ見えていることだろう。今まで特段の必要性を感じてこなかったので、偏見でみて調べもせずに頭から否定しているのである。しかしながら、五感にはたとえ見えなくても、また機器では計れなくても、愛や憎悪などの意識は現に実在することは、いくら唯物主義者であろうとも否定のしようがないだろう。霊の世界は意識の世界なのだ。
私の人生80年とすれば、年だからあきらめたと思われるかもしれないが、世間の人々がもてはやす華やかな立身出世のようなものには、もはやエネルギーの無駄遣いは一切したくなくなってきた。所詮、持っていけるものでもなく、ちっぽけな一時的な世間的評価もはかないもので、時と共に色褪せ人々の記憶から消え去るのは目に見えているからだ。現に私の周りでも、当時は大いにブイブイいわせ、綬勲を受けて都内の超一流ホテルで祝賀パーティーを開催するような業界の大物達も、過去の人となるとすっかり人々の記憶から消え去ってしまっているのだ。話題にすらならない。世間では文字通り、死んだら全て終わりなのだ。

 

 この死んだら全て終わりと思っているのと、自分自身が神の分霊であり、この世の人生は修業であって、死後も永遠に生き続け、強力な守護霊の護りと導きがあるのとは、日常生活を生きていく上で考え方には天と地ほどの違いを生むことになる。価値判断の物差しが全く異なるどころか、一言でいって真逆になってしまうのだ。今の現象界の人生は一時的であり、とてもつらいと思っていたことが、実は死後にそなえての霊的成長のために必要な恵みであったことに気づくのだ。
だからこそ、疑い、不安、心配、悩み、取り越し苦労などの邪念は、霊界から支援として送られてくる霊力の流入の妨げになるので一切持たないこと、とシルバーバーチは繰り返し何度も述べているのだ。
但し、これは理屈ではないのでなかなか簡単には身に付かず、日常生活をとおしての数多くの実体験を繰り返すことによって徐々に強固な基盤になるもので、いわば知識に基づいた信念が確信に至るには時間のかかるものなのだ。霊的摂理に気づいては現象界に引き戻され、また気づいては引き戻されのくり返しで、気づいたからといって、霊的成長は決して一足飛びにいくものではない。但し、だから私はダメだと思う必要は絶対にない。赤ちゃんだっていきなり歩くことはできないのと同じだ。永遠に輝き続ける霊的宝物はそう簡単には手に入らないものだが、随分と人生の見方が変わり重荷も軽くなることを私の経験から明言できる。スピリチュアリズム無しの人生は、星もない漆黒の暗闇に漂う、どこに向いているのかさえ判らない羅針盤の無い船と同じだ。

 お互い、持って帰れる永遠に色褪せない“真の宝物”とは何かを、片時も忘れずにいたいものだ。

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(平成26年10月)

我は神なり

 “我とは霊魂なり”だけでも、五感には感じられないのでとても理解・自覚することは大変だが、“我は神なり”となると、とんでもなく理解・自覚が難しいように思える。そんなことを公言する人には、警戒を要するか、とても胡散臭く感じるのが世間一般の常識だろう。特に、唯一の神の子として“イエス・キリスト”しか認めないキリスト教世界では、こんなことをいったものかは、少し前までは間違いなく魔女狩で火あぶりの刑にされるのがおちだ。さすが人類も進歩したものだが、火あぶりの刑にはならなくても、気がおかしくなったと思われ、相手にされないのは世界共通で今も変わらない。

 

 しかしシルバーバーチは、“本当の自分”(真我・インディビデュアリティ)を見出した者は、神をも見出したことになる、と明確に霊訓でいっている。同時に、霊訓には私たち一人一人は“神の子、神そのものである“ともよく出てくるが、いくら知識として聞かされていても”私は神だ”と思えないのは、なにも私一人では決してないと思う。
理由は簡単である。以前の寸感でも話したが、頻繁にでてくる霊性心とは真逆の悪の心や、間違い、取り越し苦労、心配、不安、恐れの絶えない“意識している自分”(仮我・パーソナリティ)が、我々のイメージしている完全無欠な“神”と同一とは、到底思えないからだ。中には平気で幼な子を殺す者もいて、神と思えないのは当然と言えば当然すぎるぐらいである。

 

 しかしながら、たとえ人生が思うようにいかず全くの非力で、欠点だらけの我が身ではあっても、我々人間も宇宙同様、神から生まれた存在だ。その証拠に決して摂理(法則)の枠外で生きているわけではない。そうでなければ、たまたま偶然に生まれ消滅することになるが、宇宙の法則や森羅万象がたまたまの偶然とは私には到底思えない。
そうではなく万物は、生命エネルギー(霊力)があるから形態として存在でき、我々自身にも霊力があるから思考でき、肉体も存在できているといわれている。以前の寸感でも述べたが、その生命・霊力、そしてそれが支配する法則が神そのものだとシルバーバーチはいっている。そうなると摂理(法則)の海の中で生きている我々の内にも外にも、当然、摂理・霊力としての神が内在しているといえるだろう。
さらに法則の範囲内ではあるが、個性を持ち善悪を行使する自由意志(殺人や自死さえ行える)と、その結果としての自己責任が求められ、神同様、普遍的な愛や創造発展(進化向上)をする力も潜在的に有していることは明らかである。また、地球上では神を意識することができる唯一の生物であり、地球上の他の生命体とは明らかに区別されるのだ。きっと神でなければ神という概念さえも持ち合わせていないだろう。
いろいろと大変理屈っぽくなったが、こう考えるとたとえ霊性レベルは宇宙で最低だといわれていても、“真の我”は意志(個性)をもった霊(個霊)、ミニチュアの神そのものなのだ。神の子だからこそ創造や進化発展に寄与し、神の遺産の相続権があって、魂の兵器庫の扉を開き神の武器(霊の力)を取り出すことさえ出来るのだ。

 

 丁度、神(大霊)を海に例えれば、肉体という土のコップにすくい取られた海水といえども、極少の海の一部(分霊)であることには変わらないのだ。物質界では波動の粗いコップの中に精妙な波動の本体(真我)が閉じ込められているので、その霊性を不完全な形で外部に表現しているだけだという。幸いなことに、このコップの中にすくい取られることによって始めて個性(パーソナリティ)を持つことができ(個霊=魂)、同時にこの不自由な肉体をとおして効率よく霊魂の修行にもなっているようだ。
今置かれている“仮の我”(パーソナリティ)の状況や霊的成長度がたとえ無きに等しい、また殺人者といえども、我々はコップの中に“存る”という状態だけで大霊の一部、分霊そのものであり、その霊は始めもなく終わりもない元々“在りて、在るもの”なのだ。それは神の子、ミニチュアの神(分霊)そのもので、霊に成るための条件などは一切なく、初めからそうなのだ。“その大霊と同じ神性をあなたも宿しているという意味において、あなたも神なのです。本質において同じものです。” シルバーバーチ不滅の真理 P50

 

 これに関連して聖書の放蕩息子の話をしよう。大地主の父のもとには二人の息子がおり、常にそばにいて父を助けている兄(天使)とは違って、弟は財産分けを自ら父に申し出て家を出るのである。いわば人間として肉体をまとって自らの意志で物質界に下りてくるのである。
好き放題、勝手気ままに莫大な親の財産を散々浪費して贅沢三昧をしたあげく、これ以上浪費するものが無くなり、誰からも相手にされなくなってしまった。挙句の果てに何とか頼み込んで豚小屋に住み込ませてもらい、豚の世話をして生活をするまでに落ちぶれてしまったが、金もうけ主義の雇い主はケチで、豚の餌さえも満足に食べさせてもらえず、とてもひもじい思いをするようになった。そしてこの世界では何も頼るものが無いと気づいた段階でやっと目がさめ、父の家では僕(しもべ)でも三度三度の食事が出来ることを思い出し、父に許しを請い、せめて僕としてでも雇ってもらおうと誕生の地に帰るのである。父はいまだ遠くにいたにもかかわらず放蕩息子を見つけ出し、大急ぎで駆けつけて息子を許し、しっかりと抱きしめて、早速、従者に命じて身体を洗わせて真新しい服を着せ、失っていた息子が帰ってきたと大祝宴を催すという譬話である。
ここでいう放蕩息子とはまさに我々自身のことで、世間知らずで祝宴に不満げな兄よりも、俗世の苦い経験をとおして善悪、甘いも辛いも知りつくした弟の方が父の心により近づいたと言えるのである。この物質界で我々は今まさに同じストーリーを実体験しているのだ。

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(平成26年9月)

泰然自若

先月の寸感の続きになるが、“内部から湧き出る霊力”は、いかに自分を取り巻く環境が地獄の様相を呈していても、心の中は泉のように湧き出る霊力のおかげで静寂、平静、泰然自若になることができるという話であった。これは具体的に言って、どういうことなのだろうか。また、どうすればそのような心境になれるのだろうか。私なりに考えてみた。


古代霊 シルバーバーチ不滅の真理 P171より以下引用します
“私の見解はどうしても地上の説とは違ってきます。皆さん方はどうしても物的観点から問題を考察せざるを得ません。物的世界に生活し、食糧だの衣服だの住居だのといった俗世の問題を抱えておられるからです。そうした日々の生活の本質そのものが、その身を置いている物的世界へ関心を向けさせるようになっているのです。日常の問題を永遠の視点から考えろと言われても、それは容易に出来ることではありません。が、私たちから見れば、あなた方も同じ霊的存在なのです。いつ果てるともない進化の道を歩む巡礼者である点は同じです。
いま生活しておられるこの地上が永遠の住処でないことは明白です。これから先の永遠の道程を思えば、地上生活などはほんの一瞬の出来事でしかありません。私たちの視界は焦点が広いのです。皆さんからお受けする質問も、霊的真理に照らしてお答えしております。その真理が人間生活においてどんな価値をもつか、どうやって他の同胞へ役立てるべきか、どんな役に立つかといった点を考慮しながらです。
これまでの私は、私の説く真理が単純素朴なものであること、唯一の宗教は人のために自分を役立てることであることを、皆さんもいい加減うんざりなさるのではないかと思うほど、繰り返し述べてきました。私のたちの真理の捉え方が地上の常識と違う以上、そうせざるを得ないからです。
大半の人間は、地上だけが人間の住む世界だと考えております。現在の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで物的なものを、いずれは残して死んで行かなければならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。戦争・流血・悲劇・病気の数々も、元はといえば、人間が今この時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂なのです。それが、地上という物質の世界での生活を通じて魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。


霊的視野で捉えることは、この物質界では容易ではないとシルバーバーチも認めているので、正直ほっとする。本当にそんなに簡単ではないと思う。霊魂が存在することは過去の一連の調査で証拠写真まで存在するので、事実だろうと理解している。しかしながら、頭では“我とは霊魂である”といくら理解しているつもりでも、仕事や対人関係なども含めて日常生活に追い回され世俗の難しい問題に直面すると、ついついそのことをすっかり忘れて、いつの間にか世間常識に基づいて価値判断している自分がいることに度々気づかされる。
何事もない平穏なときに神や霊魂を信じることはたやすい。お腹が満腹なときに他人に食べ物をお裾分けすることもたやすい。しかし“日常生活で霊的真理を実践する”とは、俗世の逆境にあるときにこそ、必要なのだ。世間でも、一寸先は闇、何があるか判らないのが人生といわれている。本当に明日はどうなるか判らないほど、不安定な状況に思える。移りゆく相対の世界で、不変、永遠のものがこの物質世界にはないと思えるからだ。だからこそ、何とはなしに心配、不安感がいつも心の底にあるのだ。
それでは霊的知識を学んだ我々はどうすれば良いのだろうか。
自我から離れて、この果ても知れない大宇宙を支配している法則、自然の法則・摂理に全幅の信認を置くことだ。自分の「生」そのものの基礎を宇宙の法則に置くのだ。視野の狭い、今意識している自分(自我・仮我)の判断など、たかがしれている。周りの影響を強く受け、常に揺れ動いている不安に満ちた心だからだ。神とは法則ですとシルバーバーチもいっているように、外界の自然法則なら五感をとおして身体でも感じ取ることが出来る。この永遠不滅の自然・宇宙の法則に自分の全信認を置けばよいのだ。
規則正しい法則として宇宙を維持している力は、必ずある。決して混沌とした宇宙ではない。意識している自分自身の存在は、生命エネルギーがあればこそ思考ができるのだと思う。また、生命同様、愛というものも存在していることもわかる。この生命エネルギーや宇宙の法則として働いている力を、シルバーバーチは霊の力と呼んでいる。そしてその力にも法則・摂理というものがあり、シルバーバーチは霊的摂理といっている。霊的摂理である“神は愛であり、愛は摂理を成就する”ことや、因果律のこともよく理解できる。
地上というところは、権力やお金などの物的なものが心・精神を支配している世界であり、精神が物質を支配していないとシルバーバーチはいう。コロコロと常に動き回る不安定な心、すなわち風向きで常に形を変えている砂地の土台の上に自分自身のよって立つ基盤を築かずに、永遠不滅、不動の宇宙の摂理に自分自身のよって立つ土台、すなわち岩盤の上に基盤を築くことにしよう。ああでもないこうでもないと、常に物的なものに影響され揺れ動く自分の心よりも、太陽は輝き続け、地軸を中心に地球は回転し続ける自然法則の方が間違いのない摂理で、不変だからだ。
この霊的法則・摂理として、シルバーバーチは我とは永遠不滅の霊魂であり、守護霊や指導霊がいつもそばに居て決して見離さず、常に導いているという。また、背負いきれないほどの重荷を背負わされることは決してありませんともいう。自分自身、過去の逆境にあった時の、一連の奇跡的な展開のことを振り返ってみれば、紛れもなく確かに導きがあったと満幅の確信が得られる。そしてシルバーバーチは過去にあったように、今後も霊界からの導きがあるという。摂理としてのこの約束を不変・不動の担保としよう。
自分自身のよって立つ基盤を、死んだら全て終わり、権力と富こそ力なりという物的世界の常識から、永遠不滅の宇宙の法則(霊的摂理)に置きかえることだ。そうすれば自らを取り巻く状況が世俗的にみていかにあろうとも、もっと広い霊的視野でとらえると所詮一時の幻影であり、“本当の自分”は霊魂で、永遠不滅の神の分霊であると自覚した心は泰然自若となることができるのだ。
こうして“心の静寂”が得られると、肉体器官にどのような影響を与えるのかという質問に対して、シルバーバーチは次のように答えている。
“それ本来の有るべき状態、つまり王様である霊の支配下に置かれます。すると全身に行きわたっている精神が、その入り組んだ身体機能をコントロールします。根源において生命を創造し身体を形づくった霊の指令にしたがって行われます。その時は霊が身体の構成要素のあらゆる分子に対して優位を占めています。それが出来るようになれば、完全な調和状態――あらゆる部分が他と調和し、あらゆるリズムが整い、真の自我と一体となります。不協和音もなく内部衝突もありません。静寂そのものです。宇宙の大霊と一体となっているからです。” P243 古代霊 シルバーバーチ不滅の真理より

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(平成26年8月)

内外から霊力を引き出すとは・・・(平成26年7月26日)

外からの力とはどのようなものをいうのでしょうか

“自分の存在の始原、すなわち大霊の分霊であることを思い起こし、この全大宇宙を創造したエネルギーと同じものが自分にも宿っていることの意味を熟考するのです。そこから勇気を得て、壮大の気宇を抱くことです。下を向いてはいけません。上を見るのです。そして、援助は自分の内部と外部の双方から得られることを知ってください。
あなたを愛する人々、そしてあなたの心臓や鼓動と同じくらい身近にいて世話を焼いてくれている人々が、あなたを見放すはずがないとの信念に燃えてください。内的な平安と静寂、自信と決意、そして、すべては大霊が良きに計らってくださるとの悟りは、そうした認識の中においてこそ得られるのです。“  シルバーバーチ 最後の啓示 P79
これは外から、すなわち背後霊からインスピレーションや悟り、叡智、導きなどをとおして霊力を得られるということをいっているのだろう。

それでは、内からの力とはどのようなものをいうのだろうか。

シルバーバーチの新たなる啓示 P129には、次のように書かれている。
“日常生活では葛藤と困難と闘争に明け暮れていながら、内面的には平安と安らぎの中に安住することができます。俗世では疾風怒涛の中にあっても、霊的な悟りは平静そのものであり得るのです。安らぎは内面から出てくるものです。外部からやってくるものではありません。地上の人間が物的身体の奥に秘められた霊的な自我を開発しさえすれば、泉のごとく霊力が湧いて出て、静寂、沈着、平穏、安らぎといったものがもたらされます。
これまでに多くの偉大なる霊が地上へ降誕し、さまざまな分野で先駆的な仕事と改革をもたらしましたが、みな、過酷な現実の中で悪戦苦闘しながらも、霊的な自我は静かな悟りの世界にありました。物的な有為転変と霊的原理とを同等に見てはいけません。霊が主人であり、物質は従者です。つねに霊が主導権を握るようでなくてはいけません。”

ここで述べられている“霊的な自我の開発”とは、霊的成長のことを指しているのだろう。そして、今置かれている状況がいかに過酷なものであっても、心が静寂、冷静、沈着、平穏、安らぎという精神状態になれるのは、泉のごとく湧き出る内部に秘められた強大な霊力のおかげだという。この状態が、霊力が発動した結果の精神状態なのだ。一見、力、エネルギーとは思えないものを霊力といっているようだが、これは心身統一法の積極心とは、なにもクソ~と力んで執着で取り組むことではなく、精神状態が明るく朗らかで前向きである状態のことであると中村天風がいっているのと同じである。
そしてこの裡なる霊力を発動するには霊的知識を知って霊的摂理に不動の信頼をおき、日常生活において実践、すなわち適用することにある。それが内在する魂の兵器庫を開き、神の武器(霊力)を取り出すことになるのだ。
その観点から、以前にも引用した霊訓、今回の“今月の叡智の言葉”を読み直してほしい。

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(平成26年7月)

利他とは・・・(H26.6.28)

耳にタコができるぐらい、霊訓の中には利己主義と利他主義の話が出てくる。そして利己主義は物質中心主義と同義語として使われている。生まれたままの我々の心は、本能的にわが身を守ろうとする意識を持っていて、そういう意味では利己主義であると思う。当初は必要なのである。自分にとって得か損か自己中心で判断し、大人になっても単に自らの金銭欲や色欲を満たすため、まるで物を壊すように簡単に人を殺す人もいる。
他方、本当の自分は霊魂であることや霊的同胞性などまったく知らない人でも、人間的に成長すればエゴ一辺倒から利他の心になってくる、というのが世間一般の常識的な考えだろう。だからこそ、そういう人は尊敬の対象となり人々に慕われるなど、利他は人格者・偉人に共通した特長となっている。いわば本能心よりも、人の道・霊性心を自然と発揮している人々なのだ。
では、とりたてて人格者でもないごく普通の我々の場合はどうであろうか。霊訓では利他が霊的成長への条件となっているが、自分のことで精一杯で物心両面で余裕もなく、無理してまで他人のことが果たしてできるのだろうか、とついつい思ってしまう。これがごく自然な普通一般の考え方だろう。ある意味、精神的に余裕がないともいえるが、別に自らを誤魔化すこともなく、咎められることもないと思う。利他の心、自主的に他人を思いやるとは単に霊的成長度の違いであって、当然男女の違いや、社会的に成功したと思われている金銭所有の多寡、地位、学識の差ではないのだ。これらはかえって傲慢になりやすいなど、むしろこの逆のケースが多い。要は重要度の優先順位が真逆で、人間的成長は優先度が非常に低いのだ。当たり前だと思う。死んだら終わりと考えていては、自己犠牲してまで人間的に成長することよりも、今を楽しく生きることの方がもっと大切と考えるのが普通で、死後存続の事は頭にもないからである。


私なりの経験で気づかされたことがある。一例が、霊的知識を得て、それを人にも伝えようと読書会や勉強会を主催すると、事前準備に本人自身が一番勉強する必要に迫られ、結果として参加者の誰よりも自分自身の霊的成長に繋がっていることに気づかされる。また、卑近な例が、この“寸感”を書くにあたって、一番学びになっているのは他でもない、自分自身なのである。書いたものを通して自分自身が定期的に一番学ばされているのだ。
このように利他の心ですることは、期せずして結果として自分に帰ってきて、本当の意味で自分自身を大切にしていることに繋がっていたのだ。人を生かすことが自分自身を生かすことになっていたのだ。“情けは人のためならず”という諺は本当なのだ。これは人に情けをかけるなという意味ではなく、情けをかければ自分に返ってくる(霊的に成長する)という意味である。この関係は表裏一体で切り離すことができない関係なのだ。共存共栄の神の世界(天国)、これこそが自然の摂理、善因善果の因果律の法則なのだ。逆にエゴは自らを滅ぼす(霊性を下げる)ことになる。但し、霊界のようにすぐには現象として顕れないので、表現をかえると“霊性を下げている”ことが見えないので、このことがなかなか自覚できないのだ。
我々は霊的知識として霊的同胞性ということを学んだが、この意味することは、他人はすなわち自分で、自分は他人なのだ。魂には個別性(分離意識)はあるが、生命エネルギーとしての霊は神の分霊、私たち一人一人は神そのものであるとシルバーバーチは言っていて、そこには自他の区別は無いのだ。だからこそ諺通り自他の区別なくこういうことがおこるのだ。
この物質界にあって神の分霊である人間に奉仕することは、霊界同様、働き手として大霊である神に奉仕することになる唯一の道なのだ。
このように利他主義は霊的成長のための必須条件ではあるが、唯物主義のこの物質界にあっては決して容易なことではない。そのためにも霊的知識が必要となるのだが、その霊的知識を得るにはどうしても触媒としての“試練の体験”が必要となってくる。そうでないと求めないし、仮に知ったとしても自分のものにならず、元の木阿弥、幻影の世界に容易に引き戻されてしまうからだ。

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(平成26年6月)

背後霊とのコンタクト方法について

「自分にも背後霊がいるのだろうか――そう思われるのかも知れない。その通り、ちゃんといるのである。これについては後章で詳しく述べることにして、ここではその指導の受け方だけを簡単に述べておこう。
今夜、床に着く前に魂の静寂の時をもってみよう。まず寝間着に着替えるか、あるいはそのままの服でベルトとネクタイをゆるめる。女性であれば肌をしめつけるようなものは取る。もちろん靴も脱ぐ。次に部屋を薄暗くする。明かりは音と同じく神経を刺激する。それから、ラクに座れるイスに腰掛け、両足首を軽く交叉させ、両手を軽く組む。その姿勢で目を閉じる。目に力を入れてはいけない。眼球は動くにまかせる。そして頭の中を空っぽにする。始めのうちは考えまいとする意思が邪魔をして、色々と雑念が湧いてくる。が、それにこだわってはいけない。一つの方法として、日常生活に関係のない単純なもの、たとえば花を思いうかべて、それに意念を集中するのもよい。そうやっているうちに心身ともにリラックスしてくる。そこで親友にでも話しかける気分で、今あなたが抱えている問題を口に出して述べる。問題を述べるだけである。こうしてほしいと勝手な要求を出してはいけない。特に欲の絡んだ手前勝手な欲求を持ち出してはいけない。問題を述べて、どうしたらよいかをご指導ねがいますと言う。言ったあと静かにしていると、ふっと軽い無意識状態に入ることもある。目が覚めるとスッキリした気分になっている。これを毎晩くり返す。大切なのはその日その日を新たな気分で始めることで、慣れっこになって形どおりのことを機械的に繰り返すようになってはいけない。場所や時間は特にきめる必要はない。いつでもどこでもよい。車の中でもよい。大切なのは静寂の時をもつということである。それを続けているうちに、ある朝ふと、いい解決策が浮かぶ。あるいは問題そのものが問題で亡くなっている時もある。もしかしたら、思いがけない人がひょっこり訪ねて来て、それが問題解決の糸口になったりするかも知れない。どういう形で成果が現れるかは予断できない。」

「私は霊力の証を見た」P123 M・H・テスター著 近藤千雄訳  潮文社 

 

「霊媒を通じての直接の交信(コミュニケーション)が出来なければ、前に紹介した背後霊との触れ合いが出来る。これには“静寂の時”さえ確保できれば一人でも出来る。十分間あるいは十五分間ほどやって何の変化も感じられなくてもよい。うっかり寝入ってしまってもよい。それを折にふれて実行していくのである。いつでもどこでもよい。完全にリラックスして白日夢を見る状態でよい。ただ肝心なのは、煩わしい日常の雑念に邪魔されないようにすることである。そのうち、ふと体が軽くなったような気分がしだす。心身ともに軽くなってくる。そんなに張りつめていたのかと思うほど気分が和らぎ、さっぱりとしてくる。と同時に、悩みのタネであったことが大したことではないような気分になったり、解決のためのいい方法が思い当たったりする。あなたは背後霊の援助を受けたのである。」
「私は霊力の証を見た」P190 M・H・テスター著 近藤千雄訳  潮文社 

 

このコーナーを読んでおられる方は、すでに霊的知識があるので、過去、背後霊の導きを感じた経験は、一度ならずとも心当たりがあると思う。
霊的知識のない方には、単なる偶然の出来事や、思いつき、閃き程度にしか感じられないだろう。また、このような内容自体、頭がおかしくなった証拠と思っているだろう。無理もない。そばに背後霊が寄り添って居るという霊的知識や自覚が全く無いからである。
ここでいう背後霊とは、もちろん地縛霊のことではなく守護霊や指導霊、支配霊のことで、私には良心の声も含めて、一体どの背後霊から来ているのかの区別はできない。
但し、シルバーバーチは霊訓の中で、我々が思念することは、我々が想像する以上に背後霊の影響を潜在意識で受けているといっている。
また、世の中に偶然はないといわれている。霊的知識のある方は偶然のような“背後霊の導き”も常日頃感じているはずだ。
背後霊の声は私の場合、聞こえるようなものではなく、心の中で思念するような言葉として“あなたは”の二人称で入ってくる。少し前までは、ふと気づいて自分自身の声や考えなのに、“あなたは”との呼びかけに不思議だなあ、これはどういうことなのだろうかと思っていた。霊訓の内容がでてきたり、考え方、アドバイスなど、言葉が他人に話しかけているようで、どう考えても他人行儀で自分自身の言葉とは違うのだ。
では、初めの頃はどんな時にこの声が出てくるのかというと、何といってもやはり試練や困難に直面し窮した時だ。普段は聞こえてこない。特に楽しいときには絶対に出てこない、というか意識しない。それがこちら側から意識するようになり、呼びかける頻度が増えてくると、日常的に聞こえてくるようになる。いわゆる一種の会話をするような頻度が増えてくるのだ。特に、朝起き掛けで雑念妄想念の少ないときや、何かの事に心が囚われていないというか、執着していない時だ。MH・テスターのいうように、精神統一、頭の中が空っぽのときにポンと入ってくる。コンタクトしやすくなるのだろう。だから常日頃、頻繁に頭を空っぽ(無我無念)にする時間を持てばよい。数十秒のごく短い時間で良いのだ。これならどこででもできる。

 

背後霊の導きを得るには、その日一日を精一杯頑張り、やるだけのことをしたあとは、先の事は心配せず背後霊任せにすればよい。それだけで随分気が楽になってくる。どうせ500年後、霊界から今の問題を振り返ったら、大した事ではないのだ。その証拠に短い人生経験でさえ当時は大変な事でも、今ではすっかり忘れてしまっているではないか。最終的に意味をもつのは、少しでも霊的成長をしているかどうかに全てはかかっているのだ。

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(平成26年5月)

霊力について(2014.5.1)

判ったようで判然としない言葉、“霊力”とは一体何なのでしょうか。
「シルバーバーチの霊訓」から探って、整理してみたいと思います。少し長くなりますが、根幹に関わるとっても大切なテーマですので、以下書き出してみます。

 

1.霊力とは

●人間によって認識されている如何なるものさしにもかからないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊力というものは存在しないことになります。つまり実在とは人間のお粗末な五つの感覚で捉えられるものと決めてかかっている唯物自然科学者にとっては、霊力は存在しないことになります。しかし愛は目に見えず耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。たしかに愛の力は強烈です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です。あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動きまわり、考え、言葉をしゃべるのも霊の力があればこそです。あなた方の行動のすべて、あなた方の存在のすべては霊の力のおかげです。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって存在と目的と指針と生活を与えられているのです。物質界のどこを探しても意識の秘密は見つかりません。科学者,化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質は一時的に借りている宿にすぎません。霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。(霊訓 三巻 十一章 P170)
霊力とは生命力であり、生命の素材そのものであること、活力であり無限に存在すること、可変性があり、無限の形態をとることができ、無限の置き換えと組み合わせが可能である、ということです。(霊訓 九巻 十一章 P174)
●私たちの関心は霊力――私はそれを大霊と呼んでいるのですが――それが地上に根付くことです。なぜ霊力を根付かせようとするのか。それは、霊力には魂に感動をもたらし、真の生命に目覚ませる力があるからです。

(霊訓 九巻 十一章 P163)
●流入する霊力の分量に限界というものはありません。唯一それに制限を加えているのはあなた方治療家の霊的発達段階であり、それが、どれだけの霊力を受け入れるかを決定づけます。この聖なる力、神の威力、大霊、生命力、どう呼ばれても結構ですが、それがあなた方を通路として流れるのは、あなた方に受容能力があるからです。

(霊訓 九巻 十一章 P171)

 

2. 霊力の働きについて

●人間はこの宇宙を自動的に支配している法則と秩序について語るだけで満足し、太陽や惑星をそれぞれあるべき場所に維持している、強大な霊の力が存在しているという事実を探求しようとはしません。”

(コナンドリル「人類へのスーパーメッセージ」P201)
●その霊力は病気を癒し、悲しむ人を慰め、道を失った人を導き、無知を知識に置き換え、暗闇を光明に置き換え、生きる意欲を失った人には元気を与え、真理に渇いた人の心を潤し、真の自我を見出そうとする人には神の計画のガイドラインを提供してあげます。(霊訓 十巻 一章 P11)
霊力の機能はそれ以外にもあります。日常の生活において他のすべての策が尽きたと思えた時の支えとなり、指示を与え、導きます。(霊訓 十巻 一章 P13)
●お二人は霊力という最大の武具を備えていらっしゃいます。それをある時は支えとし、ある時は安息所とし、ある時は避難所とし、ある時は至聖所とし、そしていつも変らぬインスピレーションの泉となさることです。(霊訓 九巻 七章 P89)

 

3. 霊力を呼び込む方法は

霊力は条件さえ整えば、つまり一かけらの心配の念もなく、知識を基盤とした信仰体験から生まれた確信とがあれば、時として驚異的なことをやってのけます。(霊訓 九巻 二章 P34)
●それ(霊力)を受けいれる能力をお持ちのあなた方に出来ることは、その能力をさらに発達させること、つまり受容能力を増し波長を高めることだけです。それをどれだけ受け入れるかは、あなた方自身の進化と発達の程度によって決まるのです。あなた方を通じて流れる霊力の限界はその受容能力によって決まるのです。あなた方の受容能力が増せば、それだけ多くの霊力があなた方を通して流れ込み、それだけ大きな成果が得られるということです。

(霊訓 九巻 十一章 P170)
●いったん宇宙最大の力(霊力)とのつながりが出来たからには挫折は有り得ないことをご存知ならば、いつも明るく信念と希望に燃えてください。あなたを愛する霊たちがいつでも援助に参ります。(霊訓 十巻 一章 P13)

 

4.内に秘められた霊力

●地上界は争いごとと敵意と不和に満ちあふれております。それでいて一人一人は「平和を!平和を!」と叫び続けております。そうした中で皆さんにお願したいのは、内部に無限の可能性、即ち大霊の力が秘められているという事実を改めて自覚することです。あなた方一人一人が大霊なのです。大霊の無限の霊力が皆さんの内部に秘められているのです。それを呼び覚まして顕現しさえすれば、前途に横たわるいかなる制約も打ち砕いてしまいます。
(シルバーバーチは語る 十七章 P290)
●私が言っているのは、あなた方には大霊が宿っているということ、そしてそれを自覚発現すれば、あらゆる物的なものに超然としていられるということです。それは、今も言った通り「自覚し発現すれば」あらゆる邪悪に抵抗し、あらゆる病気を克服し、あらゆる障害に立ち向かう力となるのです。しかし現実にはそれを活用している人間はほとんどいません。
(シルバーバーチは語る 十五章 P264)
●その秘められた大霊の賜物を思い切って花開かせるのです。皆さんの一人一人が自由に使用できる無限の霊力を秘めた、大霊そのものであることを自覚するのです。そうすれば今ようやく夜明けを迎えんとしている漆黒の地上世界の道具として活躍することができます。
(シルバーバーチは語る 十七章 P290)

 

5.霊力への我々の取るべき態度は

●私がいつも、心配の念を追い払いなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい、神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。

(霊訓 三巻 十一章 P172)
この宇宙で裏切ることのないものは大霊のみです。大霊の霊力を頼りとし、大霊の叡智に導かれ、大霊の愛に支えられている限り、いかなる難問に遭遇しても必ずや解決策を見出すことが出来ます。

(シルバーバーチは語る 十七章 P289)
●あなたに要求されることは、そこまであなたを導いてきた霊力に対する絶対的な忠誠心自信とをもってあなたの責務を全うすること、それだけです。(霊訓 九巻 七章 P94)

霊力とは大霊そのものであるとシルバーバーチはいっている。
また、“とは宇宙の自然法則です。物質世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛、完全なる叡智です。”(霊訓 五巻 九章 P140) 
同様に、“神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。”(霊訓 四巻 一章 P26)ともいっている。
実に神とは霊力そのもので、その働きである愛と叡智に満ちた法則だったのだ。我々はどうしても人間的な神を潜在的にイメージしていて、これにはまったく戸惑い驚いてしまう。

“魂の兵器庫”にある“神の武器”も、霊力の姿・形を変えたものだったのだ。この兵器庫の扉を開くカギは突き詰めると、“本当の自分”は大霊(神)であることを自覚しさえすれば、おのずと霊力も発現してくるといっている。なぜなら大霊(神)=霊力だからだ。発現度はこの自覚度に応じてといってもよいのかもしれない。
ところが残念ながら、自分自身が大霊であるとはなかなか思えない。思えないから発現しないのだ。しかしながら無理もない。毎日、不安・恐怖・心配の連続で、思うようにいかない我が身の人生であり、本能的に悪の心や誘惑が常に優先して発生し、失敗ばかりしているし、能力や力もないと信じ切っているからだ。とても自分が神とは思えない。当然である。顕在意識で意識している仮我と比較しているからである。しかしながら、シルバーバーチは我々の普段感じているこのような条件には一切おかまいなく、“本当の自分”(真我)は神、永遠不滅の霊魂であると断言し、ただその実相に気づいていないだけだ、といっているのだ。ということは、我々自身も霊力そのものだということになる。個性をもって思考する創造的“生命エネルギー”の塊といってもよいのかもしれない。
我々は波長の高い想念の世界と波長の低い物質界を、幽体と肉体を使って波長を切り代え、行ったり来たりしている意志をもった“生命エネルギー”そのものなのだ。心と体を道具として、個性をもった生命エネルギー(霊魂)が霊的成長のため今世に出てきたのだ。今生の本来の目的は、“真の自我”であるこの実相に気づくことだったのだ。

我々一人一人が大霊であるならば、霊力であると同時に、法則でもあるはずだ。だから宇宙の法則、霊的摂理に自らの自由意志で合わせるようにすることが、我々の本来の姿なのだ。
絶対に裏切ることのないこの宇宙の法則(大霊)に自分自身の頼って立つ基盤、土台を築けばよいのだ。では、この宇宙の法則とは一体何だろうか? 真・善・美、“愛と誠と調和”の創造・進化発展である。これに神の一員として寄与することにある。法則に合わすことによって神と一体となれるのだ。その決意さえあれば、次のシルバーバーチの言葉に従えばよい。
“あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。”

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(平成26年4月)

友人の死にあたって(2014.3.30)

一昨日、私もよく知る家内の親友がガンで他界しました。そういえば私は昨年9月に母を見送ってからこの半年間に、毎月のように母を含めごく親しい友人たち計4人を見送ったことになります。
私は今年64歳で、いまだそのような歳ではないと思っておりますが、周りにいまだ若くして他界される方が非常に多いのには驚きます。母以外は全てその原因はガンでした。もちろん例外は多々あるでしょうが、家庭の問題、仕事の問題など理由は様々ですが、私から見て友人達の場合は明らかにストレスがガンの原因でした。近代文明になって生活が非常に便利になり、日本の場合は飢餓もなく、生活を謳歌しているつもりですが、豊かな物質に囲まれていても、決してストレス自体は無くならないようです。世界的に今起こっていることから見ても、物質中心主義社会では死んだら終わりとの考えからエゴが主流となっている社会で、対人関係等のストレスは相変わらずなくならないようです。心の状態の方が物質的な生活環境よりもやはり身体に影響するようで、特に真面目な人ほど、不平不満や怒りの気持ちは毒薬となり、徐々に身体に影響を及ぼすようです。ただ、最低でも4~5年程度の時間を経てガンは徐々に成長するため、何が原因となっていたのか、食品添加物同様、その原因が明確にならないだけです。ガン自体はそれが宿命であったのか、自ら招いたものであったのか個々の事情にもよるのでしょうが、他方、魂、精神、肉体の3つの調和がとれてさえおれば、決して病気にはならないとシルバーバーチはいっております。
真の実在世界である霊界の存在と、本当の自分とは神の分霊であり、永遠不滅の霊魂であるということ、また常に守護霊、指導霊に守られ修行のために物質界に一時的に出てきている、という自覚さえあれば、さまざまなストレスが来てもたちどころに追い払うことができる。しかしながら、この心境に行き着くためには、日常生活で心が物質界と霊界を行ったり来たりを繰り返す数多くの体験や学びが必要となってくるでしょう。でも粘り強く努力を続けていると、必ずそこに行き着くことができる。そうなることを目標として物質界に出て来たのであり、そういう自覚に至ると今生を喜び勇んで卒業することができるとシルバーバーチはいっている。

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(平成26年3月)

魂の兵器庫を開き、神の武器をとりだすとは・・・

 “魂の兵器庫(貯蔵庫)”や“神の武器”に関する記述を霊訓からざっと拾ってみた。

「地上という名の戦場において、魂の兵器庫を開き神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。」

(霊訓 第十二巻 P201)

 

 「地上の人間が内部に霊的な武器を備えていることを実感することができれば、どんなにか充実した生活が送れることでしょうに。それを活用することによって、時には地上的喧騒から身を引いて、冷静さ・落着き・平穏・安らぎに浸ることができるのです。」

(霊訓 第十二巻 P231)

 

 「あなたが霊的存在であるということは、あなたも内部に無限なる宇宙の大霊すなわち神の一部を宿しているということであり、同時に、霊的武器(能力)と霊力を宿しているということです。」

 

 「その絆があるからこそ、叡智真理啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。」 

(霊訓 第十巻 P27)

 

 「となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。その静寂の中で、まわりに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーション叡智知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することができます。その宝は使われるのを待ち受けているのです。」

(霊訓 第四巻 P212)

 

 「どうか私がこれまで述べてきた知識の中から物的生活の背後で働いている霊的活動、あなたの身のまわりにほうはいとして存在する莫大な霊力、あなた方を善のために活用せんとして待ちかまえている霊の存在を認識してください。あなた自身の中に潜在する可能性をしっかりと認識してください。それが自我の霊的本性のもつ莫大な兵器庫魂の宝庫を開くカギとなるからです。神の叡智は無限であること、宇宙の宝物は無尽蔵であるということの意味を、しっかりと理解してください。」

(霊訓 第七巻 P58)

 

 「無限なるその貯蔵庫に納められている全インスピレーション全真理全叡智全摂理全知識は、子等が向上心と謙虚さと奉仕的精神を持ってその道具となることを望みさえすれば、誰にでも手にすることができるものだからです。」

(霊訓 第十巻 P209)

 

 かくして、上記の赤文字に記されていることが実行できれば、内部に潜む莫大な兵器庫を開くカギを得たことになり、霊力(生命エネルギー)叡智(悟り)霊的真理(知識)と高級霊からの高度のインスピレーション(啓示)という神の霊的武器を自由に引き出して使うことができるようになるとシルバーバーチはいっている。

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(平成26年2月)

“天国は心の中にある”とは・・・

 一見判りやすい言葉だが、この言葉を本当に理解している人は少ないだろう。この意味を理解しやすくするために、この対極は“暗黒と冷酷と怒りと憎しみに満ちた世界”である。これは私も含めて利己主義(自己中心主義)と物質中心主義に満ちた今我々が生活している正にこの世界、一人ぼっちの孤独感を感じている世界のことだ。
上記の叡智の言葉でイエス・キリストは天国のある場所は“心”といっているが、シルバーバーチは“魂”といい、また、“深い自我”の中にあるともいっている。この“深い自我”とは普段意識していない“本当の自分”(真我、大我)のことだ。そうすると、天国とは“本当の自分”の中にある世界のことをいっているのであろう。一言でいうと物質界と霊界の違いである。
 “本当の自分”は霊魂、神(大霊)の分霊であるからこそ、神(大霊)が自分に宿っているともいえるのだ。自縛霊の行く世界でさえなければ、霊界はよろこびと幸せの国、叡智と悟りの国、寛容と正義の国である。この霊界には死んでから行くのではなく、我々はすでに今現在も霊魂であるから、肉体で現世に生きながら同時に霊界にも住んでいることになる。霊魂である“本当の自分”は、潜在意識下に押さえこまれているから普段意識していないだけなのだ。これを意識して表に引き出すことによって、霊界の視野から観ると物の見方、視野が180度変わり、神からの遺産である霊力を意識的に使えるように成るのだ。そうなると偶然というものはなく、常に守護霊との二人三脚で、且つ、背後霊に守られ導かれているため、決して一人ぼっちではない。たとえ自らの力はまったくの非力と思えても、宇宙の法則を維持しているのと同じ力、背後霊の力を使用して試練・困難を克服することができるのだ。そう思えるとむやみやたらと取り越し苦労はしなくなるものだ。最善を尽くしてさえおれば、あとは守護霊に全面的に任せればよいのだから。天国は霊魂と霊界を意識する中にある。だからこそ“本当の自分”を知ることが何よりも大切になるのだ。
 こうなると神の兵器庫から高度のインスピレーション、叡智と悟りなど神の武器が得られ、さらには背後霊からの守りと導きへの信頼が強力な担保となって、心配、不安、恐れというバリアーを取り除き、宇宙に遍満存在する霊力(生命エネルギー)が体内に入りやすくなるのである。そのため困難の最中にあっても、心の平安と安らぎを得ることができるのである。但し、この平安は生涯にわたって続くのかといえば、そんなに簡単ではない。
 普通の人間にとって、五感では霊魂は見えないし、感知しえない。たとえ過去に証明された証拠があるといわれても、霊魂や霊界は自らの経験や状況証拠で確信し、信仰、信念化するしかないのだ。だからこそ簡単ではないのだ。
現世での諸問題の解決は“個”(仮我)を超えたところにあるといわれているが、“本当の自分”である神我に気づき、自らの立ち位置を切り替え、仮我を超越した真我に“悟り”の世界、天国があるのだろう。

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(平成26年1月)

試練の意味

 “本当の自分”である霊魂に目覚めるには、試練、困難の経験が必須条件となる。
なぜか? 自分自身も含めてこの世には頼るものがなく、自己放棄するくらいにまで奈落の底に突き落とされない限り、厚い雲のように自己(仮我)が邪魔をしていて、潜在意識の奥深くにある太陽、“本当の自分”(真我)が意識の上に出て来られない、すなわちその存在に気づかないのである。我々は物質界にあって催眠術にかけられ、幻影に惑わされているのだ。
「それぞれの人間の魂は、本来の自分を見いだすために自己を失わなければなりません。自分の力によって力と達成がやってくるという誤った考えを持っている間は、神を見いだすことはできません。」コナン・ドイル“人類へのスーパーメッセージ”P282
物質界に出てくるときは、“もと来たところ”と“本当の自分”は潜在意識の中に敢えて隠されているのだ。霊的成長をするために、一旦すべて白紙になるといってよいのかもしれない。
我々は試練、困難をとおして教育・訓練を受けるためにこの物質界に出てきた。この世はまさに学校である。だから真我に目覚めたからといって、試練・困難が無くなるものではない。さらにより一層成長することが求められているからだ。

 

 我々のいるこの現象界は相対(両極)の世界である。相対の意味するところは、悪がなければ何が善か判らず、暗闇がなければ光の存在が判らない。苦がなければ幸福というものが判らない。憎しみを経験しなければ愛というものが判らない。これらは同等のエネルギーではあるが対極にあり、棒の両端、コインの表裏一体の関係で、片方がなくては存在、認識しえないのである。人間はロボットではないので、ある一定の限度内での自由意志が与えられており、両極のどちら側を選ぶかは選択ができるのである。だから悪の心があるからと言って決して嘆く必要はない。それがなければ人間ではなく成長ができないのだ。そして、自己責任である“原因と結果の法則”により、失敗や苦い経験をとおして霊的成長ができるようになっている。これはまさしく神の愛の法則なのだ。誰かがカルマの身代わりになっていては、本人は成長ができないのだ。

 

 いずれ遅かれ早かれ戻ることになる“もと来たところ”で、充分通用する他界人となり、宇宙の法則である創造進化、発展の仕事に就くために、この世で“本当の自分”に目覚め、できるだけ成長しておく必要があるのだ。いずれバラバラになり元の元素にもどる肉体は、それを使って霊的成長をするためのあくまでも仮の道具であり、本体である“本当の自分”ではないのだ。“本当の自分”、人生の目的とは何であるのかを知らなければならない。たまたま偶然目的もなく物質界に存在しているのではないのだ。

 

 霊的発達程度の異なる人々で構成されたこの現象界では、いろいろな人を通して対極を経験することができ、霊的成長にとって最高の条件がそろっているのだ。
霊性が同じでは、成長は短期間にこうはいかないだろう。

 

 “死んだら全て終わり、無になる”と思っている大多数の人々が生涯をかけて求めてやまない、何の苦労もない太陽がさんさんと照る気楽な人生では、残念ながら“本当の自分”は成長できないようになっている。霊的に喉が渇いたり、お腹が減らないと霊的な食べ物を求めないからだ。日本刀も肉体も鍛えなければ強靭にならないのは自然の理である。従って、霊的知識を知った者には、なおさらより一層成長するために、必ず成長度に応じた試練・困難がやってくる。そうでなければわざわざ今生に出て来る意味が無いのである。

但し、シルバーバーチは常に“取り越し苦労、無用な心配はするな、”と口がすっぱくなるぐらいに繰り返している。我々の感覚では、心配する必要もないようなものは試練・困難とは言わないだろう。では、一体これはどういうことなのだろうか。

 

   霊的法則、霊界からの導きを単なる知識ではなく、本当に真底信じているかどうか、逃げないで真正面から向き合うことによって、実は繰り返し、繰り返し何度も何度も信念(信仰)や忍耐力、寛容性が試されているのである。 そして失敗や苦い経験をとおして背後霊の導き、守り、奇跡的な実体験をつみ、霊的知識が本物の法則であることが身をもって証明され、それが自らの“悟り”となる。この経験を何度も何度も繰り返すことによって、長年積み重ねてきた物質世界が全てという物質中心主義の固定観念を、時間をかけながら薄皮を剥がすように徐々に剥ぎ取り、霊的法則への不動の信念・確信へと置き換わっていくのである。物質界では大きな試練に出合うと、我々は本能的、且つ条件反射的に従来の思考パターンでものごとを考えがちで、真の霊主肉従はそんな簡単に実行できないことを何度も思い知らされる。“本当の自分”は霊魂である、という信念が不動のものになるまでは、取り越し苦労や心配、不安が絶えないであろう。当たり前である。先が見えないのだから。

 

 そしてシルバーバーチは言う。信じ切って霊的に楽観的になりなさい。豊かな人生を享受することができます。何故なら、背負えない試練は決して与えられないから。

 

 さらに、「人間は自分のことが判っておらないのでせっかちになりやすく、常に取り越し苦労、心配、不安をもっている。導きと時期は霊界が決めることで、人間のせっかちは最大の敵です」とも言っている。

 

「霊的知識に信仰を加えなさい。そして任せ切りなさい。」

 

守護霊は決して裏切りません。一人にしません。導きと宇宙最大の力・支援を与えます。

 

 「だから 待つのです。きっとドアは開かれます。閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません。自然に開くのを待つのです。人間側の都合に合わせるわけにはいかないのです。その理由の一つは、人間には自分にとってどうなるのが一ばん良いかが判断できないからです。」
  
  そうなると今を精いっぱい努力して、あとは守護霊の導きにまかせておれば、いづれにしても結果オーライ、自分の霊的成長になるのだから、先の結果が見えているともいえる。今はたとえ解決方法は判らなくても、あとは霊的摂理から外れないように努力することが我々の責務であり、キ-となるのは自分のエゴのためではなく、何事も他人のために良かれと努力することである。我々の問題は今までの世間常識とは真逆の霊的法則を、本当に信じきれるかどうかにかかっている。これが岩のような信念、人生の羅針盤になれば、たとえ試練、困難はあっても常に霊界から見守られた安心感、幸せに満たされた人生を送ることができるようになるのだ。

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(平成25年12月)
このコーナーで“本当の自分”(真我)や、“瞑想”(精神統一)、個的霊の“意識”について述べてきたが、それでは次に顕幽の交信、交霊現象とはどういうもので、本当にあるのでしょうか? 


「あなたは今からすでに霊的存在なのです。私たちの世界に来てはじめて霊性を身につけるのではありません。」
霊訓 九巻 P45


「霊の世界と物質の世界は実は一つの実在の二つの側面なのであり、お互いに影響し合っております。両者は融合し合っていて、はっきりとした境界線というものはないのです。」霊訓 九巻 P235

 

ということは、“本当の自分”は、今意識している物質世界の自分であると同時に、霊的世界にもいま生きている存在なのだ。だから本来、顕幽の交信が今できて当たり前なのだ。但し、他界は“意識、思念の世界”であって、五感で認識できる世界ではない。波長がまったく異なるのだ。

 

―良心の問題ですが、これは純粋に自分自身のものでしょうか、それとも背後霊の影響もあるのでしょうか。―
「あなたがた人間は受信局と送信局を兼ねたような存在です。純粋に自分自身の考えを生み出すことはきわめて稀です。」 霊訓 八巻 P38

 

シルバーバーチは、たまに聞こえてくる“良心の声”は、自分自身からのものは”きわめて稀”、すなわち殆ど無いという。どうも自分自身から来た考えではないようだ。それは誰にでも例外なく備えられている神からの遺産、監視装置(モニター)です、と別の個所でシルバーバーチは言っている。
加えて、自分の考えと思っていても、守護霊や背後霊などの影響が潜在意識に随分と及ぼしていて、その影響を想像以上に受けているようなのだ。但し、人間はロボットや操り人形ではなく自己責任が宇宙の法則、因果律であるので、最終決断は自分自身の意志によってなされているのはいうまでもないが。
つまり、インスピレーションや悟り、閃きなどは自分自身で思いついた考えではなく、守護霊や背後霊からきている叡智であるというのだ。それをもっと積極的に発展的に進めていくと、条件さえ整えば誰でも程度の差はあっても交信ができるようになるのである。それが霊門を開くということなのだろう。理由は簡単。我々も本来が霊的存在であり、今現在も無意識とはいえ霊界に出入りしているのだから。しかしながら、進化した霊と交信するためには、自らの霊性を高めなければ波長の違いで交信ができないのだ。

 

「問題に直面した時はそれをどう処理するかの決断を下さねばなりませんが、そんな時にいちばんお勧めするのは、瞑想状態に入って魂の奥へ引きこもり、神の声に耳を傾けることです。」霊訓 八巻 P220

 

「となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。その静寂の中で、まわりに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することができます。その宝は使われるのを待ち受けているのです。」 霊訓 四巻 P212

 

「形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係―これが最高の交霊現象です。」 霊訓 九巻 P149

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(平成25年11月)

意識について(2013 .11.4)

先日、フランスの救命救急医であるジャン=ジャック・シュルボニエ医師の“「あの世」が存在する7つの理由”(サンマーク出版)という本を読みました。その中に“二度の死”を経験した、2010年に亡くなった53歳の女性の話がでてきます。(P43) 
彼女は亡くなる19年前に脳幹部にできた巨大な腫瘍を摘出するため、全身の体温を15.5℃にまで下げて仮死状態にされ、脳内の血液を全て抜き取って手術したのです。また、眼球の乾燥を防ぐため瞼は絆創膏でふさがれ、耳の聴覚誘発電位は脳波と同じく平坦になっていることを確認されました。もちろん術中は全身麻酔で当然意識はありません。ところが血液を抜かれて脳は全く機能しておらず脳波は平たんであったにもかかわらず、彼女の意識は頭から抜け出し、手術中、上から自分の手術の様子を見ていて、手術中に発生した特殊な事態の看護婦と医師の会話やそのときの動作を克明に覚えていたのです。また、上からのぞかないと絶対にわからない手術用の道具箱の中身まで覚えていたのです。仮死状態ですから、当然手術中のその時、脳波は平たんで神経伝達機能もストップしており、視覚、聴覚も機能していないにもかかわらずです。意識が戻ったのは病室に戻ってからです。
さらに術中、すでに亡くなっていた祖母とも光の中で会っており、戻れなくなるのでそれ以上近づいてはいけないと言われて肉体に無理やり戻されたそうです。
このことから、やはり意識というものは、脳の機能がつくり出しているものではなく、脳はあくまでも送受信器としての肉体に属する道具に過ぎないことが判ります。仮に脳の機能不全から表現として表にうまく現すことができないような状況にあっても、“本当の自分”の意識というものは脳がつくりだすものではなく、脳とは別にあるようです。
シルバーバーチはこの“意識”について、どのように語っているのでしょうか。次にそれを霊訓から見てみましょう。

●霊訓 五巻 P145
霊が意識をもつ個体的存在となるためには物質の世界との接触が必要なのでしょうか。

「そうです。意識を獲得するためには物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。物matterから霊spiritへと進化していくのです。つまり物的身体との結合によって、物的個性を通して自我を表現することが可能となります。霊は物に宿ることによって自我を意識するようになるのです。」

●霊訓 四巻 P154
その潜在意識がどのように使用されているかを聞かれて――

「そのことに関してずいぶん誤解があるようです。精神にはさまざまな機能があります。人間というのは自我意識を表現している存在といってよろしい。意識がすべてです。意識そのものが個としての存在であり、個としての存在は意識のことです。意識のあるところには必ず個としての霊が存在し、個としての霊が存在するところには必ず意識が存在します。」

●霊訓 六巻 P55
「意識をもった存在としての生をうけたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。」

 

どうも我々は宇宙に遍満存在する莫大な霊力、生命エネルギーの海原から波しずくのようにはじけて、物質界に誕生することによって初めて意識を持った個性的霊、すなわち魂になるようです。

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(平成25年10月)

精神統一とは(前回のつづき)
となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。その静寂の中で、まわりに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することができます。その宝は使われるのを待ち受けているのです」『シルバーバーチの霊訓』四巻 P212

ではこのプライベートな静寂、すなわち“頭を空っぽ”にするにはどうすればよいのだろうか。
私が習ったのは、ヨガの哲人 中村天風が開発した「安定打坐法」という方法だ。ブザーを鳴らし、その音に全神経を傾けて聞くようにする(無我一念)。しばらく聞いているとブザーの音が突然遮断され、一瞬頭の中は真っ白、すなわち“頭が空っぽ”になる。この状態を無念無想 (無我無念)といい、この状態が少しでも長く続くように練習するのだ。もう一つの方法としては、凛の鐘の音を聞き、徐々に小さくなり消えていく音を追いかけるのだ(無我一念)。
そうすると音が消えるか消えないかの境目でスーと無念無想になる。この無念無想の状態ができるだけ持続するように練習するのだ。要するに、努めて音を追っかけるようにしているので雑念妄念が入る余地が少なくなり、結果として無我一念になっているのだ。そこから無我無念に誘導するのだ。
但し、言うは易しで、絶対に初めから理想通りに上手くはいかない。ひっきりなしに雑念妄念が出てくる。理由は、過去の嫌なこと、将来の取り越し苦労などを背負ったままでこの状態に入ろうとしているからである。過ぎ去った過去は元に戻せず、将来のことは背後霊にまかせることにして、ただ今、生きていることを喜び感謝すればよい。今あるがままの状態で無我無念に入れは良いのである。必要なことは、一度に一日ずつを生きればよく、“今を精いっぱい生きる”という心境だ。そうなると無我無念に入りやすくなる。
粘り強く努力練習し、この無我無念の状態の感覚、感じを身体でつかむことが、あと後、非常に大切になってくる。どういうことかというと、この感じさえ身体で覚えれば、鐘やブザーがなくても、どんな環境でも瞬時に無我無念の状態に入ることができるように成るのだ。またそうなることを目標とする。その場合、鐘やブザーの代わりに、内耳神経の興奮するジーンという頭の中で響いている“音無き音”を聞き、この無我一念状態に入ってから無我無念に誘導しても良い。この“ジーン”という“音無しの音”は、静かな部屋にいると誰でも聞こえてくる“生理的な耳鳴り”なのである。これを敢えて日中の騒がしい中でも聞きたいときにいつでも聞けるようにするのだ。
私の師匠から教わった方法は、目を閉じ、第三の目(眉毛と眉毛の間)に眼球を寄せるつもりで少し眉毛を持ちあげるのだ。あくまでもつもりで良い。この状態で“ジーン”を聞くようにすれば良い。無理に眼を寄せようとすると、かえって過緊張を生み逆効果になってしまうので注意すること。この第三の目は霊界への窓だそうだ。インドの人々がつけている眉間の黒いマークのところである。 ついでに霊力(プラーナ、ブリル)もここのチャクラから呼吸法で松果体に取り入れるのだと教わりました。この点に関しては、同様のことをシルバーバーチも言っています。(霊訓 六巻 P40)

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(平成25年9月)

西洋でいう瞑想や精神統一、日本でいう坐禅の目的とは・・・                   
浅野和三郎の亡くなられたご子息との霊界通信が述べられている本、「新樹の通信」より、新樹が幽界より現世の母親をとおして、通信してくる中で、このような言葉が述べられている。
「幽界の修行の中心は煎じつめれば、これを精神統一の一語に帰することができるようです。その精神統一の気持ちとは、ひと口に言うと、何も思わない状態です。いくらか眠っているのと似ていますが、ずっと奥の、奥の方で自覚しているようなのが少々睡眠とは違いますね。」

またシルバーバーチも、「心を空にして穏やかな気持ちの中で精神を統一するだけで十分です。その統一状態の中で霊の力が働くのです。そうした静かな精神状態というのが、物的生活に振り回されている騒々しさに一時的なストップをかけることになります。そのわずかな時間を霊性の開拓と、自宅内での霊的存在の認識へ向けたことになります。地上の人間は静かな精神状態をもつことの効用を十分に認識しておりません。私がよく申し上げているように、あなた方にとって無活動の時が私たちにとって活動の時なのです。あなた方が静かに受身の心でじっとしている時が私たちにとって一ばん近づきやすいからです。」
その直前にこうも述べている。「背後霊とのつながりを求め、たとえ表面的には何の反応もなくても、霊的にはかならず何かが起きているものです。」(霊訓 七巻 P101)

私は瞑想法や坐禅などを正式に習ったことはない。但し、ヨガの哲人 中村天風のいう無我一念や無我無念法は、直弟子の恩師から正式に習った経験がある。
いろいろな本を読んでいると、本当の自分(真我)を見つける方法、霊界との通信いわゆるインスピレーションを受ける方法として、共通している点が最近明確になってきた。精神統一とは何か一つのテーマを決めてとことん考え抜くというのではなく、単に頭を空っぽにすることだ。いうのは簡単であるが、雑念妄念でいっぱいで、頭を空っぽ状態で維持することは実は非常に難しい。
「人間が恐れを抱くとまわりの大気を乱す波長を出し、それが援助しようとする霊を近づき難くします。霊的な力が地上において本来の働きをするためには、静かで穏やかな確信――全ての恐怖心が消え、より大きな生命力と調和した光輝が漂い、何が起きようと必ず切り抜けられることを信じ切った、そういう確信が無ければなりません。」(霊訓 二巻 P125)とも述べている。これが本来のあるべき人間の姿であろう。そしてこうなることが、瞑想、精神統一の目的であろう。

我がことに振り返ってみると、ひっきりなしに発生する雑念妄念は、一種の波動となってオーラを乱し、本当の自我の心(良心)や背後霊からの通信を遮断していたのだ。本を読んでいても、他のことを考えていては、たとえ読んでいても本の内容が頭に入ってこないのと同じだ。

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(平成25年8月)

「母の老い、死に面して」(2013.8.4)                   
昨日、90歳の母が“みとり”のため、3ヶ月ぶりに病院から実家に戻ってきた。あと1~2ヶ月だろうと言われた。
今年初めまでは元気だったが、腰の椎間板骨折によって寝たきりになってしまった。加えて誤嚥性肺炎である。口腔内はケアしているが誤嚥性肺炎を繰り返し、その都度抗生物質でたたいては治る、の繰り返しであった。元気なころのリック姿の母が瞼に浮かび、変わり身の激しさに死を迎える老人を感じる。
街を歩くと、若者たちはショートパンツにランニングシャツ姿で、いかにも活力にあふれ元気はつらつで、真夏の夜の花火大会などデートにいそしんでいる。花でいうところの、まさに開きかけの真っ赤なバラの蕾というところだろうか。
しかしながら、今はいかにピチピチギャルでも、誰でも老い、また母のように数十年後には必ず死を迎える。これには一切例外はない。只、普段そんなことはおくびも考えないで過ごしているだけだ。これは決して若者だけに限った話ではない。そんなことは普段考える必要もないとさえいう人もいる。いまが健康で、楽しければよいのだと。人生は大いに楽しまなければならない、が、同時に、人間は肉体を通して自我を表現している霊魂であることに気づかなければならないのだ。
私は街を歩きながら、100年後には今ここを歩いている人は全員例外なく、この地上から消えているなあと時々考えることがある。ひょっとしたら200年後にはこの風景さえもガラッと変わっているかもしれないと思うことがある。それが現実の姿なのだ。ということは、いかに不動のように見えるこの現象界でも、早送りDVDのように時間を早回しすると、本当に移ろいやすい一時の夢、幻の仮相の世界に生きているのだなあと思ってしまう。そうなると今、生きている自分の今生の目的とは、そしてほとんどの時間を費やしている今の仕事の意味、役割など、ついつい考えてしまい、遅々として進まない自分の成長ぶりを省みて、毎日わずかな時間でも疎かにできなくなってくる。

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(平成25年7月)

「真我」(2013.7.2)
“本当の自分”とは一体何だろう。意識している自分は“仮の自分”であって、“本当の自分”(真我)は潜在意識下に埋もれており、もっとはるかに大きな自分であるらしい。
我々にとって一番大切なことは、精神と肉体は道具であって、“本当の自分”、本体は霊魂であると悟ることだと、シルバーバーチはいっている。しかも、神の分霊で神とつながっているという。
永遠の霊的存在である“本当の自分”は、触れることも感じることもできない。これが“本当の自分”だと有限の言葉にして定義することももちろんできない。
しかし、“本当の自分”の心である霊性心、良心の声は誰でも心の耳で聞くことができる。
善の心、悪の心、その両方を持っているのが現象界で修行している我々、人間なのだ。
悪の心があるから私は弱い、ダメな人間だと決して思う必要はない。悪があるから善の大切さが理解できるのだ。暗闇があるから光にあこがれるのだ。悪の心と自覚すること自体が大切なのだ。
このように相対の世界であるこの現象界では、お互いに影響を受けながら、他人に迎合し振り回されて人生を生きている。いわば水平の世界だ。
霊魂である“本当の自分”を顕在意識に意識的に引き出すには、自分の内面の心の動きを分析し、自分自身を深く掘り下げることだ。自分自身の深奥の世界、いわば垂直の世界への探求だ。
常にもう一人の“本当の自分”の心、すなわち良心と意識的に対話し、それに沿って行動するように粘り強く努力すると、“本当の自分”(真我)と“普段の意識している自分”(仮我)が一体化、調和した状態になり、それが身体を通して具体的な行動となってくる。
このような状態になることを、“魂、精神、身体”が三位一体で、調和した状態というのだ。

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(平成25年6月)

私たちは例外なく目に見えない背後霊に支えられ、その影響を強く受けているといわれている。その意味で、“あなたは決して一人ではない”とシルバーバーチもいっている。
しかしながら、“五感の世界が全て”と思い込んでいる身には、また、頭では理解していても五感にどっぷりと漬かっている身には、自分自身の心が思考の全てであって、常に孤独感を感じて生活している。
そのため、“あなたは一人ではない”といわれても、概念あるいは、せいぜい単に影のようにそばにいる程度にしか思っていない。その証拠に、普段、背後霊を意識した生活を決してしてはいない。
しかしここでいう“一人ではない”とは、はたしてその程度のものだろうか。
シルバーバーチや「魂との対話」の著者は、各自の背後霊は具体的にインスピレーションを吹き込み、知恵をさずけ、励まし、鼓舞し、常に導いていると述べている。もちろん最終的にどちらの道を選択するかは、我々自身の自由意志にまかされている。だからこそ、そのカルマは自ら引き受けなければならないのだ。例えばエデンの園のアダムとイブのように、リンゴを食べるか食べないかは本人の問題で、蛇やイブにそそのかされたからと自己弁護を図っても無駄なのだ。
今回強調したいことは、われわれ自身が考えているよりも、無意識にはるかに背後霊の影響を強く受けているということなのだ。但し、死んだら全ては無に帰すと考えていては、この背後霊の影響に注意を向けようがなく、従ってインスピレーションや導きに気づきようもない。偶然が重なったような出来事や、良心の声のように耳元で囁くような声は、誰でも皆経験しているのだが、我の本体は霊であるという自覚がないため常にこれらは無視され続けている。
ならば守護霊に呼びかけてみようではないか。守護霊を意識しさえすれば良いのだ。また、困った時には道を差し示してもらおうではないか。そして、その示された道を踏み出すかどうかは、それを霊界からの導き、サインと気づき、判断するかどうかにかかっている。
“苦難をとおして魂は成長する”といわれるので、茨の道は誰にでもある。そして、守護霊は茨の道を一緒に歩み、克服するための強力な助太刀なのだ。なかには共に霊的成長をしている背後霊もいるそうだ。
“一人ではない”ということは、我々が考えている以上にもっともっと現実的で、視野の広い霊界からの真の強力なパワーがそばにあり、意識的に利用されるのを待っているという意味なのだ。
対価なく、例外なく誰にでも無条件に与えられる宇宙最大の霊的エネルギー、これを恵みと言わずして何と言おうか。

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(平成25年5月)

永遠・不滅の存在である神の分霊が、個別の表現を求めて肉体をもってこの物質界に現れてきたのが私たちで、その目的は現象界でのさまざまな体験をとおして霊的に成長をすることにあるという。しかし、我々は誕生と同時に波動の低い鈍重な肉体でそのことは潜在意識下にかくされるために、肉体と心が自分の全てで死んだら終りだと思い込んでいる。
よくいわれるカルマ、業とは、「原因と結果」の法則、すなわち善因善果、悪因悪果という因果律からきている。その因果律は神の公正として数学的、機械的正確さで働いていて、誰一人決してそれから逃れることはできない。
しかし、頭では理解しているつもりでも、結果が直ぐに出るとは限らず、次の世界でその結果を刈り取ることもあるので、普段そのことを真剣に自覚、意識して行動してはいない。
また、人生の目的である霊的成長は、一回限りの人生ではたかがしれており、何回も再生を繰り返してきているという。しかし、同じパーソナリティー、小我として再生するのではなく、大きな自分、大我の別の一面が再生するので、本当の自分としては再生があるといえるし、自我のパーソナリティーとしては、再生はない、ともいえるので話はややこしくなってくる。
以上纏めると、本当の自分とは五感では感じられない霊魂であり、霊的成長のために何度か物質界に出てきて再生を繰り返している。宇宙の法則である“自分の播いた種は自分で刈り取る”という因果律は、我々の霊的成長を促すためにあり、これは神の愛がその法則の背景にあるのだ。
これらのことが理解できていないと、本当のところは“生きている”とは言えないとシルバーバーチが述べているように、我々は人生の“真の目的”が理解できず、“ああでもない、こうでもない”と毎日現象界に振り回されて右往左往しているのが実情だ。
この理解が本当に自分の信念となったなら、全てにわたって180度、発想の大転換がおこるだろう。が、しかしこの鈍重な物質現象界では、引いては戻す波の繰り返しのように、この自覚はなかなか一気にはいかないものだ。しかし、あきらめずに努力すれば、ふと気づけば大潮になっているのだ。

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(平成25年4月)

同じ二章“苦”の中に、「その摂理に則って生きれば内にも外にも調和と安らぎが得られます。逆らって生きれば内にも外にも不和と混沌が生じます。あなたがた人間は霊的存在です。
これは、誰もがいつの日か直面することになる厳粛な事実です。が、いつの日かではなく今すぐに認めて、これから先の何十年ものムダな困難を省いた方がどれだけ賢明でしょうか。」と書かれてある。
霊的に無知で、地上世界が影の世界だとの認識がなく、これが実在であると思いこんでいると、永遠の視点から全体を観るということができなくなる。
“地上にいるかぎりは相変わらず霊的なバイブレーションよりは物的なバイブレーションの方が感応しやすいものです”、とシルバーバーチも言っているので正直ホッとするが、“物的な世界がすべて”からくる苦痛と涙、流血と悲劇の体験を通じて悟らされるか、他方で永遠不変の神の摂理のなかで悟ることができれば、安らぎと調和が得られるという。

これが事実なら宇宙の法則、摂理の中で悟る方が良いに決まっている。まずはどちらが本当か自ら試して、少しずつでも日々の経験を積んで自ら確認することが、強固な信念化につながるのだろう。

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(平成25年3月)
 シルバーバーチがいうように、悩み、心配、恐怖などのいかなる問題も地上的なもの、物的なもの、といわれればそのとおりであろう。人々が生命を賭して求めてやまないお金、権力、肩書、健康、セックスなど、世間的な心、身体という道具に関わることばかりだ。
 霊訓を読んでいる時には理解したつもりでも、五感の世界にどっぷりとつかっている毎日では、もう一つの世界との関わり、帰るべき故郷のことをすっかりと忘れている自分がいる。
特に、人口の多い東京、大阪のような大都会では、その他大勢の大衆の中に埋もれてしまわずに、世間に少しでも自分の存在を認めさせ、他人の上にたち支配しようと思えば、人より秀でなければならず、どうしてもお金、権力や肩書が必要とついつい思ってしまう。
 恐れは内側の虚しい場所をパワーで満たそうとして、外側にそれを求めようとするのだ。そのために、そのことが一生をかけた努力目標となる。それがいつの間にか人生の目的になってしまうのだ。
多くの人にとって、人生の目的が霊的成長にあることなど、霊魂自体を意識していない中では、全く意味のない、たわごとにしか思えないのではないだろうか。だからこそ、人生に自信を失ったら羅針盤のない、流れに身を任せたさまよい船のようになってしまうのだ。
 しかしながら、五感という感覚・感情のメガネをはずして、もう一つの心の目でよ~く振り返ってみると、自分を取り巻くこの物質界の全ての現象は、自分自身の霊的成長のためにあるのだ、ということに気づかされる。心と身体はそのための用具なのだ。

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(平成25年2月)

JR大阪で乗り降りしているが、人身事故が毎日のように発生していてダイヤが乱れている。また、近隣の尼崎では親族一家多数が保険金目当てで身内に監禁殺害され、取引先のある近くの高校では教師の体罰で高校生が自殺し、学校ではいじめも過激になって来ているようだ。
先日、米国では銃の乱射で学生20数名が射殺されたと報じられていたが、シリアは言うに及ばず、アルジェリアではイスラム過激派のテロ行為で10名の日本人を含む多数の外国人が殺害された。テレビのニュースを見るのが本当につらくなり、最近は見なくなった。
次回のテーマ“質問に答える”にでてくる霊訓からの抜粋の上記シルバーバーチの言葉を、日常生活で果たして意識しているだろうか。現実生活にもどると、霊訓の話はまるでフィクションの別世界のように、知らず知らずの内に頭のスイッチを切り替えていないだろうか。
生命とは、本当の自分とは、地上に生を受けた意味、が今真剣に問われていると思う。

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(平成25年1月)

今日は正月の2日である。久しぶりに一日中自宅に居たが、先週はデリーに仕事で1週間程行っていた。
インドは世界の宗教のるつぼで、インドのガイドブックによると、バラモン教はBC1200年以上も前にインドに侵入してきたアーリア人により成立したインド最古の聖典「ウェーダ」を起源とする多神教である。異邦人が土着民を支配するために僧を頂点とする階級社会をつくったそうだ。
BC500年ごろにはバラモン教の階級制度を否定するジャイナ教や仏教が発生した。
さらにこのバラモン教をベースに、これらの土着信仰をとりこんでAD400年ごろに発展してきたのがヒンズ-教であり、特定の開祖をもたない。
そしてAC1200年ごろ北から侵入してきたイスラム勢力が徐々に力をもってイスラム教が入り、AC1500年ごろ強大なムガール王朝が登場しイスラム支配になると、それに反発抵抗するヒンズー教徒がシク教(男性はターバンを巻いている)をつくり、同時期にキリスト教も英国のインド進出とともに広がった。ナザレのイエスも青年時代インド、エジプトで修業したとの話まであるところをみると、インドはまさに世界の宗教の“るつぼ”、いやルーツといえるのだ。
ついでに、ヨーガ(ヨガ)についてもインターネットで検索してみると、紀元前2500年ごろのインダス文明(インドの西部にある都市遺跡モヘンジョ・ダロ)のころからあったようだ。そして紀元前350年ごろに成立した「ウパニシャッド」(約200以上ある書物の総称で、古ウパニシャッドはバラモンの教典ウェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタともいわれる。) に、最古のヨーガの説明が書かれてあるそうだ。2世紀-4世紀ごろ、サーンキヤ学派の形而上学を理論的な基礎として、その実践方法がパタンジャリによって『ヨーガ・スートラ』としてまとめられ、“解脱”への実践方法として体系づけられた。

 

ヨーガとは心素の働きを止滅することである (『ヨーガ・スートラ』1-2)、
その時、純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる (『ヨーガ・スートラ』1-3)(『魂の科学』参照)

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(平成24年12月)

“汝自身を知れ”といわれるように、“本当の自分”(真の我)を知ることが、人生でもっとも大切といわれている。本当の自分自身が分からなければ、取り越し苦労、不安、恐怖の世界に容易にはまり込んでしまう。ちょうど羅針盤のない船のようだ。
“あなたと私”という分離意識を持っている今の意識している自分は、自我、小我、仮我、偽我、現象我とか、いろいろないわれ方をしているが、どうもこれは大我というはるかに大きな“本当の自分”のごくごく一部であるようだ。
但し、ここでいう“本当の自分”を知るとは、そのような意味ではなく、真我が神我であることを直知することにあるようだ。

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