大阪シルバーバーチの会 亀水忠茂

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(平成24年12月)  “本当の自分”を知るとは

(平成25年12月) 顕幽の交信 
(平成25年11月) 意識について

(平成25年10月) 精神統一とは その二

(平成25年9月)  精神統一とは その一

(平成25年8月)  老い

(平成25年7月)  真我

(平成25年6月)  あなたは一人ではない

(平成25年5月)  本当の自分と人生の目的
(平成25年4月)  霊的なバイブレーションと物的なバイブレーション
(平成25年3月)  霊眼で観察する
(平成25年2月)  テレビニュースを最近は見なくなった
(平成25年1月)  インドは世界の宗教の“るつぼ”

(平成26年12月) 本物の霊能者とは
(平成26年11月) 本物の宝物とは

(平成26年10月) 我は神なり

(平成26年9月)  泰然自若

(平成26年8月)   内外から霊力を引き出すとは

(平成26年7月)   利他とは

(平成26年6月)   背後霊とのコンタクト方法

(平成26年5月)   霊力について
(平成26年4月)   友人の死にあたって
(平成26年3月)   魂の兵器庫を開き、神の武器をとりだすとは

(平成26年2月)   “天国は心の中にある”とは

(平成26年1月)   試練の意味

(平成27年12月) “霊的摂理の普及”

(平成27年11月) “本当の自分”霊魂はなぜ隠されているのでしょうか

(平成27年10月) 幽界の続き

(平成27年9月)   幽界の存在意義と類魂仲間

(平成27年8月)   地上に再生する目的

(平成27年7月)   霊界と物質界

(平成27年6月)   霊こそ実在

(平成27年5月)   霊的成長は孤独
(平成27年4月)   瞑想・精神の統一 その四
(平成27年3月)   瞑想・精神の統一 その三

(平成27年2月)   瞑想・精神の統一 その二

(平成27年1月)   瞑想・精神の統一 その一

(平成28年12月)  霊的知識を正しく理解した人

(平成28年11月)  霊的成長に合わせたより高度な叡智

(平成28年10月)  真の宝”とは、その宝を手に入れる“カギ”とは

(平成28年9月)  困難・試練に際して

(平成28年8月)  道具意識

(平成28年7月)  神は悪や憎しみの中にも存在する

(平成28年6月)  苦難の目的と対処法 その2

(平成28年5月)  苦難の目的と対処法

(平成28年4月)  宇宙の法則への絶対的信頼があれば苦しみを感じなくなる

(平成28年3月)  車窓の景色

(平成28年2月)  心の分類と霊的成長

(平成28年1月)  霊的摂理の実践と信仰

(平成29年4月)  日常的な霊界との交流 その3

(平成29年3月)  日常的な霊界との交流 その2

(平成29年2月)  日常的な霊界との交流 その1

(平成29年1月)  最善を尽くせばそれで良いのです

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(平成28年11月)  霊的成長に合わせたより高度な叡智

(平成28年10月)  真の宝”とは、その宝を手に入れる“カギ”とは

(平成28年8月)  道具意識

(平成28年7月)  神は悪や憎しみの中にも存在する

(平成28年2月)   心の分類と霊的成長

(平成27年8月)   地上に再生する目的

(平成27年5月)   霊的成長は孤独

(平成26年7月)   利他とは

(平成26年1月)   試練の意味

(平成25年5月)  本当の自分と人生の目的

(平成27年11月)  “本当の自分”霊魂はなぜ隠されているのでしょうか

(平成26年10月)  我は神なり

(平成25年7月)   真我

(平成25年5月)   本当の自分と人生の目的

(平成24年12月)  “本当の自分”を知るとは

(平成26年6月)   背後霊とのコンタクト方法 

(平成25年12月) 顕幽の交信

(平成25年6月)  あなたは一人ではない

(平成27年10月) 幽界の続き

(平成27年9月)   幽界の存在意義と類魂仲間

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(平成26年8月)   内外から霊力を引き出すとは

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(平成26年3月)   魂の兵器庫を開き、神の武器をとりだすとは

(平成29年4月)  日常的な霊界との交流 その3

(平成29年3月)  日常的な霊界との交流 その2

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(平成28年1月)  霊的摂理の実践と信仰

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(平成26年7月)   利他とは

(平成26年2月)   “天国は心の中にある”とは

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(平成28年12月)  霊的知識を正しく理解した人

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(平成26年11月) 本物の宝物とは

(平成26年4月)  友人の死にあたって

(平成25年8月)  老い

(平成25年11月) 意識について

(平成25年2月)  テレビニュースを最近は見なくなった

(平成25年1月)  インドは世界の宗教の“るつぼ”

 

(平成29年4月)

日常的な霊界との交流 その3(平成29年4月1日)(瞑想)

―より一層 霊能力を伸ばすための方法―

前回に引き続き、次に“霊の世界との正常な関わり合い”をより高めるための方法について、霊訓を引用してみましょう。

 

―霊媒現象の質を高めるための方法をお教え願えませんか。


“いくらでもあります。たびたび引用句を用いて恐縮ですが、ぴったりの言葉があるので引用させてください。聖書に“まず神の国と義を求めよ。さらばこれらの(世俗的な)こともすべて叶えられるであろう”とあります。優先すべきものを間違わないようにとの戒めです。
霊の道具である霊能者が自分の才能が神聖なものであるとの自覚を得た時から、重大な責任を背負うことになります。まず日常生活において、その才能を傷つけたり汚したりすることのないように心掛けないといけません。
次に、その才能を最高の水準にまで高める努力を真剣に行わないといけません。そのためには手にした(霊的)知識を日常生活の中で実践しないといけません。また瞑想と精神統一を実修しないといけません。同じ道を歩んでいる人たちに教えを請う必要もあるでしょう。
あなたにはその指導がお出来になります。これまでの体験から、とかくはまりがちな落とし穴、困難、誘惑を指摘してあげることができます。そうした中でも一ばん大切なのは、自分の責任の自覚です。神の使者としての、途方もなく大きい責任です
そうした優先すべき事柄をきちんと優先させた生き方をしていれば、あとはおのずと収まります。霊的に正しければ、精神的にも物的にもきちんと整います。その優先順位を間違えたら最期、すべてが狂ってきます。” (古代霊シルバーバーチ 最後の啓示 P169)

 

ここでいう霊媒現象を“霊の世界との正常な関わり合い”と捉えてみると、上記の霊訓が我々にもそっくりそのまま当てはまります。
ここの“まず神の国と義を求めよ”の意味ですが、“神の国”すなわち“天国”は自分自身の心の中にあり、神の分霊である“本当の自分”を見出すこと、霊的自我に目覚めること(霊的覚醒)を意味します。また“神の義”とは霊的真理・摂理のことを意味します。
すなわち霊媒現象の質を高める方法とは、“本当の自分”の自覚とその心である良心・霊性心に従い(霊主肉従の努力)、霊的真理・摂理に順応して生きる(利他愛の実践)ことなのです。

“神の王国は各自の魂の中にあるのです。この事実がなんと理解されていないことでしょう。その深い自我に触れる方法は神の摂理にのっとった生き方に徹することです。しかし、どれほどの人がそういう生き方を心掛けていることでしょう。” (シルバーバーチの霊訓 十二巻 P165)


“生命の基盤である永遠の霊的原理を片時も忘れずに、それと調和して生きるように心掛けなさい。それが、“存在”のより高い次元と調和して生きる者にかならず訪れる冷静さと憩いと落着きと安らぎと内的静寂を確保する道です。” (シルバーバーチの霊訓 十二巻 P157)


以上、ここまで霊の世界との正常な関わり合いの必要性と、その質を高める方法について縷々述べてきました。


それでは次に、視点をもっと広くして霊的視野からそれらの意義・目的を理解し、この地上人生を見つめ直してみたいと思います。


1.我々は誕生前に類魂を代表して今生の使命や目標を定め計画して最も適した時期、国、両親や人生を選び誕生してきた。
⇒英国以外ではシルバーバーチの霊訓全巻が揃っている世界で唯一の国日本に、それも全訳がそろったこの段階で地上生活をするように出生してきた。


2.守護霊(類魂仲間)の導きによってこの度の物質界でシルバーバーチの霊訓に出会い、“本当の自分”が霊魂であることに気づかされた。
⇒霊的覚醒を経て人生の真の目的を知り、霊の道具として我々は霊的真理の普及活動という摂理実践の道を今歩んでいる。


3.他界後には霊界でする仕事が我々を待っており、今の地上人生はそれに備えてのトレーニングの場であるとシルバーバーチは言っている。
⇒霊界では、地上人類救済計画という大事業のために高位霊による大霊団が大々的に組織化されている。

“人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時に、あなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまざまな体験を積むということです。” (シルバーバーチの霊訓 一巻 P45)


4.日本に生まれた真のスピリチュアリストは、シルバーバーチの霊訓を通して霊的知識の学びと、利他愛の実践としての霊的真理普及活動というトレーンングを物質界で積み、死後に我々を待ちうける仕事に備えているのです。すなわち喫緊の課題となっている霊的無知からくる物質界や中間境での深刻な混乱に対峙するべく、霊界が計画している人類救済計画という大事業に少しでもお役にたてるように、いろいろな霊性段階の魂の混在する物質界を今体験しているのです。
新卒の新人としてではなく、利己主義、唯物拝金主義に満ちたこの物質界という最も過酷な最前線で即戦力となるべく霊的真理普及の訓練を積んできた人材として。


“ここにおいでの皆さんの多くはみずから地上への再生を希望し、そして今この仕事にたずさわっておられます。” (シルバーバーチの霊訓 八巻 P27)


類魂仲間を代表して21世紀初頭のこの日本で地上生活を送り、そして誕生前の計画通り無事霊的覚醒をした者は、霊の世界との正常な関り合いを地上で経験するのも、その霊媒現象の質をより高めるのも、実はそれもこれも全ては物質界及び幽界での人類救済活動という“本来の使命”達成のためのプロセスなのです。我々が霊界に戻った時に待ち受けるこの大事業の手助けが少しでもできるように、今から死後の世界の水先案内人として、“途方もなく大きな責任”を地上にある我々日本人スピリチュアリスト一人一人は背負っていることになるのです。決して自分一人のためにシルバーバーチの霊訓を通して霊的知識が授けられているのではないのです。


次回に続く

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(平成29年3月)

日常的な霊界との交流 その2(平成29年3月2日)(瞑想)

精神統一の意義
前回に引き続き、今回は“霊の世界と正常な関わり合いをもつ”ために必要となる“精神の統一”について述べてみます。

 

心を空にして穏やかな気持ちの中で精神を統一するだけで十分です。その統一状態の中で霊の力が働くのです。そうした静かな精神状態というのが、物的生活に振り回されている騒々しさに一時的なストップをかけることになります。そのわずかな時間を霊性の開拓と、自宅内での霊的存在の認識へ向けたことになります。地上の人間は静かな精神状態をもつことの効用を十分に認識しておりません。私がよく申し上げているように、あなた方にとって無活動の時が私たちにとって一ばん近づきやすいからです。” (シルバーバーチの霊訓 七巻 P101)

 

―はじめに―
私たちが瞑想をする目的は、丁度、暴走しだしてコントールがきかなくなった(フリーズした)パソコンのメインスイッチを切ってリセットしなおすようなもので、霊魂と精神と身体の三位一体の調和を取り戻すことにあります。そのための方法が瞑想による“精神の統一”なのです。

 

―精神統一の意義―
“精神の統一”とは、“精神の収束”すなわちコロコロと動き回る心の働きを抑えることです。
この“精神統一”の意味をより理解しやすくするために、それとは真逆のことを考えてみましょう。
人間は消極的な暗示には容易に心が感染しやすく、心配や取り越し苦労、不安などの雑念妄想念が際限なく膨らんで、雑念も含めたこの消極的な観念が頭の中を常に堂々巡りしています。一難去って又一難と次から次にやってくる大小の諸問題に、ひっきりなしに振り回されている精神状態が精神統一(収束)の反対なのです。
丁度、海上が常に荒れている状態と同じで、この迷いやすい性格が自分自身を不明にし、自分を信じる信念がもてなくなる原因なのです。

 

これらの雑念や妄想観念に対して、“精神を統一”するとは具体的にいうと“心を空にする”すなわち意識はあるけれども何も考えない状態、頭の中が空っぽで色のない白紙状態の“無我無念”になることです。これが“受身の姿勢”となることなのです。


精神を鎮め、受容性と協調性に富んだ受身の姿勢を取れば、その霊力がふんだんに流入し、人間だけでなく動物をも治癒させる、その通路となることができます。”(シルバーバーチの霊訓 八巻 P27)

 

“精神の統一”(収束)とは顕在意識上の自我(仮の我)の雑念妄想念が消えた意識状態(空の心)であり、その結果、相対的に潜在意識下に埋もれていた本体である霊的自我、“本当の自分”(真の我)が浮き上がってきます。“仮の我”を“真の我”と同化させるともいえます。本能心や感覚・感情心などのエゴ(自我)の力が弱まって一時的に引っ込み、霊性心(良心)の発現力が増してきて、「自己統御」すなわち道具としての「心身の統一」がやりやすくなってきます。
そうなると、この世で霊的自我に目覚めた自我は、本来の姿であるこの心身統一状態の中で“本当の自分”である霊的自我の心(霊性心)に従い、霊主肉従で生きようとしだします。

 

但し、この瞑想は言うは易く行うは難しで、決して簡単ではありませんが、長期間にわたって努力しこの“精神統一”を習慣化していくと、徐々に雑念妄想念(執着煩悩)が少なくなり、心が凪(なぎ)になって落ちつきだします。そうなると心に余裕が生まれてきて霊的知識に基づいて正しい判断ができるようになり、且つ、今までの自我(利己)の力が弱くなってくるため良心(霊性心)に対しても言い訳をしなくなってきます。すなわち素直になって霊的摂理の実践(利他の実践)がやりやすくなってくるのです。その基盤となるのが盤石不動の真理の上に築き上げた霊的知識なのです。
これは丁度、波立って荒れていた海上が徐々に凪(なぎ)になるのに似ています。
心の曇りの払拭ができると隠されていた太陽や月の光が照りだし、海面はその光を反射しやすくなってきます。内なる太陽である神性(霊性心・良心)が発現しだすのです。そして霊力の流れも良くなり、精妙な叡智のインスピレーションと感応しやすくなってきます。このことを東京シルバーバーチ読書会主催者の須江克則氏は、“錆ついたアンテナを磨く”と表現されておられます。
(参考)「スピリチュアリズム研究ノート」 “瞑想の光と影”
http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/10/post-fd28.html


遠隔治療はなぜ睡眠中に効果的なのか、その理由として相手が寝ている間は頭の中が空っぽ(無意識)状態で、顕在意識の自我(仮の我)が邪魔をしなくなり、スピリット ヒーリングの霊力が流れやすくなるからです。
“たいていの場合、それ(遠隔治療)は患者の睡眠中に行われるのです。その方が患者の霊的身体との接触が容易なのです。” (シルバーバーチの霊訓 七巻 P183)

 

同じ無意識でも精神統一と睡眠との違いは、覚醒しながら意識的に“頭空っぽ”状態にすることが精神統一なのです。(動中静感)
わずかな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることが出来、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。”(シルバーバーチの霊訓 七巻 P198)

 

―瞑想のやり方―

まず五感をとり去ります。すなわち視覚、聴覚を消し、次に頭の中の雑念妄念を消します。慣れていないとこの雑念妄念を消すのはとても難しいことですが・・・。


雑念妄念を消すやり方の一例として、以下の“寸感”に私の方法が書かれてありますので参考にしてください。
  ・精神統一とは   その 一 ~ 二 (H25.9~10)
  ・瞑想・精神の統一 その 一 ~ 四 (H27.1~4)

 

―まとめー

瞑想をすると“精神が統一”され、インスピレーションをとおして叡智や悟りが入りやすくなってきます。当然のことですが、精妙な高位霊と感応するためにはこちらも霊性を高め受容性を増す必要があります。そのためには必ず霊的知識の学びと瞑想は併行して進めなければなりません。これは丁度、知識とその実践の関係にあり、表裏一体でどちらも欠かせませんが、あくまでも瞑想は手段、道具にすぎず、“霊の世界との正常な関わり合い”をもつためには正しい霊的知識がその前提となります。高位霊と低位霊との見分けが必要となってくるからです。

 

以上まとめますと、我々は本来神の分霊としての霊的存在であり、それが今は肉体をとおして自我を表現しているにすぎないとの正しい認識を持った上で、瞑想によって内在している“本当の自分”の心、神性心(霊性心)を引き出し、同時に外部からは守護霊や指導霊のインスピレーションを受信しやすくするのです。
結果として、邪心や妄想念が飛び交っているエゴ丸出しの利己主義、唯物・拝金主義のこの物質界で、霊魂・精神・身体の三位一体が得られ円満な精神と平静な感情を育むことにもなります。
疑念が生じた時は精神を統一して物質界の喧騒から逃れるのです。すると霊的理解が得られます。統一状態が深まれば深まるほど内的な安らぎ、静寂、安心感、決意といったものがふかまり、自分にとって最良のものが授けられるとの確信をもつことができるようになります。”(シルバーバーチの霊訓 十巻 P42)

 

深い瞑想をするには長い期間と訓練という不断の努力、そして意志の力が必要となりますが、他界後、幽界に行っても魂の修行は“精神の統一”から始めることになるそうですので(参照:寸感 “精神統一 その一” 平成25.9)、我々はその修行を瞑想によって既にこの物質界で始めていることになるのです。瞑想を通じて集中力や意志の力を養うのです。

 

―私は精神統一の修行を何年も続けておりますが、どうすればいちばん良いのでしょうか。
(中略)
―大霊と一体になるのは可能なのでしょうか。

 

“基本的には人間は大霊と一体です。霊性においてつながっているという意味です。ですから、心配・不安・悩みといった低級感情を消し、大霊の計らいに絶対的な確信と信念を抱き、世俗の喧騒から遁れて魂の奥に入り、平安と静寂の中に休らい、不屈の精神に燃えることです。
精神を統一するにはいろいろな方法があります。いずれにしても、決して容易ではありません。が、修行の努力は必ず報われます。” (古代霊シルバーバーチ 最後の啓示 P48)

 

次回に続く

 

 

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(平成29年2月)

日常的な霊界との交流 その1(平成29年2月1日)(瞑想)

―全員が霊的存在であり例外なく霊能者―
――ということは、霊的能力は物的身体とは関係ないというわけですね?
“能力そのものは霊に備わったものです。霊の機能といってもよろしい。物的身体にいろいろと機能があるように、霊にも機能があります。
霊視能力というのは、肉体の眼で見るように、霊の眼で見ることです。霊聴能力というのは、肉体の耳で聞くのと同じように、霊の耳で聞くことです。人間は本質的には霊的存在ですから、その意味では人間はみんな潜在的な霊能者であるわけです。
もっとも、能力の顕現の仕方には無限といってもよいほどの形態があります。純粋にスピリチュアル(霊的)といえるものに到達するまでには物的なもの・心霊的なもの・幽的なもの、その他いくつもの段階を経ることになります。” (シルバーバーチの新たなる啓示 P117)

 

霊の力の顕現の仕方が千差万別であるということは、我々一人ひとりも千差万別の霊能者・霊媒となる素質があり、能力に程度の差はあっても決して特殊な才能のある人だけが霊能者・霊媒なのではありません。

 

―霊界とコンタクトをとることの大切さ―
要は地上の人間が霊の世界との正常な関わり合いをもつことが大切なのです。とくに現代のような物質偏重の時代にはそれが必要です。なぜなら、何らかの形で霊の世界と結びつくことによって、援助・導き・霊感・叡智・愛といったものが届けられることになるからです。いったんその霊的関係ができ上がると二度と断絶することはありません。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P111)

 

どうも我々スピリチュアリストといえども、“霊界人と直接コンタクトをとる”というような話をするときは、相手に胡散臭さやオドロオドロしさを感じさせないか等々、正直なところ多少のためらいがあります。オカルトやオーム真理教などの似非宗教に対するアレルギーや警戒心が人々の心の中に強くあるからです。
しかしながら、上記の霊訓で判るように、我々が直接“霊の世界と正常な関わりをもつこと”の大切さをシルバーバーチ自身が明言しています。だからそれが“正常な関わり合い”でさえあれば、霊界人とコンタクトをとることの必要性を時に応じて我々は正々堂々とためらいなく主張してもよいのです。
但し、“正常な関わり合いをもつこと”ということが前提条件であり、そのためには宗教者も含めて霊的知識に無知な今の時代では、シルバーバーチの下ろした霊訓に基づいた正しい霊的知識・法則の学びが必須となります。

 

―嘆かわしいほどの霊的無知―
嘆かわしいほどの無知を考えればそれも止むを得ないことです。すでに役目を終えた肉体の死を大げさに嘆き悲しみ、その肉体から抜け出て元気はつらつとした霊の存在については、毛の先ほどの知識も持ち合わせない―残念ながらそれが地上界の現実です。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P108)

 

残念ながら世の中の大多数の人々、特に宗教を専門職とする人々といえども霊的知識に関しては嘆かわしいほど無知なのです。

 

―霊界の存在と霊的真理を広めること―
“あなたの役目は、霊にかかわる真理を事実に即して披露することです。地上で生活している人に、今そうして生きているそのすぐ身のまわりに、より大きな生命の世界がひしめくように存在していて、それこそが永遠の住処であり、いずれはみんなそこに行くことになるということを教えてあげることです。” (シルバーバーチの新たなる啓示 P112)

 

先に導かれて霊的真理を知った者は、すぐ隣接する霊界の存在と霊界との正常な関わり合いをもつことの大切さを、事実に基づいて人に伝える責任がでてきます。

 

―霊の世界との正常な関わり合いの中で、霊界の宝物庫からいろいろな形の霊力が届けられる
“その大霊の力は、ある時はインスピレーションとなり、ある時は啓示となり、ある時は叡智となり、ある時は真理となって届けられ、またある時は支援の力となり治癒力となって届けられます。” (シルバーバーチの新たなる啓示 P87)

 

ここで判るように、物理的な奇跡的現象を起こすことだけが霊能力ではないのです。

 

次回の“寸感”は、“霊の世界と正常な関わり合いをもつ”ために必要となる手段のお話をいたします。

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(平成29年1月)

最善を尽くせばそれで良いのです(平成28年12月26日)(苦しみ・試練)

―正しい知識を手にしながら相変わらずそれが実行できないのは、どこがいけないのでしょうか?
“それは、まだまだ霊性がひ弱だからです。強健でないからです。”
(シルバーバーチの新たなる啓示 P208)


 “知識には責任が伴います。”(シルバーバーチ不滅の真理 P25)
霊的自覚に至り、霊的知識を知った者には“責任が伴う”とシルバーバーチは言っています。
では、この責任とはいったい何でしょうか?
すぐに頭に上ってくるのは、いまだ知らない人に対する“霊的摂理の普及”という責任です。しかしながら、霊的摂理普及のチャンスは、四六時中常にあるわけではありません。
それももちろんそうですが、ほとんどの時間を費やしている普段の日常生活や仕事場での霊的知識に対する責任のことをいうのです。


私達は常日頃、霊的知識を忘れていて普段は意識していません。すなわち、霊訓を読んでもその時だけの単なる読書であり、その時に読んだ知識はほとんど頭には残っておらず日常の意識には上ってこないのが実情です。その証拠にとても身近な例として“霊的真理を学んだ者は、不安や心配・取り越し苦労はしてはいけません”とシルバーバーチが口を酸っぱくして諌めていても、そんなことにはおかまいなく“のべつ幕無し”に何となく不安や心配、取り越し苦労をよくしているのがそのよい左証です。


日常、試練や困難がさほど無いときは霊的摂理に適って生きていると錯覚しています。
しかし、一旦試練や困難が生じると“これが心配せずにいられるか”とばかりに世間に流されている自分がいます。このときシルバーバーチの霊訓をとるのか、世間一般常識の方を選ぶかの選択に迫られますが、ベテランといえども不安や心配・取り越し苦労が絶えないということは、真底から霊的摂理を信じていない(霊性がひ弱で強健でない)何よりの証拠なのです。


“霊的真理を手にした者が恐れや不安を抱くようなことがあってはなりません”(シルバーバーチの新たなる啓示 P99)という霊訓の知識がありながら、不安や心配・取り越し苦労が絶えないということは、その知識を日常で実践するという“責任”を果たしていないということになるのです。一言でいって信念(信仰)がひ弱なのです。それだけ物質世界の幻影は強烈で我々にとってはリアルだということでもあります。


“真理を手にしたら、その時から、それをいかに使用するかについての責任が問われるということです。霊的真理に目覚め、霊力の働きに得心がいったら、その時から、今日の悩み、明日への不安を抱くことがあってはなりません。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P100)


それでは不安や心配・取り越し苦労の原因となっている“苦しみ・試練”とは一体何なのでしょうか、そのことについて以下に霊訓を抜粋します。


みなさんが遭遇する問題について、私はそのすべてを知っております。とくに何人かの方とは、地上的表現でいう“ずいぶんと永いお付き合い”を続けております。生活上でもいろいろと変化があり、悩みごとや困難、避けられない事態に対処していかれる様子をこの目で拝見してまいりました。ですが、今こうしてお会いしてみて、魂に何一つ傷を負うことなく、そのいずれをも見事に克服してこられたことが分かります。
遭遇する問題の一つひとつを、あなたへの挑戦と受け止めないといけません。障害の一つひとつが挑戦なのです。ハンディキャップの一つひとつが挑戦なのです。地上生活では挑戦すべき課題が次から次へと絶え間なく生じます。しかし、いかに強烈でも、いかに強大でも、あなたの進化を妨げるほどのものは絶対に生じません。大切なのは、それにどう対処するか―その心の姿勢です。
自分の霊性の発達にとって、どういう体験が大切であるかの判断は、あなた方自身にはできません。大きな全体像の中のごく限られた一部しか目に入らないために、あなた方自身が下す判断はどうしても歪められたものとなります。
ですから、体験の価値をうんぬんしていないで、とにかくそれを克服していくのです。きっと克服できます。克服するごとに霊性が強化されていきます。身体は不完全であり、弱さをもっております。あまりのストレスに負けて、体調を崩すことがあるかも知れません。
しかし、あなた方に宿る霊性は大霊の一部なのです。霊は、潜在的には完ぺきです。すべてを克服していく資質を秘めております。その認識のもとに対処すれば、きっと克服できます。
このことを語気を強めて申し上げるのは、それが私たちの教えの中枢だからです。”
(シルバーバーチの新たなる啓示 P74)


以上のことをふまえて、我々のとるべき態度は次の通りです。


“私が同志の方々にいつも申し上げていることは、自分の可能な範囲で最善を尽くすということ、これ以上のことは人間に求められていないということです。
あなたがた地上の人間は、不完全さをたくさん携えた存在であり、その欠点を少しずつ改めていかねばなりません。が、それは長い時間を必要とする仕事であり、たった一回の地上生活で成就できるものではありません。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P95)


そうです。欠点だらけでとても不完全な我々は最善を尽くすだけでよいのです。
人間の視野はきわめて限られております。ですから、背後霊に任せることです。万事うまく行きます。一時的には不遇を忍ばねばならないことがあるかもしれません。しかし最終的には必ずうまく収まります。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P105)


これが霊的摂理であり、高級霊からの約束(契約)なのです。だからこそ、高級霊の守りや導きを信じ、霊性心(道義心・良心)に従いベストを尽くせば、あとは不安や心配・取り越し苦労をする必要はないのです。というか、してはいけないのです。

我々にとってとても身近な問題である悩みや心配、不安が絶えないということは、これらの霊的摂理を知っている者に対してその“責任が真剣に問われている”ことになるのです。

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(平成28年12月)

霊的知識を正しく理解した人(平成28年11月30日)(雑記)

“大切なのは暗闇と難問と混乱に満ちた地上世界にあって、霊的知識を正しく理解した人が一人でも多く輩出して、霊的な灯台となり、暗闇の中にある人の道案内として、真理の光を輝かせてくださることです。
霊的真理を手にした時点で、二つのことが生じます。一つは、霊界との磁気的な連絡ができ、それを通路としてさらに多くの知識とインスピレーションを手にすることができるようになることです。もう一つは、そうした全生命の根元である霊的実在に目覚めたからには、こんどはその恩恵を他の人々に分け与えるために、自分がそのための純粋な通路となるように心がけるべき義務が生じることです。” (シルバーバーチの新たなる啓示 P46)

 

ここでシルバーバーチは“霊的知識を正しく理解した人”は、まず一つ目として霊界との磁気的な連絡ができる“カギ”を手にしたことになり、霊的宝庫から多くの叡智をインスピレーションをとおして引き出すことが出来るといっています。

 

そして二つ目として、霊力の“導管”すなわち霊界からの働きかけの純粋な通路(道具)となるように心がける義務が生じると述べています。自分一人のために霊的叡智があるのではないからです。霊界から観ると地上世界はエゴ丸出しの地獄の様相を呈しています。その漆黒の暗闇の中にあって地獄の苦しみを体験している人に、正しい真理を伝える責務が同時に生じるといっています。

 

この二つのことは表裏一体にあり、知識と実践という切り離せない関係なのです。人に霊的真理を伝えるからさらに多くの叡智が入ってきます。他者に流れていった霊力が“導管”の通りを良くし、さらに多く霊力がインスピレーションとして霊界から流れ込んでくるといってもよいでしょう。

この二つの関係が“真理を正しく理解した人”の共通した特徴となります。
但し、あくまでも霊界の“導管”ですので、霊的能力を自慢したり、霊感ビジネスとして報酬を求めたりすることは間違っているのです。無償で与えられたものは無償で人に分け与えるべきです。それがさらに多く得るための秘訣なのです。人に与えるということはそのおこぼれが自分にも必ずついてまわるのです。そのおこぼれを物質界のお金や権力に換えてはいけないのです。

 

“そこにあなた自身の責任が生じます。真理を手にしたら、その時から、それをいかに使用するかについての責任が問われるということです。霊的真理に目覚め、霊力の働きに得心がいったら、その時から、今日の悩み、明日への不安を抱くことがあってはなりません。”(シルバーバーチの新たなる啓示 P100)

 

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(平成28年11月)

霊的成長に合わせたより高度な叡智(平成28年10月26日)(人生の目的)

私の友人から興味深い話がありました。シルバーバーチの原書の翻訳文が近藤千雄氏のものと、スピリチュアル普及会のものとは異なっている個所があるというものでした。参考までに事例の一つを具体的に取り上げてみましょう。

 

原書と二冊の翻訳本からそれぞれを引用してみました。

 

Children of Evolution:
(I, whom you call Silver Birch, represent only a small portion of the knowledge that belongs to the infinity of the spheres.)
As you grow, other teachers greater than I can use me to impart higher knowledge and wisdom to you. (Teachings of Silver Birch by A.W.Austen P109)

 

第十一章 進化の土壌としての地上生活:
皆さんの成長の度合いがこの私の知識では満足しきれないほどになれば、私に代わって一段と高い界層の霊団が、より高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。(シルバーバーチは語る  P188  近藤千雄訳)

 

第十章 霊的進化の道を歩む神の子供たち:
皆さんがさらに成長すれば、私よりも一段と高い指導霊が、私を使ってより高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。(シルバーバーチの教え 上巻  P163 普及会訳)

 

これは私見ですが、近藤千雄氏はご自身のインスピレーションをとても重視して読者が理解しやすいようにと翻訳されているようで、他方、普及会は複数の人の合意のもとで翻訳されているために、原書にできるだけ忠実な訳となっているように思います。

 

ついでですのでこの霊訓の内容について、私の考えを述べさせていただきます。

シルバーバーチ自らが“神の道具”と呼んでいるように、その霊訓の内容自体はさらにもっと上流の高級霊から降ろされているようです。きっと、シルバーバーチ自身の体験を通して我々に伝える叡智と、シルバーバーチが霊媒となり“導管”となって降ろされる叡智とが霊訓の中には混在しているのだろうと思います。どの霊訓がシルバーバーチ自身のものかは知る由もありませんが、永遠の霊的真理であればどちらでもよいことです。
さらに、これらとは別に読者の霊的成長度に応じて、シルバーバーチの霊訓を使って(use me)降ろされるより高度のインスピレーション(叡智)があるのだろうと思います。

 

このことを具体的に述べますと、霊訓をくり返し読み返すことによって、一見何でもない同じ個所の霊訓でも今までまったく気づかなかった大きな叡智をインスピレーションで受け取ることがあります。すなわち霊的成長度に合わせて、受け取れる段階になったときに始めてより高い叡智のインスピレーションを受け取ることがでるようになります。

 

霊訓を読んでいても、シルバーバーチからくる霊訓の知識と、これとは別にもっと上流の高級霊からくる高い叡智との違いがあっても不思議ではないと考えております。その理由は、同じ霊訓の個所でも我々の理解度の深さ、すなわち霊訓の意味する意味合いの深さが霊的成長度によって異なってくるからです。このことを分かりやすく表現すると、表面づらだけではなく、文章の裏のそのまた裏が読めるようになってくるということです。(ある意味、理解できる段階になるまでそれらはあえて隠されているのかもしれません。) 
“摂理の裏にも摂理があり、またその裏にも摂理がある”とシルバーバーチも霊訓で述べています。例えば、因果律という摂理があり、それは一人ひとりに完全な公正が行きわたるという摂理でもあり、その目的とするところはその因果律を使って霊的に成長することができるという摂理です。そして成長することによって宇宙の進化発展の創造活動に共に参加するという摂理があります。さらに、これら一連の摂理の背後には神の大いなる愛があるという摂理です。

 

また、単に一ヶ所の霊訓の意味合いの深さの違いだけではなく、いろいろな個所で、一見別々のように語られていることが、実は全てが一つのものに集約され大きな叡智に繋がるということもあります。それら一連の個所に出会うのも、また気づくのも霊界からの導きやインスピレーションの為せる技です。

霊界人とのコミューンが進むと、こういうこともできるようになってきます。このことが正に無尽蔵の霊的叡智の兵器庫を開く“カギ”をまずは手に入れたということになるのです。何せ“あなた方が地上で手にする(霊的)知識は死後に待ち受けている膨大な(霊的)知識の宝にくらべれば、そのホンの上っつらを引っかいた程度にすぎません”(十二)P163 のですから。

 

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 (平成28年10月)

真の宝”とは、その宝を手に入れる“カギ”とは(平成28年9月30日)(人生の目的)

(七)はシルバーバーチの霊訓の七巻です

先月使用したテキストにはとても大切なことが含まれておりますので、一部修正して今月の“寸感”といたしました。

 

“いつも申し上げておりますように、あなた方はそれぞれに無限の可能性を秘めたなのです。宇宙を創造した力と本質的に同じものが各自に宿っているのです。
その潜在力を開発する方法を会得さえすれば、内在する霊的な貯えを呼び覚ます方法を会得さえすれば、霊力の貯水池から吸い上げることができるようになりさえすれば、恐怖の迫った状態でも泰然としていられるようになります。
人生の旅においてあなたを悩ますあらゆる問題を克服していく手段は全部そろっているのです。それがあなたの内部に宿っているのです。イエスはそれを“神の御国は汝の中にある”と言いました。神の御国とはその無限の霊的貯蔵庫のことです。自己開発によってそれを我がものとすることができると言っているのです。開発すればするほど、ますます多くのが永久に自分のものとなるのです。もしも私の説く訓えがラクなことばかりであれば、それは人生には発展と進化のチャンスがないことを意味します。人生には無数の困難があります。だからこそ完全に向けてのチャンスが無数にあることになるのです。” (七)P75 

 

Ⅰ)ここでいう宝とは? 
そのヒントとなる言葉が下記の霊訓に述べられています。

 

“どうか私がこれまで述べてきた知識の中から物的生活の背後で働いている霊的活動、あなたの身のまわりにほうはいとして存在する莫大な霊力、あなた方を善のために活用せんとして待ちかまえている霊の存在を認識してくださいあなた自身の中に潜在する可能性をしっかりと認識してください。それが自我の霊的本性のもつ莫大な兵器庫魂の宝庫を開くカギとなるからです。神の叡智は無限であるということ、宇宙の宝物は無尽蔵であるということの意味を、しっかりと理解してください。” (七) P58

 

知識こそすべての者が所有すべきです。” (七)P50

 

“私たちの勢力は、生命が永遠であること、人間は例外なく死後も生き続けること、愛に死はなく、死者への哀悼は無用であること、そして宇宙には誰にでも分け隔てなく与えられる無限の霊的叡智と愛とインスピレーションの泉があることを教えたくて戻ってくる男女によって編成されているのです。” (七)P117

 

ここでは“神の叡智”という無尽蔵の“宝物”が兵器庫(魂の宝庫)にたくわえられていると書かれてあります。兵器庫にある“宝”とは霊的成長に直結する“霊的叡智”、“愛”、“インスピレーション”のことなのです。

 

Ⅱ)では、その“真の宝”を入手する方法、“カギ”とは? 
前記の霊訓の三通りの方法や魂の宝庫を開く“カギ”とは、具体的にどのようなことを示しているのでしょうか? その解は次の霊訓に書かれているようです。

 

“人類の大半を占める人たちがまだ霊的なものを求める段階まで達しておりません。言いかえれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです。” (七)P30 

 

“霊界には、いついかなる時も、インスピレーションによる指導と鼓舞の手段を用意した霊の大軍が控えております。真剣に求めてしかも何一つ手にすることが出来ないということは絶対にありません。求める者にはかならず救助と援助と指導とが与えられます。かって地上のためにこれほど大規模な活動が行われたことはありません。真摯に求める者のために生きた真理の水を用意し、叡智に満ちた驚異的現象を用意し、霊の貯蔵庫が無尽蔵であること、いかなる要求にも応えられること、誰であろうと、どこにいようと、その恩恵にあずかることができることを知っていただく態勢ができております。
生まれや地位、身分、職業、民族、国家の別は関係ありません。また仕事で地下に潜っていても、海洋へ出ていても、空を飛んでいても、あるいは列車に乗っていても、船に乗っていても、工場で働いている時も事務所で働いている時も、お店でお客の相手をしている時も、あるいは家で家事にたずさわっている時も、つねに霊の力の恩恵にあずかることができるのです。霊的貯蔵庫との波長がうまく調和しさえすれば、その恩恵にあずかることができます。各自がもつ受容能力に似合った分だけを授かります。何とすばらしい真理でしょう。それなのになお地上にはそれを否定する人がいます。” (七)P113

 

霊界からの声と力による導きと援助を素直に受け入れるようになりさえすれば、さほど大変なことではありません。” (七)P63

 

これらの霊訓から推測すると、神から与えられた霊的資質(霊体が有する能力)である“霊的波長を感受する能力”“高感度の波長を感じ取る”ことこそが“魂の宝庫を開くカギ”となるようです。
霊交、すなわち霊界の守護霊や指導霊と常にコンタクトをとることなのです。私たちの本体は霊であり、物質界に生きていると同時に霊界にも生きているからこそ可能になるのですが、神から与えられたこの霊的資質、すなわち交霊能力があることに気づいていないので使いようがないのです。まさに宝の持ち腐れです。

 

“地上の人々が霊的な摂理を理解し、内部に具わっている霊的資質が自然に発揮されるような自然な生活を送れば、二つの世界の間にかかっているベールが突き破られ、すべての障害が撤去されることでしょう。その障害はことごとく人間の無知と迷信と偏見とによってこしらえられたものばかりなのです。言うなれば闇の勢力です。ぜひとも打ち破って、愛と力と導きと光明がふんだんに地上へ届けられるようにしなければなりません。” (七)P87

 

霊交ほど強い味方はありません。物質の目で観るよりも確だからです。これがM・H・テスターのいう霊人とのコミューンという意味です(平成26年6月の寸感“背後霊とのコンタクト方法について”参照)。
では、どのようにすればコミューンが可能となるのでしょうか。それには霊的知識に基いて、祈りと瞑想で心を空にし、できるだけ磨きのかかった鏡面のごとく精神を統一することです。

 

―まとめ―
私たちは“シルバーバーチの霊訓”を通して霊的知識を常日頃学んでおりますが、例外なく日常生活や仕事の場でさまざまな試練や困難、喧騒に遭遇します。困難に遭遇すると祈りや瞑想をとおして心を開き、守護霊や指導霊からの“導き”を求めるようになりますが、そうするとふとした時にインスピレーションや霊的知識が生きた言葉となって入ってきて、励ましを受け勇気づけられて試練の真の意味を理解することができるようになります。きっとそういう経験をすでに何度もお持ちのことだろうと思います。

 

このように普段、霊的知識として学んでいることが背後霊の導きやインスピレーションにより、実体験をとおして“悟り”や“叡智”となって初めて霊的知識が身につくのです。単に知識として知っているだけでは絶対にダメで、実際に適用しなければそれは単なるフィクションの世界にとどまってしまうことになるのです。持っているだけではダメで、実際に使わないと生きてこないのです。霊的知識を日常生活に適用し実践すること、すなわち実際に食べてみて咀嚼し、始めて血となり肉となって、永遠の実在である“叡智”や“悟り”となり身につくのです。このように物質界はさまざまな経験や失敗を通して霊的知識を学ぶ場所ともいいかえることが出来ます。だからこそ人生には無数の困難があり、実体験を通して霊的叡智を身につけるチャンスが無数にあるのです。そして霊的叡智や悟りによって霊的成長をするためには、守護霊や指導霊からの繊細な波長をインスピレーションとして感じとる霊交能力がその“カギ”となるのです。

 

“ご自分の経験から得られる叡智を道しるべとする――これが一ばんです。人間を導く上で私たちはそれを一ばんの拠りどころとしています。だからこそ説得力があるのです。” (七) P56

 

平凡な日常生活の中で培われた霊的資質(霊的叡智・悟り)こそあなたの永遠の財産となるのです。” (十二)P33

 

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(平成28年9月)

困難・試練に際して(平成28年8月14日)(苦しみ・試練)

(七)はシルバーバーチの霊訓の七巻です

“人生には無数の困難があります。だからこそ完全に向けてのチャンスが無数にあることになるのです。” (七)P75

 

右に行けばよいのか、左に行けばよいのか判断にとても迷うことが多々あります。
世のため人のためによかれと思って行動する場合ですら、同じような困難に遭遇します。そのような場合、私たちは守護霊に道の選択を誤らないように、霊界からの“導き”を心底から祈ります。祈った後、良心の咎めもなく純粋に人のためと思って行動していても、残念ながらその行動が誤解を受け非難を浴びたり、蔑まれたりすることがあります。場合によれば、問題をかえって複雑にしたり、仇になることもあります。その場合、とても反省し行動を起こしたことを後悔するものです。何もしなかった方が信用や面目を失わなかったかもしれず、とても残念に思い後悔いたします。
人のために良かれと思ってしたことが思うようにいかないと、守護霊に“導き”を真剣に頼み全託して道を選んだことはすっかり忘れて、判断を間違ったのではないかとくよくよとするものです。“不動の信念”どころではありません。
うまくいったら守護霊に感謝し、失敗すれば(思惑と異なると)自分の判断の誤りや軽はずみな行動をとても悔やみます。しかしながらよくよく考えてみると、これは守護霊に対してとても失礼なことなのです。守護霊の“導き”を本当は信じていなかったことの裏返しなのです。
この現象世界で我々が物質的な視点で物事を観察していることと、霊界から永遠の視点で物事を観察しているのとでは、同じ現象でも全く真逆の捉え方をしているそうです。
残念ながら当事者である本人にはそれが見えませんし、想像すら出来ません。過去になって振り返ってみて初めて“導き”や“結果”が我々に観えるようになります。時間軸の長さが違うからです。

 

“求めつづけるのです。きっと与えられます。要求が拒絶されることはけっしてありません。ただし、解答はかならずしもあなたが期待したとおりのものであるとはかぎりません。あなたの成長にとって最善のものが与えられます。” (七)P34

 

“いかなる問題においても、私たちは決して地上的観点から物ごとを見ないということ、地上的尺度で判断しないということ、人間的な憎しみや激情には絶対に巻き込まれないということ、往々にして人間の判断力を曇らせている近視眼的無分別に振り回されることはないということを忘れないでください。さらに大切なこととして、いま定住している霊的世界における神の摂理の働きを体験してきた私たちは、地上の人間を悩ませる問題を人間自身の受け止め方とは違った受け止め方をしていること、あなた方と同じ視野で捉えていないということを知ってください。以上の大切な前置きを大前提として申し上げますが、そうした問題において何よりもまず第一に考慮すべきことは“動機”です。” (七)P59

 

ですから我々スピリチュアリストは、皆と同じ目線で同じように物ごとの結果を眺めていてはダメなのです。たとえ思惑とは異なった一見悪い方向に進んでいようとも、それが“導き”なのです。だからこそたとえ非難を受けようとも、“動機”が大切であり原因としての利他行為は必ず良き結果になるとの、とても強い信仰や信念が必要となります。

 

絶対的な忠誠心と堅忍不抜の献身的精神をもって臨めば、必ずや勝利を手にすることが出来ることを私たちがお約束します。” (七)P53

 

思惑とは違った逆風が吹いてきた時に、そのように考えることは非常に困難であり、容易ではないとシルバーバーチ自身も認めています。が、真のスピリチュアリストはそのことを実体験を通して真剣に“悟る”必要があるのです。とても辛いことですが・・・。

 

大変大切なことですので繰り返しますが、たとえ人との問題や誤解を受けようとも、それも霊界は十分承知の上での“導き”なのです。目的は唯一つ、私たちの霊的成長のためなのです。物的視野で見ず、霊界に行ったつもりで霊界からの視点で観察することです。刹那的な視点(水平軸)からか、永遠の視点(垂直軸)からかの違いです。その真の目的に自分自身も含めて周りの者誰一人気づいていないだけなのです。
逆境の中にあっても決して一人ではなく、霊界から常に見つめられ、見守られ導かれているのです。
“どこにいても、まわりには物的束縛から解放された先輩霊の一大軍勢が待機し、地上へ働きかけるための手段を求めて常時見張りを続けており・・・” (七)P46

 

ついては、お互い次のことを忘れないようにしたいものです。

 

困難や試練に際して、“動機”が良心に恥じない利他の行為であり、全託の“導き”を守護霊に祈ったあとは、結果として非難され逆風が吹いても、物的視野でその現象を捉えず、あくまでも守護霊の“導き”を固く信じ、必ず試練は克服できるという高級霊の約束を信じ、克服するまで“不動の信念”を持ち続けること。

 

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(平成28年8月)

道具意識(平成28年7月28日)(その他)

一般的に人間のことを“道具”というのは、まるで人間性を否定しているようで、違和感を覚えるのは至極当然だと思います。一体、“道具”という日本語訳に対して、シルバーバーチはどのような言葉を使っていたのでしょうか?
何冊かの霊訓の本を調べてみますと、この本文の最後に引用していますように、“INSTRUMENTS”(インスツルメント)という言葉が基本的には用いられていました。この“INSTRUMENTS”は“TOOL”よりも精密な学術的研究に使う道具や器具のことを示す他に、楽器や人の手先、媒介者という意味もあります。ただ中には“ARMS”(腕)という表現や、さらには原典にはなくても近藤氏ご本人のご判断で“道具”という言葉を用いて翻訳されている箇所もありました。

 

私の趣味は同じ骨董でも高価な美術品の収集ではなく、江戸時代から明治初期につくられた古民芸品を中心とした骨董の収集です。そして簡単な修理や復元が得意でもありますので、古くなったものを蘇らすのに一種の喜びさえ覚えております。
皮の張替、ペンキのはがれや、釘打ち、陶磁器の割れなど千差万別の修理が伴いますが、その時にとても重宝するのは、やはり何といってもそれぞれの修理用途に最も適した道具や材料です。本当にいろいろな用途向けに道具や材料が開発されております。各種塗装剤や接着剤も一種の補修道具です。もしも道具や修復材料が悪ければ修理には時間がかかり、また大概失敗するか、きれいな仕上がりにはなりません。

 

私は本来が歯科医でもありますので、細かな作業や修復が得意なのは職業柄あたりまえですが、その時にも治療の成否を左右するものはインスツルメントなどの器具や歯科材料です。それぞれの用途に合わせて専用に開発されております。このことは道具を普段使う習慣の無い方にはピンとこない話だと思いますが、各用途に適した道具の有無が、いかに修復の成否を左右する条件であるかを普段身にしみて感じております。

 

人間には個性があって多様性で、霊言霊媒に向いていたりスピリチュアルヒーラーに向いていたりとそれぞれ得手不得手があります。それぞれの用途で最大限の力が発揮できるような専用の道具(インスツルメント)という表現は、文字ずらではなく実質という意味では、正に言い得て余りあると感じております。ドライバー一本で全てをカバーすることは絶対にできないのですから。多分、オーケストラのようにそれぞれの特性を生かしお互いが協力しあって、全体として創造・進化発展に寄与するように人類もなっているのでしょう。

 

霊媒現象は基本的には自我を滅却し、できるだけ純粋に霊力の通路に徹することが必要となります。すなわち、万能で千変万化に変化する霊力の流れる“導管”となるのです。道具というものは使う人がいて始めて生きてきます。当然ですが、道具自体が意思をもって勝手に動き出すのではありません。その“道具”あるいは楽器を使う人が別にいるということです。我々が協力者となって自主的にわが身を提供し導管となることによって、物質界では霊界人が我々をとおして用途に応じた霊力をはじめて流すことができるのです。まさにスピリチュアルヒーリングと原理はまったく同じです。善霊による憑依現象の裏返しであって、本人の同意があるかどうかの違いだけです。

 

“われわれは、われわれの一人ひとりを使用せんとするより大きくより高い存在の道具であることを忘れないようにしましょう。言わば“導管”のようなものであり、それを通して慰安の芳香が送り込まれ、地上の悲しみを癒します。無限の目的をもった霊力が存在し、それには人間が直面するいかなる問題をも解決する力が秘められていることを忘れないようにいたしましょう。” 

シルバーバーチの霊訓(十二)P173

 

“道具”という表現は各種用途に最も適した霊力の流れるこの“導管”のことを指しているのです。シルバーバーチ自身も自分のことを大霊の道具、代弁者(マウスピース)といっています。
多くの人は気づいておりませんが、生命エネルギーが神より与えられているからこそ我々は生かされ活動ができているので、さらにはインスピレーションを受けて霊的真理の普及活動や利他への奉仕も行えるのです。厳密にいうと、それらは自らの力によるひらめきや能力・才能、活動ではないのです。

 

“魂を鼓舞する力は霊界から送られているのです。すべてのインスピレーションの始源はこちらにあるのです。”

 シルバーバーチの霊訓(十二)P48

 

この“道具”と言われて強く反発や抵抗を覚えるうちは、いまだ自らの力で何ごとも成すのだと考えているからであり、これでは霊力の通路として霊界の“良き道具”にはなれないでしょう。無意識に自我が前面に出て来て邪魔をし、自分の成果だと勘違いするからです。スピリチュアルなものに対価を求めたり、奢り、傲慢な霊能者が多いのはそのためです。無償で通過したものは無償で分け与えるべきです。“良き道具”として働く者には、生活の糧は他からいくらでも得ることができるように支援されます。

 

“忘れないでいただきたいのは、皆さん方のような地上での道具(arms)がなくては、わたしたちも何も為し得ないということです。皆さんはわたしたちに闘いのための武具を提供してくださっているようなものです。皆さんの力をお借りする以外に地上には頼りにすべき手だてがないのです。喜んでわたしたちに身をゆだねてくださる人以外に、道具(instruments)とすべきものがないのです。その道具が多すぎて困るということは決してありません。こちらの世界では、使用に耐えられる人物の出現を今か今かと待ちうけている霊がいくらでもいるのです。わたしたちの方から皆さんを待ち望んでいるのです。皆さんがわたしたちを待ち望んでいるのではありません。
地上への降下を待ち望んでいる霊力には、その表現形式が無限にあります。種類も様式もおびただしい数があり、さらには、用意された通路に合わせて形態を変えます。
もっともっと多くの人材――これがわたしたちの大きな叫びです。いつでも自我を滅却する用意のできた、勇気と誠意と率直さにあふれた男女――霊力がふんだんに地上世界へ降下して人生を大霊の意図された通りに豊かさと美しさと光輝にあふれたものにするためならいかなる犠牲をも厭わない人材がほしいのです。 
わたしたちの仕事は、人生意気に感ず、の気概なくしては出来ない仕事です。その仕事の尊厳に誇りを覚えて全身全霊を打ち込むようでなくては成就できません。”

「シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ」 P115

 

“ひたすら人の幸せを願い、少しでも霊的資質を発揮する生活を心掛け、いつでも霊力の通路として使用してもらえる態勢を整えておけば、それでよいのです。”

シルバーバーチの霊訓(十二) P183

 

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平成28年7月)

神は悪や憎しみの中にも存在する(平成28年6月27日)(その他)

シルバーバーチの霊訓(五巻)第九章 “神は愛の中にも憎しみの中にも”より

 

―神は悪や憎しみの中にも宿る― という、一見すると理解に苦しむようなことについて、霊訓を引用して考えてみたいと思います。

 

―根源的素材である霊が自我を持つには、物質の世界で肉体に宿る必要があるー
●「霊が意識をもつ個的存在となるためには物質の世界との接触が必要なのでしょうか。」

 

“そうです。意識を獲得するためには物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。物から霊へと進化していくのです。つまり物的身体との結合によって、物的個性を通して自我を表現することが可能となります。霊は物に宿ることによって自我を意識 するのです。” P145

 

●“種子が暗い土中に植え込まれるのは、生命活動を開始するための養分を摂取するためです。人間の魂も同じです。死後に始まる本当の生命活動にそなえて物的体験という魂の養分を摂取するために、この地上という物的世界へ送られるのです。” (十二巻) P150

 

●“霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根元的素材です。生命の息吹きです。それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。” P147

 

―悪がなければ善もないー
●“神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではラチがあきません。では、その悪魔はだれがこしらえたのかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます。” 

 

「悪魔はキリスト教が生み出したのでしょうか?」

 

“そうです。自分たちからみて悪と思えるものを何とか片付けるためにはそういうものを発明しなければならなかったのです。
悪も進化の過程の一翼を担っております。改善と成長―絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。人間にとって悪と思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。痛みがなければ健康に注意させる警告がないことになります。暗闇がなければ光もありません。悪がなければ善もありません。地上にもし悪が存在しなければ、何を基準に善を判断するのでしょうか。改めるべき間違い、闘うべき不正が存在しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう。” P154

 

●「愛の神が人間の最低の感情である憎しみの中にも存在するということが理解できないのですが・・・」

 

それは今だに神というものを人間的存在と考える概念から抜け切っていないからです。神とは法則なのです。法則がすべてのものを維持し保持し顕現させているのです。神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。” P150

 

―人間には自由意志があり、向上することも堕落することも選ぶことができるー
●“私は悪とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです。/悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。” P152

 

―霊的成長は善と悪の対比の中で行われるー
●“人生は一本調子ではありません。光と陰、晴天と嵐、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、美と醜、善と悪の双方が揃わなくてはなりません。人生はそうした比較対照を通じてのみ理解できるものだからです。奮闘を通じて、逆境の克服を通じてはじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能性が発揮されるのです。そういう摂理になっているのです。(中略)人間的存在としての神は人間がこしらえた概念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。” P155

 

―まとめ―

●肉体は滅んでも個性をもった霊魂は不滅で死なない。人間は神の分霊であり、神との絆は絶対に切れない関係にある。いかなることがあろうとも、実在である霊魂の消滅はありえないのだ。

 

●因果律は宇宙の法則であり、そこには神の絶対的な公平が働いており、償いや更正のチャンスがある。

 

●未熟な本能心(利己心)から神性の霊性心(利他心)へと、人間は神を目指して進化向上・霊的成長をするようになっている。

 

●対極にある“善と悪”は、不完全な霊魂が完全である神を目指して成長するための手段・道具としての働きをしている。

 

●内なる世界、人間の心の中に“善と悪”(霊性心と本能心)が存在する。そして外の世界にみられる“善と悪”はその内なる世界の反映なのだ。

この内なる世界が“善と悪”に“支配された状態”とは、用具である肉体に本体である霊が支配されている状態、すなわち物質中心の拝金主義、利己主義の「肉主霊従」の生活を送ることにある。
他方、神のごとく“善と悪”を“僕”にするとは、主人である霊(真我)が肉体を僕にして霊中心の利他主義、すなわち「霊主肉従」で生きている状態のことをいう。

 

“(第二次世界大戦は)言いかえれば人間の霊性のすばらしさを見せると同時に、堕落したときの極悪非道ぶりも見せつけたのです。しかし、いずれも同じ人間のしたことです。霊と肉の両極から成り立っている存在だからです。そのどちらがより強く人間を操るかによって生じる差にすぎません。霊の道を選ぶか、それとも肉の道を選ぶかの差です。”

シルバーバーチの霊訓(七) P43

 

“霊優位性の自覚にもとづく修養的生活、これが最高の生き方です。”

シルバーバーチの霊訓 「地上人類への最高の福音」 P243

 


 

(平成28年6月)

苦難の目的と対処法 その2(平成28年5月29日)(その他)

困難に伴う取り越し苦労や心配、不安は常につきまとっています。それはある意味、霊的摂理に対する信仰(信念)の深さと比例しているともいえます。程度の差はあっても常に大なり小なり例外なく普通にあります。だからこそ霊訓で何度もその話が出て来るのです。ですから常に心配、不安があるから私はダメなのだと決して卑下することはないのです。それが当たり前、普通だからです。逆にいうと、特殊な悟り切った人以外、困難に伴う取り越し苦労や心配、不安がまったく無いという方は、今以上に成長ができないということを意味しております。筋肉だって鍛えないと弱くなるのと同じことです。

 

“地上生活の悩みごとから逃れることはできません。必ず生じるものです。それなしには目的地にたどり着けない、踏み石のようなものです。人生の嵐を一つ一つ切り抜けていくうちに霊性が強化され、性格が高尚さを増してまいります。困難こそ霊的な力と成長を身につけさせてくれるのです。ですから、困難にしりごみしてはなりません。内部から引き出す力と、外部から引き寄せる力とによって克服していくべき挑戦課題として、堂々と受け入れていくことです。” (十二)P71

 

いつもそうですが、“寸感”に書いたことは、真っ先に自分自身に突き付けられます。それを学ぶための試練がその後に続いて必ずやってくるからです。学習と実習のようなものです。“情けは人のためならず”とは、このことをいうのでしょう。
今回の“取り越し苦労”に関する私の一連の“寸感”の内容も、真っ先に自分自身に突き付けられた課題なのです。まずは自らそれを学べと正に守護霊から突きつけられた“信仰”を学ぶ宿題なのです。励ましの言葉もそうです。

 

より高みに引き上げるために、霊的成長に合わせた形でこれからもおそらく常に試練はやって来るでしょう。が、誰にでも容易にクリアできるような試練や困難では意味がないのです。困難の経験は霊的成長に必要であるからこそ、生涯続くのだろうと思います。この霊的成長こそ、類魂を代表して物質界に出生してきた今生の目的だからです。

 

ただそんな中でも、霊的摂理に沿って少しでも“安心立命の境地”に近づけるように目指すべきであり、また神からの遺産として、“霊の力”を少しでも自由に扱われるように霊的に成長すべきだろうと思います。そうなって初めて良き霊界の使者として優れた働きができるのではないかと思っております。
そのためには、困難に伴う取り越し苦労や心配、不安、それに対応して霊的摂理への信仰という、繰り返し数多くの克服体験が時間をかけて求められることになります。その結果として、奇跡的な過去の困難克服の道のりが、霊界からの導きの動かぬ事実・証拠、知識となって信念化してきます。これこそが“事実を根拠とした信仰、つまり、かくかくしかじかの事実がある以上はそう信じてもよいはずだという論拠をもった信仰”(十一)P136 につながるのでしょう。

 

それでは次に、先月の寸感から“苦難の目的と対処法”を私なりに整理してみたいと思います。
(カッコ内の番号はシルバーバーチの霊訓の巻番号です)

 

宇宙には神の莫大な宝の貯蔵庫がある。(七)P16

 

⇒ その宝物とは“霊の力”のことである。(七)P40

 

⇒ あらゆる力を引き寄せるこの“霊の力”で解決できないものはない。(七)P30

 

⇒ しかしながら、不必要な不安、心配、取り越し苦労、恐怖心などがこの“霊の力”の流入を妨げている。(十一)P47

 

霊は精妙な波動であるため、物質界の粗い波動である取り越し苦労や心配は霊的雰囲気を乱し、霊力の流入や背後霊の導き・援助を阻害して受け付けなくしている。

 

では、どうすれば取り越し苦労が止められて“安心立命の境地”になり、“霊力”を呼び込むことができるのでしょうか? 霊力の流入を促進し、“霊界から働きかけやすい条件”を以下に列記します。

  1. 宇宙の摂理に絶対的自信を置く  (十一)P33

  2.  

  3. “苦難克服の摂理”を信じる  (七)P30

  4.  

  5. 守護霊を信じ導きを意識する   (十一)P33

 

―マトメ―
霊的成長にとって苦難・困難の経験は必須です。
しかしながら不必要な心配や取り越し苦労は無用であり、その正しい対処法として苦難克服の摂理を信じ、安心立命の境地になって霊力が流入しやすくする必要があります。
それには自分にできる精一杯の努力をし、その後は守護霊を信じて導きに絶対的信頼を置くようにすれば霊界からの援助や導きを得て、すべての困難は克服でき、且つ、霊的に成長することもできるようになります。

 

いま周りで起こっている私たちを悩ますいろいろな個人的出来事も、五感を通して観ている水平的な関わりの視点、すなわち地上的な視野(肉主霊従)で観るのではなく、立ち位置を変え全てのことは私たちの霊的成長のための出来事として、霊界・地上界という垂直的な視点、すなわち霊的な視野(霊主肉従)、“真の自我”から観て自分に係る全ての現象の真の意味・目的を捉えることが必要となってきます。

 

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(平成28年5月)

苦難の目的と対処法(平成28年5月11日)(その他)

霊的成長のために、物的世界で我々は霊的摂理の実践と信仰の訓練を繰り返し、繰り返しさせられていることになる。(ページ数のみはシルバーバーチの霊訓十一巻より引用)

 

霊的無知からくる不安霊的知識霊の力霊的知識への信仰勇気と実践霊的成長 ⇒ これの繰り返し

 

霊的無知からくる不安
“確固たる霊的知識に裏うちされた完ぺきな信頼と自信と信仰とがある時はその通路が開いており、受容性が高いのですが、そこへ不安の念が入り込むと、とたんに雰囲気が乱れて、通路を塞いでしまう要素が生まれます。取り越し苦労は無知の産物です。霊的知識をたずさえた者が不安の念を抱くようなことがあってはなりません。同じく、悩みの念も、その中身が何であれ、成就されるはずのものを成就されなくしてしまいます。私はいつも交霊会の開会に際してこう述べています――心配、悩み、疑い、不安の念のすべてを、しばし、わきへ置きましょうと。霊力が存分に、そして自由に流入するのを、そうした念が妨げるからです。私たちを信頼してください。きっと道をお教えします。扉を開いてさしあげます。閉め切られた扉をノックしてみて開かない時は、あきらめることです。ノックしてみてすぐに開いた時は、真っすぐに突き進まれるがよろしい。それがあなたにとって正しい道なのです。私たちとしてはそういう形でしか援助できないのです。良い知恵をしぼって導いてあげるということでしか援助できないのです。” P47

 

 

霊的知識 ・・・“苦難克服の摂理”

 

“あなたの人生思想の根幹となるべき霊的知識にまず絶対的自信を置くことです。そしてその知識だけでは処理できない事態が生じた時は、それに信仰を加えるのです。手にされた知識を根拠とした信仰です。(中略) 背後霊の存在を信じることです。機が熟した時に必要な援助があります。条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果を生じさせる力があります。” P33

 

霊は安心立命の境地において本来の力を発揮するものです。私たちが闘わねばならない本当の敵は無用の心配です。それがあまりに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、本当は実在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎます。
そこで私は、取り越し苦労はおやめなさいと、繰り返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物というものは決して与えられません。しかも、溢れんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれるあらゆる力を引き寄せることになるのです。” 霊訓(七)P30

 

いかに暗い体験も克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えられないほどの試練や危機に直面させられることはありません。” 霊訓(六)P202

 

 

 

霊の力

 

“慌てず我慢するのです。霊の力は物質に勝ることを忘れないことです。霊界から働きかけやすい条件さえ提供してくれれば、いかなる障害も、いかなる困難も、いかなるハンディも、霊の力で克服できないものはありません。” P138

 

 

霊的知識への信仰

 

“人生には二つの大切な要素があります。一つは知識であり、もう一つは信仰(信念)です。知識の裏付けのない信仰は折れた葦のようなもので、いざという時に頼りになりません。が、知識に信仰を上のせする――これが最高の組み合わせです。あなたは人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識はすでにお持ちです。が、それとて、これから先あなたが入手していくべき知識に比べれば、ほんのひとかけらにすぎません。そこでその不足を補うための信仰というものが必要となります。しかしそれも、あくまで事実に即した知識を根拠にした信仰です。軽々しい信仰、理不尽な信仰、知性を侮辱するような信仰ではなく、事実を根拠とした信仰、つまり、かくかくしかじかの事実がある以上はそう信じてもよいはずだという論拠をもった信仰です。それはあなたにとって大切なものです。” P136

 

 

 

勇気と実践

 

“私たちの教えはいたって単純ですが、それを実行に移すには勇気がいります。” P189

 

 

 

霊的成長

 

“あなたの地上生活は霊の幼稚園のようなものと思えばよろしい。真の自我である霊が私たちの世界つまり霊界での生活に備えるために、この地上で学習をするのです。しかし現実には、あまりに多くの人間が何の備えもなくやってまいります。そのため、こちらで改めて教育しなければなりません。地上でも、学校へ行かなかった大人に基本から教え直すのは難しいものですが、こちらへ来た人間に基本的な霊的教育をするのは、それよりはるかに困難となります。
P127

 

―苦難の克服についての留意点―

  1. 霊的摂理である“苦難克服の摂理”を霊的知識として知り、その摂理を信じるという信仰を何度も何度も信念化するまで地上生活で試されることになる。

  2. 必ずしも期待したとおりの結果にならなくても、自分の霊的成長につながる最善の道であったとあとで振り返ってみると判る。

  3. 困難が解消する時期については、我々が望む時期と霊界から観ての最善の時期とは異なることがある。

力強く前進なさい。最善を尽くすことです。それ以上のものは人間に求められていません。しくじった時は立ち直ればよろしい。しくじるということが立ち直れることを意味します。皆さんは不完全な世の中の不完全な存在である以上、かならず失敗を犯します。完全へ向けての巡礼の旅は永遠に続くのです。” P102

 

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(平成28年4月)

宇宙の法則への絶対的信頼があれば苦しみを感じなくなる(平成28年4月6日)(その他)

●“あなたは永遠の霊的規範を物的尺度で測り、魂の視点からでなく肉体の視点、言いかえればいま物質を通して顕現している精神だけの視点から眺めておられます。”

 

「それを災難と受け取るのも進化のある一定段階までのことだとおっしゃるのでしょうか」

 

“そうです。それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば苦しい思いをしなくなります。苦は進化と相関関係にあります。(中略) あなたの体験の“質”を決定づけるのはあなたの進化の“程度”です。ある段階以上に進化すると憎しみを抱かなくなります。愛のみを抱くようになります。苦を感じず幸せばかりを感じるようになります。難しいことですが、しかし真実です。苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります。”  シルバーバーチの霊訓(六)P193

 

●“さて、苦しみとは一体なんでしょうか。苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神または魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公平が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。なぜなら各人が置かれている環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません。”   シルバーバーチの霊訓(六)P195

 

●“要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。また、すべきではありません。”  シルバーバーチの霊訓(六)P195

 

●“苦と楽、悲しみと喜び、平静さと怒り、嵐と晴天、こうしたものがみな魂の成長の糧となるのです。そうしたものを体験し教訓を学んではじめて成長するのです。その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され、その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです。 (中略) つまり宇宙の摂理に不動の、そして全幅の信頼を置くことができるようになれば、人生で挫折することはありません。なぜならその信念が内部の霊力を湧き出させ、何ごとも成就させずにはおかないからです。
その霊力を枯渇させる最たるものは、心配の念です。全幅の信頼心――盲目的な信仰心ではなく知識を土台とした完全なる信念は、人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます。神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり、そこに憩うことを忘れないかぎり、自分を焼くつくす火も吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです。“

 

「すばらしいことです。」

 

“本当にそうなのです。本当にそうなのです。物質に包まれた人間にはその理解はとても困難です。魂そのものは知っていても、その物質による束縛がどうしても押し破れないのです。しかし、それを押し破っていくところに進化があるのです。人生問題を霊の目で眺めれば、その一つ一つに落ち着くべき場がちゃんと用意されているのです。地上的な目で眺めるから混乱と困難と誤解が生じるのです。そこで私たちの出番が必要となります。すなわち霊的真理の光をお見せするのです。” シルバーバーチの霊訓(六)P196

 

霊的摂理(宇宙の法則)の理解があれば苦しい思いをしなくなるプロセスを上記の霊訓からまとめると、以下のようになります。

 

⇒ 苦難や試練にあうと、地上的な目(肉体の視点)や世間の常識で判断するため、迷いからくる取越苦労、不安や心配などとても苦しい思いをする

 

⇒ 霊的摂理(宇宙の法則)への理解が進み、背負えない重荷は絶対に背負わされないことや、背後霊の護り・導きなどの霊的知識に基づいた摂理の神への絶対的信頼度に応じて、取越苦労、心配や不安などの雑念妄想念に心が徐々に支配されなくなってくる。そしてたとえ嵐の中でも愛の神(不動の摂理)に全托した静寂・平穏な精神状態に少しずつなってくる

 

⇒ そうなると、苦難や試練を霊的視野(魂の視点)で冷静に眺め、インスピレーションを受けてその本当の意味が理解できるようになり、そこから悟りや叡智を得て霊的に成長できるようになる

 

⇒ 長い時間をかけてこれを繰り返し、ある一定以上に霊性が進化すると、苦しみの体験は霊的成長への必須条件ではあるが、霊的摂理に調和してさえしていれば、摂理への信頼と霊的知識から苦難を苦難と感じなくなり、なお且つ、そこからより高度の真理を悟り霊的成長もできるようになる。これを真理に近づく直接的な道というのでしょう。

 

●“神の真理に近づく道にも直接的に近づく道と迂回する道があります。が、それはその道を歩む本人の発達程度によって決まることです。” シルバーバーチの霊訓(六)P192

 

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(平成28年3月)

車窓の景色(平成28年2月19日)(その他)

“物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばらないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているのかといったことを忘れずにいることは困難なことです。 (中略) あなた方は霊的な目的のためにこの世に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫のようなものにすぎません。”

シルバーバーチの霊訓(六)P175

 

早朝、ベッドの中で目覚めと同時に会社のことや昨日の業界活動のことなどが頭の中をぐるぐると駆け廻りました。同時にそのような社会的ラベルの自分、ビジネス世界の中で俗世の欲にまみれた自分とは別の“もう一人の自分”がそれを見ていました。どのように表現すれば良いのか判りませんが、目覚め直後の多分夢うつつ状態の中、昨日の出来事の中の自分を“もう一人の自分”が客観的に夢の中で見ているような感じでした。これまでと根本的に違うのは、今までのような単なる自己反省とか思い出しているとかというものではなく、“もう一人の自分”が第三者の立場で高い位置から昨日の出来ごとの中の自分を観察しているという点です。せかせかと動いている今の自分と、“もう一人の別の自分”とが明確に分かれていたのが印象的でした。

 

地上の生活で発生する出来事は人によって本当に千差万別です。程度も色々でしょう。国家の支配者から問答無用で殺される人、細かく切り刻まれてトイレに流される人、テロの爆弾で木っ端みじんに吹き飛ばされる人、子の前で強姦された上に殺される人、黒人なのに色素が抜け落ちているという理由で5歳の幼子が手足を切り取られて願い事の生贄にされたなど、本当にニュースを見ているととても気分が悪くなってきます。しかしながら、人生の真の目的は最悪を体験して光を見出すことにあるのですから、大方の人はここまではひどくは無くてもそれなりに色々と人生体験をさせられていると思います。

 

困難・苦難の渦中にある時には、知識として読んだ霊訓などフィクションの世界であったかのようにすっかり忘れてしまって、取り乱しているものです。霊訓を読んでいる時はいくらそうだ、そうだと思っていても一旦本を閉じ日常生活に戻ると、まるで小説の世界であったかのように感じとっていてスイッチが切り替わり、とても現実の話とは受け止めていないようです。

 

それがコツコツと地道に霊的知識を学びながら時間をかけ色々な霊的体験を積んでいくと、今までは肉の目(地上的な視点)で見ていたことが、少しずつ少しずつ霊的知識に基づいた霊の目(霊界からの視点)で出来事を捉えるようになってきます。そして霊的知識や体験が増えるのに比例して、当然のこととして手段とその目的を履き違えなくなってきて、自分の周りに発生している出来事の真の目的や意義に気づくのが段々と早くなってきます。それは、すべてのことは偶然ではなく因果律の結果ではあるが、守護霊はそれまでも利用して霊的成長へと常に自分を導いているということを知っているからです。
自らに発生するあらゆる事象は、霊的覚醒とそれに続く霊的成長のためのとても貴重な体験ということを永遠不滅の“もう一人の自分”は知っています。そのため霊的知識に基づいた霊界から見た観点でとらえていると、この幻影の世界で自ら体験する出来事はまるで次から次に移りゆく「車窓の景色」のように見えてくるものです。

 

“要は視点の違いです。私たちは永遠の霊的観点から眺め、あなた方は地上的な束の間の観点から眺めておられます。”

シルバーバーチの霊訓(六)P184

 

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(平成28年2月)

心の分類と霊的成長(平成28年2月2日)(その他)

人間は、霊、霊の心、霊体、肉体の心、肉体から構成されているといわれています。

 

その心を分類してみますと、物質心、植物心、本能心(動物心)、感覚・感情心、理性心、霊性心に別けられます。
地球の心はこの物質心かもしれません。動物の場合は本能心で、精々感覚・感情心まででしょう。人間に至って初めて理性心があります。しかし往々にしてこの理性心は、本能心や感覚・感情心に強く振り回されるとても弱い存在なのです。いわゆる頭では理解しているつもりだが、体がついていかないというものです。この理性心には信念(信仰)という強い意志のバックボーンが必要となります。
他方、霊性心とは判り易く言うと良心のことです。スピリチュアリズムでいう霊の心、神が与えた霊的監視装置のことです。

 

本能心とは自己保存の心すなわち自己中心(エゴ)の心であり、この自己保存の心は突き詰めると他人の不幸を喜ぶという利他の心(霊性心)とは対極関係にあり、その両極端の心が一人の人間の内に存在しています
人間には神の子としての自由意志が与えられており、この自由意志を発揮し成長するためにはこの両極端の心がどうしても必要になるのです。だからこそ物質界はいろいろな霊的成長レベルの人が混在する特殊な世界となり、反面教師として成長することができるのです。
物質界はさまざまな試練や苦難の体験をとおして、本能心である自己中心の心(エゴ)から、短期間に神性である利他の心をより多く顕現する人になるための舞台装置のそろったありがたい界層なのです。すなわち舞台装置としての現象世界は対極の世界であり、地上人生は相対の中で霊的成長を図るようになっているのです。

 

“よく理解していただきたいのは、地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)から成っていることです。霊界では同じ発達段階の者が同じ界層で生活しておりますが、地上ではさまざまな発達段階の者が混ざり合って生活しております。ということは、対照的なものを見たり体験したりする機会が得られるということです。かくして光があれば闇があり、温かさがあれば冷たさがあることになります。そこに地上生活の存在理由があるのです。そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。言いかえれば地上は学校です。そこでいろいろと学ぶことによって、いつかは住むことになる霊の世界での生活に必要な教訓を身につけるのです。苦悩を味わうということは、その反対である喜びを味わえるということです。”

シルバーバーチの霊訓(十)P187

 

利他愛を知るにはまずもって利己愛、エゴ丸出しの自己中心とはどういうことなのかを学ばなければなりません。自ら、または他人からの自己中心(エゴ)というものを体験しなければ、人の思いが理解できず、赦しや寛容などの思いやりや優しさという利他の有難味が判らないのです。その成長に必要なため物質界では“本当の自分”や過去生が隠され、未熟な思念も目に見えないように隠されているのです。

 

纏めとして我々スピリチュアリストにとっては、初めは本能心中心(肉主霊従のエゴ)の未熟な成長レベルであったものが、さまざまな試練や困難などの体験を通して“本当の自分”を知り、その心である霊性心をどの程度顕現し発揮(霊主肉従)することができるようになるかが、物質界に出生してきた本当の目的(霊的成長)なのです。

“光明を味わうには暗黒を体験しなくてはなりません。(中略)人生は両極性を体験しなくてはなりません。” 

シルバーバーチの霊訓(十)P89

 

“いかなることにせよ、良いことをすればそれだけ霊性が向上し、自己中心的なことをすれば、それだけ霊性を損なうのが道理です。” 

シルバーバーチの霊訓(十)P85

 

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(平成28年1月)

霊的摂理の実践と信仰(平成27年12月25日)(その他)

(  )内の数字は「シルバーバーチの霊訓」の巻番号です。

霊的摂理の実践とは、利他の心で“具体的な行動を起こすこと”と一般的には理解されています。これもその通りですが、この実践に関してベテラン スピリチュアリストといえども気づいていないとても大切なことがあります。今回はとても重要なポイントですので、饒舌で大変長くなりますがそのことを以下に述べてみます。

 

あなたは何一つご心配なさることはありません。愛に守られ、行く手にはいつも導きがあるとの知識に満腔の信頼を置いて前進なさることです。
来る日も来る日もこの世的な雑用に追いまくられていると、背後霊の働きがいかに身近なものであるかを実感することは困難でしょう。しかし事実、常にまわりに存在しているのです。あなた一人ぼっちでいることは決してありません。

 

「そのことはよく分かっております。なんとかして取越苦労を克服しようと思っております。」

 

“そうです。敵は心配の念だけです。心配と不安、これはぜひとも征服するべき敵です
日々生じる用事の一つ一つにきちんと取り組むことです。するとそれを片づけていく力を授かります。今やあなたは正しい道にしっかりと足を据えられました。何一つ心配なさることはありません。これから進むべき道において必要な導きはちゃんと授かります。私にはあなたの前途に開けゆく道が見えます。もちろん時には暗い影が過ることがあるでしょうが、あくまでも影にすぎません。
私たちは決して地上的な出来ごとに無関心でいるわけではありません。地上の仕事にたずさわっている以上は物的な問題を理解しないでいるわけにはまいりません。現にそう努力しております。しかし、あくまでも霊の問題を優先します。物質は霊の僕であり主人ではありません。霊という必須の要素が生活を規制し支配するようになれば、何ごとが生じても、きっと克服できます。
少しも難しいことは申しておりません。きわめて単純なことなのです。が、単純でありながら、大切な真理なのです。満腔の信頼、決然とした信念、冷静さ、そして自信――こうしたものは霊的知識から生まれるものであり、これさえあれば、日々の生活体験を精神的ならびに霊的成長を促す手段として活用していく条件としては十分です。地上を去ってこちらへお出でになれば、さんざん気を揉んだ事柄が実は何でもないことばかりだったことを知ります。そして本当にためになっているのは霊性を増すことになった苦しい体験であることに気づかれることでしょう” (六)P154

 

我々の日常生活では本当に色々なことが発生してきます。楽しいことばかりではないのが常です。その試練があるからこそ鍛えられ、霊的成長がなされるのだといわれています。
死別の苦しみ、嫌なこと、辛いこと、心配なこと、不安・恐怖心を感じる出来ごとなどさまざまな苦しみが波のように次から次へとやってきます。これが習い性となって、仮に特段の心配ごとがなくても、何とはなしにどこか不安、心配の念が常に心の奥底でつきまとっています。
シルバーバーチも交霊会では毎回のごとく常連の霊的知識のある参加者に向かって、霊的知識のある方は取り越し苦労や心配をしてはいけませんと口を酸っぱくして何度もいっています。
“霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません
あなたの内部には霊的兵器——非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。” (十)P23
これは裏を返せば、ベテランのスピリチャリストといえども、心配・不安が絶えず、常に取越苦労をしているということなのです。
霊的知識がある人は辛い試練に対しても取越苦労や心配をしてはいけないという一方で、他方では辛い試練がないと霊的成長は出来ないと明言しています。一見するとこの矛盾(逆説・パラドックス)はどう理解すればよいのでしょうか。

 

シルバーバーチは如何なる試練がこようとも、霊的摂理として“背負えない荷は背負わされず”、必ず克服できるので逃げないで真正面から挑みなさいといっています。未知の経験であることからくる不安、想定される相手からの反撃、病気の心配など、消極的な考えほど際限なく膨らんでくるものです。そんな中でシルバーバーチのいっている霊的摂理を信じることを選択するのか、世間常識としての今までの物的思考形態から、これが心配せずにおられるかとばかり取越苦労を続けるのか、どちらを選ぶかの判断を迫られる出来ごとが常に身の回りに発生してきます。今までの生まれ育った思考形態では、こうすればああなり、ああなればこうして、ひょっとすれば一層悪化してこうなるので、はて、どのように対応しようかとか、常に頭の中は底なし沼のように堂々巡りの妄想念で一杯というのが我々世間一般の話です。
世間常識でいうと心配せずにはおれないほどの重大ごとでも、シルバーバーチのいう、毎日毎日、その日一日だけ精一杯の努力をしたあとは背後霊に思い切って全託しその問題を手放す、という決断は言うは易しで、なかなか容易にできるものではありません。それはとても不安で勇気のいることです。
“万事がうまく行っている時に信念をもつことは容易です。が、信念が信念として価値をもつのは暗雲が太陽をさえぎった時です。が、それはあくまでも雲にすぎません。永遠にさえぎり続けるものではありません” (六)P144
“皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです” (十)P20

 

不安、心配や取越苦労厳禁の根拠として、シルバーバーチは背後霊が常にあなたを見守り導き、必要に応じて霊界から様々な援助が与えられることを既にご存じだからといっています。そして“背負えない荷は決して背負わされませんから”とまで断言しています。心配や不安があると、魂、精神、肉体の調和が乱れ、生命力である霊的エネルギーが流入してこられず、背後霊からの導きにも気づかないからです。それが進むとうつ状態になります。心と体がバラバラになるのです。
シルバーバーチの下ろした霊的摂理を信じて、これを実行する。すなわち自分自身の今までの判断基準よりも、霊訓のいっている摂理・約束の方を選ぶということがとりもなおさず、霊的摂理のりっぱな実践行為になるのです。霊訓を信じて思い切ってそちらの道を選ぶ決心をする、ということが正に霊的摂理の実践行為そのものなのです。決断は心で行う実践です。
将来が見通せない未知の問題に直面すると、知識の及ばない領域は霊的摂理を信じる(宗教でいう信仰)ということで補いなさいとシルバーバーチはいっています。
“知識の及ばないところは信仰心でもって補いなさいと申し上げているのです。” (六)P128
“知識が生みだす信仰心を土台とした絶対的な自信です。” (九)P88
霊訓で述べられている霊的摂理を信じて、清水の舞台から飛び降りるつもりで思い切って守護霊に全託すると、随分と重荷が軽くなりとても気が楽になるものです。

 

以上、縷々述べてきたことをもう一度整理しますと、宗教でいうところの神を信じる信仰とは、スピリチュアリズムでいうシルバーバーチの下ろした宇宙の法則・摂理(霊的真理)を理性で判断し、あなたの知識を越えた領域は絶対不変の法則・摂理としてその約束を信じることなのです。この霊言を信じてそのように決断すること、すなわち今までの物的思考形態(物質の目)から、魂の知識から霊的摂理を信じて心を切り替えるということは、イコール霊的摂理の実践行為そのものなのです。実践と信仰は別々のものではなく、表裏一体で実は同じものだったのです。信仰が無くては霊的摂理の実践ができないのです。
そしてこの信じる強さを高めるプロセスが霊的成長のプロセスともいえるのです。
困難に直面して、いざ霊訓のいっていることを信じ、直面している問題に霊訓を適用するといっても当然、初めはおっかなびっくりです。半信半疑といってもよいでしょう。それが一度克服し、二度克服し、三度克服し、四度目も克服し、五度目もうまくいって、六度目もうまくいくと、経験則から段々と自信に繋がって、七度目も今まで通りうまくいくという確信めいたものを持ちだします。長い時間をかけてこの体験を繰り返していくと守護霊との関係も深まり、ついには信念化して何が起ころうとも驚かなくなる“泰然自若”の精神に至るようになるのです。

 

“私はつねづね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み込むときは、その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は神からの授かりものです。(中略)一見矛盾しているかに思える言説がいろいろとありますが、この合理性もその一つであり、一種のパラドックス(逆説)を含んでおりますが、パラドックスは真理の象徴でもあるのです。” (六)P135

 

ここでいうパラドックス(逆説)とは、合理的な判断基準である理性心と、その真逆の信じるという理性を越えた信仰心との相反する二つの心のことです。日常生活で霊的真理を実践するにあたってはこの理性心と信仰心が必要です。
そういうことが理解できたなら、早速、今から下記の霊訓を実践しましょう。

 

“首をうなだれてはいけません。後ろを振り向いてはいけません。前を見るのです。過去のページはすでにめくられ、二度と元へは戻せないのです。生命の書は常に新しいページをめくるのです。その日その日のために生き、昨日のために生きてはいけません。明日刈り取る収穫のタネを蒔くのは今日なのです。” (十)P166

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(平成27年12月)

“霊的摂理の普及”(平成27年11月21日)その他)

日本人の特性として、無宗教の国ではあるものの古来より神道でみるごとく自然崇拝で必ずしも物質万能主義、唯物思想一辺倒ではなく、全ての宗教を受け入れる素地のある世界的にも異色な人種で、人との和を尊び寛容と柔軟性に富んでいる。ある意味、合理主義一辺倒で個人主義の西洋人とは考え方が根本的に異なっている。日本人の本来の姿は他人に優しく思いやりがあり、儒教の影響を受け道徳を重んじ礼儀正しい成熟した文化人、世界中から驚嘆と尊敬をされている国民なのだ。国家単位としてみると明らかに日本人固有の個性のようなものがある。

 

●スピリチュアリズムの普及からみた日本

霊訓の本場英国をはじめ、欧米では“シルバーバーチの霊訓”は現在では忘れ去られつつある。信じがたいことであるが、シルバーバーチの名前は正に風前のともしびなのだ。

 

毎日のようにニュースで陰惨な出来事を見聞きするにつけ、世界中で戦争やテロ、飢餓、また最近の日本では意味のわからない殺人が平気で行われており、今まさに世界は唯物思想、拝金主義のエゴまるだしの危機的状況にある。そのような中で21世紀に入ったばかりのこの時期に、何故にこのような特性、遺伝子をもった日本人として生まれ、今生で霊的覚醒をしたのだろうか。
日本には近藤千雄氏の翻訳による“シルバーバーチの霊訓”をはじめとして三大霊訓他の日本語訳全巻と、とても大きな働きをしているスピリチュアリズム普及会(旧:心の道場)の存在がある。また、霊界からの働きが盛んであった20世紀初頭(明治初期)には西欧と歩調を合わせるかのように、日本にも浅野和三郎をはじめその後継者、中村天風等などの霊覚者が次々と生まれて来ている。日本におけるスピリチャリズムの先導役をなされたのだ。それ以来現在に至るまで決してマスコミには紹介されることなく、人知れず地道に謙虚に霊的摂理の啓蒙活動やスピリチャルヒーラーとして人知れず霊界の良き道具になって働いている方々がおられた。まさに、地ならしをされてこられたのだ。
このことには実は我々がまったく気づいていない、とても大きな意味と目的があるのだ。
世の中にはたまたまの偶然はなく、全てのことはなるべくしてなっているのだ。ましておや今回のスピリチャリズム普及活動は、計画に基づいて霊界あげての強い働きかけがなされているのである。今はただ単に我々にその自覚がなく、気づいていないだけではないのだろうか。

 

●その大きな意味と目的とは
“地上に本物のスピリチャリズムと呼ばれている新しい啓示が世界中に知れわたるのに、ほぼ一世紀を要しました(19世紀半ば~20世紀半ば)。もう一世紀のち(20世紀半ば~21世紀半ば)には、その数は信じられないほど多くなっていることでしょう。皆さんはその先駆者なのです。” シルバーバーチ 不滅の真理 P224 

 

シルバーバーチによると、信じられないほどスピリチャリストの数が多くなるのに、残りあと僅か30、40年しか残されていないのである。世間にはさまざまなスピリチャル関連書籍があまたある中で、我々は霊的摂理としてシルバーバーチの下ろした霊訓は最高峰のものであると信じている。そのシルバーバーチがあと30、40年もすると、信じられないくらいの数のスピリチャリストが世界中にあふれていると断言しているのだ。シルバーバーチの名は日本以外、風前のともしびにあるというこの現実の中でだ。この意味するところは一体何なのだろうか。
その数は信じられないほど多くなることがもしも真実だとすると、日本からそれが始まるに違いないのである。わずか15年前(20世紀末)には表だった日本のスピリチャル・チャーチ、すなわち “シルバーバーチ読書会”は日本全国どこにもなかったのだ!

 

この時期に日本人として生まれ霊的覚醒をしたということは、たまたまの偶然ではなくとりもなおさず次の段階、すなわちシルバーバーチによって下ろされた霊的摂理を日常生活に実践し、信念(信仰)として霊的摂理に基づいて生きる段階に入るため、霊的摂理の松明を国内はもとより日本から世界に向けて大きく燃え上がらせる使命をもって我々は今生に出て来たということになるのだ。霊的摂理を普及する目的実現のために英国ではなく、当初から次の段階として日本がその計画実現の地として計画されていたのだ。
正に今21世紀初頭に生きている日本人スピリチュアリストは、誕生前にこの目的実現を託されて使命をもって物質界に出て来た先駆者・パイオニアなのだ。

 

霊界側から物質界への働きかけの推移

1. 霊界存在のサインは米国で始まる(19世紀中頃) 
    ⇒ サイキックの時代・・・奇跡による霊界の存在証拠 → 実演の時代:(ローカル)

 

2. 霊界の科学的証明が英国で行われる(19世紀後半~20世紀初頭)
    ⇒ サイエンスの時代 → 霊界の科学的立証の時代

 

3. 霊的摂理が地上界 英国に下ろされる(20世紀初頭~中頃)
    ⇒ 霊界通信の時代 → 新聞・本などの出版物の時代:(英語圏、翻訳国)

 

4. その霊的摂理の普及と実践は日本から始まる(20世紀中頃~21世紀中頃)
    ⇒ 霊的摂理の普及活動と実践の時代 → インターネットの時代:(世界中へ普及) 

 

“ますます発達していく科学技術のおかげで私たちが為しとげた以上の規模の人々に真理を普及する手段が活用されるようになります。” (十)P141

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(平成27年11月)

“本当の自分”霊魂はなぜ隠されているのでしょうか(平成27年10月22日)

“地上生活の究極の目的は、人間が霊的成長のある段階において、物的現象の世界のウラ側に存在する実在に気づくように、さまざまな体験を提供することです。 (中略)

霊が地上に誕生するというその事実が、潜在的にその子供にもいずれ芽生えるであろう霊的自覚が秘められており、そのための機会がこれから与えられていくということを意味しております。” 
シルバーバーチの霊訓 八巻 P117


実在の世界(霊界)や“本当の自分”(霊魂)はそもそも何故隠されているのでしょうか? 
また、何故わざわざ様々な人生体験をしてまで、物的現象の世界(物質界)のウラ側に存在する実在(霊界)に気づかせるようになっているのでしょうか。


●隠されている理由
一つの理由として、霊界、及び“本当の自分”や過去生が敢えて隠されて誕生して来るのは、霊格の高い人も低い人も等しく混在した地上ならではの世界で、振り出しに戻ってスタートを同じくし切磋琢磨するためではないでしょうか。

また、もう一つの理由として、全ての人が始めから自分が永遠不滅の霊魂であることをもしも仮に知っておれば、地獄の苦しみに直面すると、やり直すために自殺して簡単に霊界に戻ろうとするかもしれません。自殺した場合どうなるか結果まで知っておれば話は別かもしれませんが、我慢することをせず、多分地獄の苦しみには耐えられない人も多いことでしょう。
自分の死ぬ時期が始めから判っていたり、安易に自殺していてはカルマの解消や修行にはならず、一向に成長ができないでしょう。特に霊性の低い段階では、いつまでたっても浮上できなくなってしまうかもしれません。
安易に自殺しないためにも、“本当の自分”は永遠不滅の霊魂であることが隠され、抑止力として本能的な死への恐怖心が必要となってくるのでしょう。


●霊的覚醒
シルバーバーチは霊訓の中で、実在(霊界)を知る機会は例外なく等しく与えられているといっています。但し、霊的覚醒には、地獄のようなどん底の体験が必要なようです。地獄のようなどん底の体験をしていると、意識している今の自分(仮我)がまったく頼りにならず、非力で無きに等しい存在に思え、そのためしがみついていた自分(仮我)をようやく手放すことができます。霊的成長のある段階に至った魂にとっては、そうなると自分とは何か、何のためにここにいるのか、人生とは何かとかを自然と考えるようになるものです。苦しいからこそ、それを克服しそこから逃れる道、救いの道、“本当のこと”を真剣に求めるようになるものです。こうして徐々に催眠術から目覚めてくるのです。
そこまでの霊的成長に至っていなかったり、全てに恵まれ順風満風の燦々とした陽光の下では、実在の世界という星が天空に輝いていることすら気づかないものです。


●霊的成長
いろんな霊的成長レベルの魂が混在した“光と闇”の対極したこの物質界で、苦しい体験を経て“本当の自分”は霊魂(真我)であることに気づくことが、次の霊的成長にとってどうしても必要となってくるのです。
何故なら、気づくことによって始めて自分自身を取り巻く環境、出来事、諸現象の本当の意味・真の目的が理解できる準備が整うことになるからです。また、肉体という衣を着ているからこそ経験できる、善悪、幸不幸、喜びと悲しみ、愛と憎悪、利己と利他、天国と地獄、健康と病気、貧富の差等など相対の世界のさまざまな体験に霊的摂理を応用実践し、霊的真理の悟りを経て霊的に成長することが可能となってきます。
神の子として霊的成長のスタートに、光を知るために暗闇を、愛を知るために憎しみを、幸福を知るために不幸を、本能心と霊性心をまずはこの相対の世界で体験しなければならないのです。


●時期が来ていることが条件
霊的覚醒、“本当の自分”(霊魂)を知るためには霊的成長のある段階にきていることが必要で、やはり時期が来ていることが必須条件のようです。
霊的摂理が理解でき受け入れられるようになる、ある一定の段階まで霊的成長をするまでは“本当の自分”は隠されている、というか理解できず気づきようがないのです。
時期が来ていないと霊的真理というダイヤモンドも、何の価値もないどころか道端の捨石のようにしか見えないものなのです。この物質界の唯物主義という幻影のマジックにかかってしまって、この世界が全てと錯覚してしまい一生を終える人が大多数ほとんど全てなのです。

 

“私たちは立証と論理によって得心させなければいけません。これはその人たちが霊的に受け入れる用意ができていなければ不可能なことです。
そしてその受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整いません。つまり物質の世界には解答は見出だし得ないという認識を得なければなりません。人間の窮地は神の好機であるといった主旨の諺があります。私たちはそういう方法でしか仕事ができないのです。 (中略)
霊的自我に目覚めたその魂にとっては、その時から本当の自己開発が始まるのです。そして霊的知識に照らして自分の人生を規制するようになります。自然にそうなるのです。それによって内部の神性がますます発揮され、霊的に、そして精神的に、大きさと優雅さが増してまいります。” シルバーバーチの霊訓(八)P165

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(平成27年10月)

“幽界の続き”(2015年9月21日)

“霊界の下層界では地上で起きていることのすべてが再現されております。地上での戦争や抗争がそのまま続けられております。が、霊的覚醒とともにその界層を離れて、地上で培われた偏見と敵意をきれいに棄て去ります。そうなると問題はひとりでに解決されてまいります。
霊的摂理の理解とともに、自分の為すべきことは霊的な身支度をすること、自分自身の霊性を磨くこと、自分自身の能力を開発することであることを自覚し、それは他人のために自分を役立てることによってのみ成就されるものであることを認識します。
いずれにしても問題はあくまで過渡的なものです。霊的事実を知らずにいる者にいかにしてそれを認識させるかということです。そのためにあらゆる手段を講じるのです。
一番厄介なのは、自分がすでに地上を去った人間であることが納得できない人たちです。” 
シルバーバーチの霊訓(七)P74


ここでいう霊界の下層界とは幽界、そして死んだことが納得のできない人たちのいる世界とは、幽界の中でも最下層の物質界に接する中間境のことを指しているのだろう。まさに地縛霊がさまよう境涯だ。
では、程度の差はあるだろうが、この物質界で霊的自覚を経て利他で生き、霊的成長をなしていると、中間境はいうに及ばず幽界も短期間に済まして霊界に進むことが出来るのだろうか。物質界では幽界と違って粗い波長のため、夢や意思を実現するには相当な時間がかかるが、正に幽界の目的とすることを既に我々スピリチュアリストは霊的覚醒のもと、今生で同じことを目指し実践していることになるのではなかろうか。


では、なぜわざわざこのような物質界が必要で、そこでの体験・経験が求められるのだろうか。
シルバーバーチは、今生で「霊的覚醒」を経て「霊的成長」をすることは、次の世界での生活や、そこで待ち構えている仕事に備えるためだといっている。
物質界では、霊性レベルの異なる個霊が混在する難しい対人関係の中、肉体を維持するために額に汗して働かなければならず、最後まで残る強烈な性欲などいろいろと肉体があればこその苦労をしながら生きているが、霊的覚醒さえあれば霊的知識を物質界で実体験によって学ぶ方が理解しやすく、霊的成長が速いからだろう。


進化発展は宇宙の大原則で、“完全”という方向に向けて常に宇宙全体が成長している。
当然、宇宙の構成要素であり摂理・法則の中に組み込まれている我々自身もその例外ではない。私たちが好むと好まざるとにかかわらず、神の子として“完全”を目指し永遠に霊的成長をしながら、創造活動に不可欠の存在として何がしかの貢献をしていることになるのだろう。
それ以上のことはシルバーバーチもいっているように分からないのだ。


“人生には無数の困難があります。だからこそ完全へ向けてのチャンスが無数にあるということになるのです。” 
シルバーバーチの霊訓(七)P76

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(平成27年9月)

幽界の存在意義と類魂仲間(平成27年8月29日)

今回の寸感は、東京シルバーバーチ読書会を主宰されておられる須江様のプログ(下記ブックマークを参照)を引用し、私なりの解釈をプラスして書き下ろしたものです。参考になりましたら幸いです。

 

我々は類魂を代表し、目的を持ってこの世に誕生してきたといわれております。
私がこの世で経験したことを類魂仲間全体の直接体験として共有し、類魂全体として霊的成長を図るようになっているようです。それではプラスの良い面ばかりを共有し、マイナスの負の面も共有するのでしょうか。
結論から言って、これは連帯責任を取らされるのではなく、自己責任(因果律)として個霊のみにカルマとして残るようです。マイナスの責任は自己がとり、プラスの体験は類魂全体で共有するようになっているようです。
それでは、そのことを少し回りくどくなりますが、順を追って説明していきます。


[死後の旅立ちガイドブック]

1.中間境へ・・・幽界の最下層で、物質界と接するところ
死後のプロセスとして、シルバーコードが切れると肉体を脱ぎ捨て、幽体をまとって幽界に移行します。霊的世界の中でも物質的要素の濃い低い界層を“幽界”と呼んでいます。
肉体の粗い波動から幽体の精妙な波動に移行するには、一時的な意識の中断(深い眠り)が必要となり、ちょうどパソコンのOSソフトのように書き換え作業(再起動)が行われます。
この作業は幽界が物質界と接する“中間境”というところで行われます。この中間境は一人の例外もなく、死後すぐに訪れる境涯です。この中間境で死者は霊的世界で生活するための霊的調整の準備、すなわち幽体(霊体の中でも一番物質性の影響が残っている霊体)を完成させるのです。


2.中間境の目的は・・・肉体とダブルを脱ぎ捨て、幽体を分離する処
死の深い眠りから目覚めると、この中間境でまどろみの中、地上時代の出来事をフラッシュバックのように映像の形で見させられます。そして“死の自覚”が得られたなら、半物質状の幽質結合体(ダブル)を脱ぎ捨て、幽体を完成させて幽界に入っていきます。
この中間境とは「霊界の病院」とか、「幽界の休息所」、「地上時代を反省する場所」として霊訓で述べられている処です。要は肉体と幽質結合体(ダブル)を脱ぎ捨てて、幽体の波動に切り替わる(脱皮する)ところです。


※地縛霊とは
地縛霊は、死後にも次の界があることを知らず、物質界に強い執着があり、死んでもいまだ死の自覚が持てないため幽質結合体(ダブル)を捨てられず、そのため幽体が完成しないので幽界に行くことが出来ず、中間境に留まっている“落ちこぼれ霊”のことです。


3.幽界へ・・・ガイドがあらわれ、浄化のため幽界に導かれる
次に、幽体をまとって地上時代の霊的成長に見合った界層の幽界に移行すると、反省や浄化の世界が待っています。この世界は地上時代に身に付けた傲慢さや淫乱、貪欲、物欲などのケバケバしさを浄化する幻想の世界(幽界)です。生前と死後の違いはただ単に肉体があるか否かだけであり、いわば死は人間の生活の場を地上世界から霊の世界に変えるだけで、人間そのものを変えるわけではありません。
幽界では思念したことは全て叶い、その内に退屈となり飽きてきます。そうなると本来の姿、意識が物的なものから霊的なものに徐々に移ってくるのです。このことは人によってはとても長い期間を要しますが、この幽界で霊的自覚(覚醒)を経て霊体へと移行していきます。その移行は浄化に伴いグラデーション的に精妙さを増して徐々に完成された霊体へと脱皮していくのです。


4.霊界へ・・・類魂仲間の元に帰る
この幽界で地上時代での体験を反省し、カルマとして残るものがあるものの、カルマ解消のため高級霊のお手伝いをして償い等をし、マイナス面のケバケバしさが浄化され綺麗になっていきます。幽界はこの浄化を目的として霊的調整をする世界です。このようにして霊的覚醒を経て霊界に移行する時には地上生活で得たプラスの面を手土産に持ち帰り、地上時代の貴重な体験を類魂仲間ともども直接体験として共有し、全体として霊的成長を遂げて行くことができるのです。


―マトメ―

幽界(幻影の世界)では地上生活で身に付けたマイナス面の浄化を行い、幽体から霊的覚醒を経て完成された霊体に脱皮し、類魂仲間の待つ霊界(実相の世界)に戻ります。そして類魂仲間と地上生活で得た霊的成長に繋がるプラス面の体験を直接体験として共有し、さらなる霊的成長に繋げていくのです。


≪他界後のプロセス≫
他界の準備(シルバーコードが徐々に切れていく)
⇒ 死(一時的な意識の中断・深い眠り・・・書き換えのための再起動による波長の劇的変化)
⇒ 物質界との接点である幽界の最下層“中間境”で、まどろみの中、地上人生の反省をする
⇒ 明確な“死の自覚”をもつ
⇒ 幽質結合体(ダブル)を脱ぎ捨て幽体を完成させるという霊的調整を行う


⇒ ガイドと出会い、幽界に移行する
⇒ 幽界で浄化を行いながら霊的覚醒を経て、徐々に上層に移る(グラデーション的変化)


⇒ 幽体から徐々に完成された霊体に脱皮して、霊界に移行する
⇒ 霊的家族(類魂仲間)のもとに帰還する
⇒ 地上のプラス体験を霊的家族(類魂仲間)と共有し、霊的成長に繋げる

 

地上人生の目的は、「霊的覚醒」と「霊性の開発」にあります。この「霊性の開発」とは、自我の本体である“神の分霊”を少しずつ顕現させていくことを意味します。
具体的には人のために役立つ行為(利他愛)をとおして顕現させるのですが、この鈍重な物質界では利他愛を具現化するには、実践、行動というエネルギーが必要で、それには粘り強い意志力と集中力が要求されます。
来るべく“思念の世界”で必要となる意志力と集中力が、この唯物主義に満ちた暗黒の世界“物質界”にあって苦労しながら養成されているのです。

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(平成27年8月)

(平成27年7月16日)

"地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もってわかったからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。霊的生長というのは実際に物ごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の全目的があります。” シルバーバーチの霊訓(四)P83


前回までは実在の世界は霊界で、この物質界は夢幻の世界というお話をしましたが、では何故、幻影の世界 物質界に再生してくるのでしょうか?
その答えが上記のシルバーバーチの霊訓に書かれてあります。


霊的知識を学び、地上での苦難・試練の体験によってその知識を身につけ、霊的生長を成して他界後の仕事に備えるとあります。霊的生長をするための好条件がこの物質界には全てそろっているからです。


それでは他界後に待ち受ける我々の仕事とは一体何でしょうか? 
今のこの物質界に最も必要なことは、霊的真理の普及といわれます。霊的知識の無さがすべての不幸の根源であるからです。


“人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。”
“不安のタネの尽きない世界に平和を招来するためには霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて他に手段はありえません。” シルバーバーチの霊訓(六)P82~84


そして霊的真理を先に知った者は、今度は他人にそれを伝える責任があるとシルバーバーチはくり返し述べています。


“ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は真理の使節としての自覚をもたねばなりません。”
“霊力の地上への一層の顕現の道具として、己の全生活を捧げたいという熱誠にもう一度燃えていただきたいのです。” シルバーバーチの霊訓(六)P84~85


私たち一人一人は、それぞれの各類魂を代表して使命を持ってこの物質界に再生してきております。今生で霊的覚醒を得た我々は、霊的真理の普及活動を目的としているシルバーバーチ霊団のお手伝いが出来るように、類魂を代表して今生でその実力を身につけ、類魂全体としてお手伝いできる資格が得られるようにすることが我々一人一人の今生の特命なのです。

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(平成27年7月)

霊界と物質界(平成27年6月26日)

"ではもし永遠に目覚めないと仮定したら、その夢はあなたにとっていつまでも現実であり、その夢の中の生活と比較すべき覚醒時の生活がない以上は夢の中で起きたことはことごとく現実であり、逆にそれまでの覚醒時に起きたことは全て夢まぼろしであったことになりませんか。
死後の世界ではそうした夢の中での精神的過程が何倍もの強烈さをもって働くと思っていただければ良いのです。そうした精神状態はこちらの世界の者にとっては実在であり、あなた方が物質に実感を覚えるのと同じように、霊にとっては実感があるのです。"

「何だか怖いような気がします。」


"なぜですか"


「どうも私にはその生活が現在の地上の生活のような実在感を伴った、しっくりとしたものではないように思えるのです。」


"それはまったく相対上の問題にすぎません。実際は地上生活は霊界という名の太陽によってできた影にすぎません。地上生活は殻であり実質がないのです。物質が霊によって実在が与えられている以上、物質的には真に実在と言えるものは何一つ存在しません。物質というのは霊的実在の波長によって形を与えられた表現の一つに過ぎません。

シルバーバーチの霊訓(二)P155~P156


前回の寸感では"物質界の地球舞台"というお話をしましたが、次に、霊界と物質界の関係について以下、私見を述べさせていただきます。


肉体とともに意志や意識も脳と伴に消失するという考えが一般的ですが、肉体、及び脳というコントロールルーム 兼 レシーバー(送受信機)が瓦解しても、思念や意志・意識のような心が仮に生き続けるとすれば、ちょうど毎晩みている夢の中の世界(霊体での霊界訪問)が続いていることになります。戻るべき肉体がもはや無いからです。但し、その場合は、意志の発生源としての霊魂"本当の自分"の存在が大前提となります。
シルバーバーチは肉体が滅んだあともその人の真の愛は不滅で、実在だといっています。その根拠として霊性心から来るからだと。この愛があるからこそ他界後、愛する家族やペットにも再会できるのだといっています。また、死後は肉体がないので二度と目覚めないから、相対上夢の中とはいえず、むしろそれまでの物質界での体験の方が"夢のまた夢"となってしまうともいっています。


同じ波長の者同士(類魂)が共通の夢の中で暮らすようで、波長がわずかでも異なると交流が出来なくなるようです。(但し、波動を下げることは霊魂が物質界に降りてくるように、可能なようです。)
そういう意味ではこの物質界は異なった波動を有するいろいろな霊性レベルの混成集団で、可視光といわれるごく限られた範囲の波長を感受する世界に一緒に住んでいるという、極めて特殊な世界といえます。宇宙船地球号の肉体という宇宙服を着ることによって、霊魂が波動の粗い肉体に縛られて閉じ込められ、同時に"本当の自分"や過去生の記憶を潜在意識下に隠されます。その理由は、成長した霊や未熟な霊など異なる波長(霊格のレベル)の魂同士が、共通の物質界で混在することを可能にし霊的成長をするためです。善と悪・光と闇、利己と利他、愛と憎悪などの相対の世界で自己責任のもと、個性をもって霊的成長を促進することにあります。だからこそ、今生の真の目的を知るためにはどうしても"本当の自分"に気づく必要があるのです。


ほとんど大多数の人々は今この現象界が唯一の実在で、肉体が死んだら全て終わりと信じこんでいますが、決して可視光の世界だけが存在する唯一の波長ではなく、ごく限られた一部の波長にすぎないことは明らかです。可視光の波長を離れると物質そのものが見えなくなってしまいます。霊界とはもっと精妙な波長で、可視光の物質界とは全く異なった波長の世界なのです。


個性や体験、憎愛など魂に刻まれたものは肉体から霊体に波長が切り替わっても霊界に持って行くことができますが、他は全て霊力によって形を与えられた表現の一つで、実在の影、実質のない殻であり持って行くことはできません。
個人そのものが消滅するにしろ、死後にも存続するにしろ、特に男性にいえることですが、人生のほとんどをそのことにかけてきた地位や名誉、お金をはじめとする物質はこの世限りの立場や物であり、いうまでもなくそれらは手段、道具であって死後には何の意味もなしません。そういう意味でいろいろな成長レベルの混在したこの相対の世界は、霊的成長のためというとても大切な目的をもった世界ではありますが、永遠不滅の個霊の視点からみると最大100年間の"色即是空""空即是色"の幻影舞台なのです。

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(平成27年6月)

霊こそ実在(平成27年5月28日)

“霊こそ実在であるという真理は永久に不変です。これが全ての謎を解き、全てをあるべき位置にあらしめるカギです。” シルバーバーチの霊訓(一)P188


“本当の自分”とは霊の力(生命エネルギー)が肉体をまとって個性を持つようになった霊、これを魂というが、私達はこれが判ったようで実は判っていないのだ。

漠然と、霊あるいは魂というものがあるらしいということまでは何となく知識として理解しているが、我々スピルチュアリストといえどもこの範疇の人が多い。一言で言って、肉体が霊を備えているという程度なのだ。無意識にそう思い込んでいるのだ。もっとひどいのになると、死んだら霊になると思っていたり、死んだら宇宙にある気のような無機質に戻ると思っている人までいる。

シルバーバーチは肉体が霊を宿しているのではなく、霊が肉体を宿しているのだと何度も霊訓でいっている。この認識の差は、実は非常に大きい。主客がまるで逆転しているからだ。

 

それでは“霊こそ実在であるということが、全ての謎を解くカギである”とは一体どういうことであろうか。

いま内戦状態で無法地帯の国がある。大地震で長い間路上生活を余儀なくされている国もある。個人レベルでは大病を患っていたり、社会的地位や名声、お金の有無、エゴ丸出しのドロドロした地獄のような人間関係、生まれ持った容姿の優劣など、千差万別で本当にいろんな環境、条件のもとで我々は日々生活を営んでいる。

自分とは一体何なのか、人生の目的とは一体何なのか、病気や苦労、災難は一体何のためにあるのか等など、迷いながらの人生には常に不安感がつきまとっている。突き詰めると、本当のことがわからない、先が見えない不安から来ているのだと思う。

 

霊界こそが実在の世界であり、他方、霊の力によって創られたこの物質界はある明確な意図を持って創られた一時の夢幻・幻影の世界であるとシルバーバーチはいっている。 そういう意味では霊界からやって来た我々は全て、いま物質界という地球舞台の上での役者であり、男女のそして容貌という舞台衣装を着て、役柄を演じているといえるだろう。むしろ役者になりきってしまって、本当の自分をすっかり見失っているのだ。 但し、その役柄は変えられないほど融通のきかないものではない。“神の子”だから自分の運命(役柄)は、自分の意志で変えられるのだ。

この世には恐怖政治をする為政者役の人、はたまた社長役の人もいるし、その部下役の人もいる、舞台の幕を引く人もいるし、弁当を売る人や切符切もいる。さらには病気の人もいる。霊界から観ると各自が配役を演じているだけで、物質社会の身分(配役)の上下の差は実は一時の幻影であり、それぞれの役柄を演じながら、厳格な自己責任のもと因果律をとおして霊的成長を図っているだけなのだ。霊的成長を図るために配役を交代しながら、成長の種であるカルマをもって物質界に何度も誕生してきているのだ。

 

“霊こそ実在である”と真に理解することができると、霊の実在界からこの世の身の周りの出来事の意味を観るようなり、その結果として全ての謎が解けるカギを手に入れたことになるといっているのだ。

そうなった暁には、“魂の真の満足は内的な静寂と輝きとなって表れます。すなわち真の自我を見出したことから生まれる魂の平安と自信です。魂がその状態になった時を“悟った”というのであり、“神を見出した”と言うのです” と、シルバーバーチはそのあとを続けている。

シルバーバーチの霊訓(一)P189 ページトップへ


(平成27年5月)

霊的成長は孤独の中、自分一人でするもの(平成27年4月20日)

“霊性の開発は茨の道です。苦難の道を歩みつつ、あとに自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。” シルバーバーチの霊訓(一)P111


“最高の宝、最も豊かな宝は、最も手に入れ難いものです。しかもそれは自らの努力によって自分一人で獲得していかねばならないのです。” シルバーバーチの霊訓(一)P111


“知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るということは最後はみな一人でやらねばならない―自らの力で“ゲッセマネの園”に踏み入り、そして“変容の丘”に登らねばならないのだということです。悟りの道に近道はありません。代わりの手段もありません。・・・悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。”シルバーバーチの霊訓(一)P112
(ゲッセマネの園:キリストが最大の苦難と裏切りに遭った場所 ― 苦難の象徴)
(変容の丘:キリストがこの世のものとも思えぬ輝ける姿に変容した丘 ― 苦難克服の象徴)


私も含めて、少なくとも私の霊の友は全員孤独の中、一人で霊的成長をされておられます。但し、それは物的世界でのことであって、守護霊や背後霊とのコミューン(触れ合い)としての交流はいついかなる場所でも常に可能で、そういう意味では一人ではありませんが・・・。
霊的成長は一人でするものであるとは、単に霊的覚醒をされた方が極端に少なく、周りには誰もいないというだけの単純な話ではなさそうです。
一人でなければならない理由は、自由意志の行使のもと厳然たる自己責任の因果律が働いているからで、自らの責任とはいえ、悪霊にそそのかされて霊性を下げることも有りうるからです。
また、霊性レベルが多種多様で個々人によって異なっており、それぞれに守護霊や指導霊による霊性に応じた個別の導き、教育が必要となってくるからでもありましょう。
それは、霊的真理を真に理解、体得するためには、実生活での自らの実体験がどうしても必要となるからです。“霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことになりません。実生活の場で真剣に体験して、初めてそれを理解するための魂の準備が出来上がります。” シルバーバーチの霊訓(一)P63


但し、だからといって他人のことはほっといても良いという話ではありません。叡智や悟りを先にインスピレーションで得た者は、自分一人の成長ために啓示が与えられたのではなく、同時に魂の時期の来た人にそれを伝える責任、義務があるとシルバーバーチは霊訓で何度も繰り返し述べておられます。
これは同胞の霊的自我の覚醒・成長のきっかけのお手伝いをするということであり、そのことが霊界の使者・道具としての役目を果たすことになって、結果として自動的に自らもさらなる成長ができるような利他・協調の摂理に宇宙の法則がなっているからです。


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(平成27年4月)

瞑想・精神の統一 その四(最終回)(2015年3月22日)

前回に引き続き、私の実体験から“瞑想・精神の統一”についてQ&A方式で述べてみたいと思います。


C.霊的摂理の学びと併行して、“瞑想・精神の統一”から得られた私の実体験

Q1:精神の統一によって、どのような変化がみられますか?
A:休みの日は、早朝一時間ぐらい平気で瞑想するようになってきました。
雑念妄念も相変わらずとても多いですが、少しずつですが“頭空っぽ状態”の時間が延びてきました。
一度、宇宙との一体感が感じられましたが、必ずしもこれを求める必要はないと思います。 理由は、このこと自体が執着煩悩となるからです。
瞑想が深まると、両耳の耳鳴り(圧迫感)で始まり、頭の先からピリピリ感が手足の先まで徐々に降下するのが感じられます。そしてこれが周期的に発生します。これは外部から霊的エネルギーが流入し、気となって全身を駆け巡っているのだと私なりに理解しています。具体的には、全身に軽く電気が走ったような感じとか、音楽を聞いて感動し鳥肌が立ったときと同じような現象です。
 
Q2:大霊(神)に対する思いに変化がありましたか?
A:“我とは霊魂である”の自覚が少しずつ進み、時間をかけて徐々に当たり前のことになってきました。あわせて、大霊の分霊であるがゆえに大霊と永遠につながっているとの信念化(信仰)も少しずつですが強くなってきました。


Q3:自分自身がどのように変わってきましたか?
A:自分が永遠の存在であることを自覚し、地上のいかなるものにも傷つけられることはないとの信念化(信仰)が少しずつ強くなるとともに、取り越し苦労や不安、悩みが昔と比べて格段に減ってきました。以前は大変消極心で、性格も暗くとても愚痴っぽかった私ですが、守護霊との二人三脚で、今では一人ではないということも数多くの経験をとおして徐々に理解・体得し、併行して少しずつ摂理に対する信念化(信仰)も出来てきて、物ごとに動じる割合が極端に少なくなってきました。“私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。” 霊訓(一)P63
信念化(信仰)は前進と後退のくり返しで、霊的成長はとても時間のかかるものだなあとつくづく思います。
“内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。” 霊訓(一)P71


Q4:背後霊とのコンタクトは?
A:時々ですが守護霊の声が聞こえるようになってきました。それは丁度良心の声のような聞こえ方(声なき声)で、常日頃いつの間にか自分以外の第三者と明らかに対話しているのです。
同時に、日常生活の中で背後霊の導きが気づきとして直観的に感じられるようになり、インスピレーション、叡智、啓示が必要に応じて入ってくるようになりました。
霊的視野、すなわち“本当の自分(霊魂)”の立ち位置(霊界)から、現象界のまわりの出来事(意図、意味)をとらえ理解する機会が多くなってきました。


Q5:時間の経過が早くなってきます
A:精神統一で“頭空っぽ状態”にあると、時間の経過が非常に早く感じられるようになってきます。私の場合、ざっくりいって約三分の一程度に感じられます。休みの日には“頭空っぽ”の精神統一を1時間程度することが普通になってきましたが、20分程度にしか感じられません。その間、もちろん雑念・妄想念も常時入り混じってきますが、トータルの時間がとても短く感じられるのは、きっと時間の感覚が夢の中のように違ってくるからだろうと思います。
参考として、下記リンク先の「続 いのちの波動」大空澄人氏の“時間とは”(2015.3.12インスピレーション)にも同様のことが書かれてあります。


Q6.私の“瞑想・精神の統一”のやり方は?
A:あくまでも私の場合ですが、以前の“寸感”(平成25年9月、10月)で述べた方法で精神の統一を行っています。多分、これが私にとって一番適しているのでこの方法に導かれたのだろうと思います。
日常、機会があるごとに“頭空っぽ状態”がたとえ2~3秒間でもよいので実践し、必要に応じてその時間を延ばしていけばよいのだと思います。常日頃実施していると、いつでも瞬時に“頭空っぽ状態”にできるようになってきます。
もう一つ大切なことがあります。恩師から教わった方法で以前の“寸感”でも述べましたが、私の場合、瞑想中は務めて“第三の目”に眼球をもってくるというか、あわすようなつもりになります。その方が右往左往している心が安定するからです。

 

≪私の瞑想・精神の統一のやり方≫
“頭空っぽ状態”に慣れていない初期の頃は、小川の流れる音や小鳥の声などの自然音やリラックスする音楽などから有我一念(実際の音に一心に聞き入る)になります。
(ブザーの音や御錀(おりん)の音でもよい)


⇒次に、頭の中の“シーン”という“音無き音”や、親指と人さし指とで輪をつくり、その指先の微妙な脈拍などから無我一念(音無き音に心を傾ける)になり、同時に“第三の目”に目を寄せるつもりになる。


⇒そこから“頭空っぽ状態”の無我無念(何も思わない状態)に誘導します。


・・・これがオーソドックスな私の精神統一のやり方です。


シリーズ“瞑想・精神の統一” 終り 


“宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落ち着きを身につけなければなりません。そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることができます。それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。”

 霊訓(一)P141 ページトップへ


(平成27年3月)

瞑想・精神の統一 その三(2015年2月27日)

今回は引き続き、精神の統一について、シルバーバーチの霊訓からQ&A方式で述べてみたいと思います。
B.Q&A
Q1:“魂の兵器庫の扉を開く”とは、一体どのようなことをいうのでしょうか?
A:●霊訓 一巻 P57:
“何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。”

 

(“魂の兵器庫の扉を開く”とは“瞑想・精神統一をする”ことです。
これはシルバーバーチのいう“宇宙で最強の生命力の源にプラグを差し込む”ことと同じことを指します。
また、この“神の武器”とはもちろん“霊の力”のことを指します。取り出すその武器も霊性レベルに応じたものとなります。

 

ここで注意しなければならないのは、邪心からむやみやたらと無理やりに扉を開こうとしないということです。初めは針の先程の窓、扉ですが、霊的摂理を学びながら、日常のいろいろな苦労や試練を経て霊的摂理の実践を行い、霊性が上がるにつれて、時間をかけて徐々にこの扉が大きく開くようになるのです。当然です。無理やり開くと善霊ではなく、悪霊や地縛霊も入ってくる恐れがあり、憑依されたり悪用されるからです。だからこそ、身を守るために先に霊的知識が必要で、且つ、意味が判らないようにこの“扉”はぼかされて表現されているのです。
繰り返しますが、もって生まれた才能でない限り、この顕幽交通の“扉”の開閉は、各自の実体験の中で霊性レベルに応じて、時間をかけて徐々に広げていくものです。いっきにはいきません。
また、“扉”から霊力がどの程度流れるかは、丁度、スイッチを入れても電流の引き込みには絶縁に近いニクロム線(人間)と、流れの良いゴールド線(人間)の違いがあるように、霊性レベルに応じて流れる量(悟り・叡智など)も異なってきます。)

 

Q2:なぜ、スピリチュアリストにとって、“瞑想”や“精神の統一”が必要なのでしょうか?
A:●霊訓 二巻 P125:
人間が恐れを抱くとまわりの大気を乱す波長を出し、それが援助しようとする霊を近づき難くします。霊的な力が地上において本来の働きをするためには、静かで穏やかな確信――全ての恐怖心が消え、より大きな生命力と調和した光輝が漂い、何が起きようと必ず切り抜けられることを信じ切った、そういう確信が無ければなりません。

●霊訓 一巻 P63:
恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。“

 

(対人関係や、疑い、取り越し苦労、心配、不安、恐れなど、雑念妄想念となる心を乱す要因が世間には溢れています。特に消極的な考えほど、むやみ矢鱈と想像して強くなる傾向にあります。さしあたっての心配が仮に無くても、仕事上の事や日常生活の事が、走馬灯のように雑念や妄想念としてひっきりなしに頭の中で行き交いしています。
こうなると顕在意識の自我が振り回されて、ますます幻影(現象界)に囚われて抜け出せなくなります。そのため、潜在意識下に覆い隠されている“本当の自分”(真我)が出て来れなくなるので、雑念の排除、妄想念離脱のために精神の統一が必要となるのです。丁度、フリーズしたパソコンを、一旦、メインスイッチを切ってスタートに戻すようなものです。)

Q3:精神の統一状態とは、どのような状態になることをいうのでしょうか?
A:“精神統一の気持ちとは、ひと口に言うと、何も思わない状態です。いくらか眠っているのと似ていますが、ずっと奥の、奥の方で自覚しているようなのが少々睡眠とは違います。“
要するに、意識はあるが、“頭の中は空っぽ”になっていること。すなわち、心を幼子のようなくもりのない鏡の面のようにすることです。
前回ご紹介したM・H・テスターの「私は霊力の証を見た」の著書に、背後霊の指導の受け方が繰り返し書かれてあります(P123)。どんな姿勢でもよいから、できるだけリラックスして“魂の静寂”の時をもつ、すなわち“頭の中を空っぽにすること”と書かれてあります。また、別の箇所では“霊媒を通じての直接の交信が出来なければ、前に紹介した背後霊との触れ合いが出来る。これには、”静寂の時“さえ確保できれば一人でも出来る。10分間あるいは15分間ほどやって何の変化も感じられなくてもよい。うっかり寝入ってしまってもよい。それを折にふれて実行していくのである。いつでもどこでもよい。”(P190)と書かれています。

 

Q4:瞑想・精神統一をすると、どのような変化や効果が出てくるのでしょうか?
A:●霊訓 四巻 P212:
となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。その静寂の中で、まわりに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することができます。その宝は使われるのを待ち受けているのです。

 

(精神の統一状態とは、精神が収束した状態で、純一無雑の心になることです。すなわち、小我から大我(本当の自分)へ移行することになります。この状態が心身の統一状態、すなわち霊、精神、身体が三位一体となることであり、囚われが無くなり、 無碍自在の境地、泰然自若 、動中静感となって 自己統御につながってくるのです。)

 

Q5:この無限の宝庫から摂取できる霊力とは?
A:●最後の啓示 P79:
援助は自分の内部と外部の双方から得られるのを知ってください。(霊力は内外から来る)

 

●新たなる啓示 P129:
泉のごとく霊力が湧いて出て、静寂、沈着、平穏、安らぎといったものがもたらされます。
(消極心に対する本当の積極心とは、くそ~と力んだり、せかせかと行動するような活発な活動のことを云うのではなく、不動の心、泰然自若の状態になることを指します。)

 

●霊訓 十巻  P11:
その霊力病気を癒し、悲しむ人を慰め、道を失った人を導き、無知を知識に置き換え、暗闇を光明に置き換え、生きる意欲を失った人には元気を与え、真理に渇いた人の心を潤し、真の自我を見出そうとする人には神の計画のガイドラインを提供してあげます。

 

●霊訓 十巻  P13:
霊力の機能はそれ以外にもあります。日常の生活において他のすべての策が尽きたと思えた時の支えとなり、指示を与え、導きます。

 

●霊訓 九巻  P89:
お二人は霊力という最大の武具を備えていらっしゃいます。それをある時は支えとし、ある時は安息所とし、ある時は避難所とし、ある時は至聖所とし、そしていつも変らぬインスピレーションの泉となさることです。
(生命エネルギーとしての霊力の機能は変幻自在で、さまざまな性質をとるようです。)

 

Q6:では、どのようにすれば精神統一(頭空っぽ)の状態に入りやすくなるのでしょうか?
A:Ⅰ)霊的摂理の知識が必須条件・・・では、どのような霊的知識でしょうか?
●※P196:
自分が永遠の存在であることを知り、従って地上のいかなるものにも傷つけられることはないとの信念に燃える者に、悩みの入る余地はありません。  

 

●※P48:
大霊の計らいに絶対的な確信と信念を抱き、世俗の喧噪から遁れて魂の奥に入り、平安と静寂の中に休らい、不屈の精神に燃えることです。

 

Ⅱ)私の経験から述べますと、精神の統一状態に入りにくい理由として、過去の嫌なことや将来の取り越し苦労などを背負ったまま、そのままで“頭空っぽ状態”に入ろうとしているからです。顕在意識の自我に雑念妄想念があると、潜在意識下の“本当の自分”(真我)が出て来られないのです。
ここは開き直って、過ぎ去った過去は元に戻せず、将来のことは背後霊にまかせることにして、ただ今、生きていることのみ喜び感謝すればよいのです。今あるがままの状態で“頭空っぽ状態”に入ればよいのです。必要なことは、一度に一日ずつを生きればよく、“ただ今を精いっぱい生きる”という心境になると、“頭空っぽ状態”に入りやすくなります。
今の問題も3000年後、霊界から振り返ってみると、どおってことはないのですから。

 

―マトメ―
霊的摂理に基づいて、我とは永遠不滅の霊魂である。そして今この現象界に霊的成長のため修行に来ているのだ、との自覚をもち信念化すること。
また、ただ今日一日のみを精一杯生き、天命(摂理)に従い、天命(摂理)に処し、天命(摂理)に安住するという心境になることです。

 

Q7:体力減退した場合でも、元気を回復することができるのでしょうか?
A:●シルバーバーチ 最後の啓示 P138
人間は肉体をたずさえた霊なのですから、宇宙で最強の生命力の源にプラグを差し込むことができます。心の姿勢一つです。それができれば、疲弊しきった身体に再充電することができます。

 

Q8:なぜキリスト教やヨガ、仏教でいくら瞑想しても真の目的(①~③)に至らないのでしょうか?
A:霊というだけでオカルト扱いし拒絶するなど、基本的な霊的摂理の知識ですら皆無だからです。
まずは霊的自我の覚醒、“本当の自分”が霊魂であることに気づくことが最も大切であるのに、自ら偏見という牢獄の壁を作ってそこから外の世界(霊界)に一歩も出られなくしているからです。


次回に続く

 

 

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(平成27年2月)

瞑想・精神の統一 その二(2015年1月21日)

精神統一の目的・意義の二番目の“背後霊とのコンタクト”は、我々スピリチュアリストにとって人生を変えるかもしれない程のとても大切なポイントです。今回の“寸感”はそのことについて述べてみたいと思います。

近藤千雄氏が三大霊訓に次いで読んでほしいと薦めた本の著者で、シルバーバーチの交霊会にも何度も参加し、直接教えや導きを受けた英国の有名なスピリチュアル・ヒーラー、M.H.テスター氏がいる。彼の著書の中で何度も繰り返し説明されているが、シルバーバーチのいう“宇宙の生命力の源にプラグを差し込む”方法とは、精神を統一し、“頭を空っぽ”にすることだったのだ。精神統一は、インスピレーションや霊力、背後霊からの導きを得る非常に大切な手段なのだ。
そこで少し長くなるが、その著書(「背後霊の不思議」 近藤千雄訳 潮文社)からそれに関連する箇所を引用してみよう。

●P45  ホンの数分間でいいから静かにしていられる部屋を選び、上着をとって横になる。安楽椅子に腰かけるのもよい。男性はネクタイをゆるめ、ベルトをはずす。女性であれば、身体をしめつけるような肌着をとる。次に明るさは大なり小なり刺戟性があるのでカーテンで部屋を薄暗くする。左右の手を重ね、足を交叉させ、目を閉じ、眼球の力を抜いて動きにまかせる。この状態で深呼吸をする。ゆっくりと吸い込み、ゆっくりと吐き、吐いたあと、次に吸い込むまで少し間をおく。これを数分間くり返す。以上である。これが精神を落ち着かせる最上の方法である。というのも、こうした所作によって身体のコンピューターは休めの司令を発し、生理機能が調和を取りもどすのである。
これで、あなたはいわば落ち着いた冷着な人間のマネをしたわけである。それでよいのである。これを必要と思った時に、何回でも繰り返すことである。そのうちこれが習性となり、本当に落ち着いた人間になってくる。

 

●P77 問題はいかにしてその霊魂と交信するかである。それでは次にその方法をお教えしよう。・・・・
精神統一の方法について私はこう述べた。すなわち静かな部屋を選び、窓のカーテンを引いて薄暗くする。男性は上着を脱ぎネクタイをゆるめベルトをはずす。女性は身体をしめつけるような下着は着がえた方がよい。クツも脱いだ方がよい。すわり心地のよいイスでゆったりとくつろぐ。
さて、その状態であなたが今かかえている問題を声に出して述べる。人に話しかけるような調子でしゃべる。そして、今まで自分なりに最善をつくしてきたつもりだが、自分一人の手に余るのでよい知恵を授けていただきたい、とお願いする。
そうお願いしてから頭の中を空っぽにする。実はこれがなかなか難しい。何も考えまいとするとかえって余計な雑念が湧いてきて、それを払いのけようとするとますます絡んでくる。そんな時は何も考えまいとするよりも、いっそのことその逆をいって、ある一つの考えに集中した方がよい。たとえば白いバラの花を想像してそのイメージに全神経を集中するのである。バラの花はおそらく、あなたの人生の悩みには何の関係もないはずである。だからいいのである。悩みごとに関係のある事物はいけない。それが先入観となって背後霊からの通信を邪魔するからである。
そうやってバラの花のイメージを思いうかべながら静かにしていると、身体がくつろいでくる。ウトウトと軽い眠りにおちる人もいる。それでよい。やがてわれに戻ったら立ち上がって大きく伸びをして、身支度をキチンと整え、冷たい水を飲む。何とも言えないサッパリとした気分になる。これであなたは背後霊に心の窓を開いたことになる。言いかえると背後霊との間に心の触れ合いができたのである。この触れ合い(コミューン)が大切なのであって、語り合い(コミュニケーション)はかならずしも必要でない。コミュニケーションは特殊な霊能がないとできないが、コミューンなら誰にでもできる。またできるだけ多くその機会を持つ必要がある。いま説明したやり方がその一つであるわけである。
背後霊とのコミューンをもつと非常に気持ちがよくなり、イライラした緊張感がほぐれてくるのが普通である。それもそのはずである。今までかかえていた難問を背後霊にあずけたことになるからである。が、その回答つまり背後の援助がいつどんな形であらわれるかはまったく予想がつかない。二、三日するうちに人が変わったように考えが変わってしまうこともある。インスピレーション式に頭にパッと解決方法がひらめくこともある。何の気なしにやり始めたことが、解決につながっていることもある。あるいは事情が急に変化しておのずと解決してしまうこともある。いずれにせよ、背後霊からみてあなたにとって一ばん戒めなければならないのは、自分の欲にこだわって、こうして欲しいああして欲しいと、勝手な要求を出すことである。

 

●P86 心霊知識をよく身につけた上でないと霊的生命源にむやみにプラグを差し込むのは危険このうえない。・・・
さて、煩雑な日常生活を忘れて静かに精神を統一することは、背後霊との触れ合いの機会を与え、必要な援助をうけ、生命力を体内に流れ込ませることになる。触れ合いに成功したあとの気持ちはさわやかそのものである。一度その味をしめると、悩みというものから縁が切れる。自我へのこだわりを棄てるからである。悩みこそが体内の生理的バランスを崩す大敵であることはすでにのべた。それがきれいに消えてしまうのであるから、緊張がほぐれ、バランスが回復すると同時に、精神的に生まれ変わったような気分になるのも当然であろう。
この精神統一を少なくとも一日一回行い、同時にさきにのべた心の姿勢に気をつければ驚くほど元気になり壮快になる。これを繰り返すうちに、やり方にこだわらなくなる。さきに白いバラを想像して意念を集中しろと言ったが、その必要がなくなる。次に時と場所にこだわらなくなる。いつでもどこでも、たとえば仕事場でも列車の中でも、あるいは停車した車の中でも、まわりの世界から遮断し、魂の奥深くもぐり込むことができるようになる。つまり生命の源に、いつでもどこでもプラグを差し込むことができるようになるわけである。背後霊というのは我欲から出た要求でなければ何でも聞いてくれる。要求を妥当とみると、それに必要な措置をいろいろと講じてくれる。

 

●P96 まったく無知のままでいるのも気の毒であるが、こうして私の体験を読むことによって、こんなすばらしい真理があることを知ったあなたが、それを単なる一片の知識としてしまっておくのもまた実にもったいない話である。あなたもみずから体験してみてはどうであろうか。そう、生命の源に自分でプラグを差し込んでみることだ

 

●P179 無我の境地に入れば、当然そこに背後霊からインスピレーションがひらめく。

 

●P180 本当に我欲を捨て切り、無我の境で精神を統一すれば、その時点における最善の策が一瞬のうちにひらめくはずである。もしもひらめかなかったなら、あるいはその策を採用してうまく行かなかったとしたら、その原因は精神の統一が充分でなかったか、それとも完全に無我になりきっていなかったかのいずれかである。
精神統一には訓練が必要である。また我欲を捨てるということも容易なわざではない。
が、ぜひともやらばければならないことであり、修得すればこれほど価値のあるわざはほかにないといってよい

 

●P185 今もし、何かの問題をかかえて判断に迷っているのなら、ただちにこの本を閉じて、その場で黙祷して心を空っぽにし、背後霊に知恵をお願いすることだ。

 

●現代人の処方箋 M.H.テスター 近藤千雄訳 P79
人間には例外なく背後霊がついている。その中に一人ないし複数の、とくにあなたと連絡がとりやすい霊がいて、その霊が取り次いでくれる。別に霊能者は必要ではないのである。
身体を締めつけるような衣類(コルセット、ドルト等)をはずし、思い切り寛ぎ、お気に入りのイスに腰かけ、部屋を少し暗くして、騒音を遮断する。そうした環境の中で日常生活の物的な煩わしさを一切忘れて瞑想する。これが背後霊との連絡に最も理想的な状態である。
もとより、霊の声を聞くとか姿を見るとかの現象は起きないかもしれない。幻想的な光の変化を見たとか、草原が燃えるシーンを見たとかの話にはならないかもしれない。
そういうことは、実は、無用なのである。背後霊はコミュニケーション(通信)ではなくてコミューン(交わり)によって指導するのである。導き、慰め、援助、その他、あなたに必要なものがどこからともなく得られることに気がつかれるはずである。
霊的援助はそうした形で得られるのであって、人間的努力を省くために霊能者に頼ろうとするのは、霊的能力の悪用である。

 

以上、長々となりましたが、精神統一、すなわち“頭を空っぽ”にする目的・意義を列記してみました。
スピリチュアリストにとっての瞑想・精神統一は、日常生活でのりっぱな霊的摂理の実践行為になるのです。このホームページを見に来られるくらいですから、すでに霊的知識をお持ちだとは思いますが、“シルバーバーチの霊訓”を通して霊的摂理の学びをしっかりと行い、精神統一も合わせて行っていると、その内あなたの守護霊からのインスピレーションや導き、悟り、守りを自ら実体験できるようになってきます。もうその時から、あなたは一人ではなくなります。
すなわち“死によって隔てられた二つの世界の交信を可能にしてくれる霊的法則の存在を知った者”といわれるようになるのです。

P123 シルバーバーチ不滅の真理


次回に続く

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(平成27年1月)

瞑想・精神の統一とは(2015年1月2日)

 「瞑想」について以前にもこの“寸感”で述べましたが、そちらの方も参考にしていただきながら今回のものを読んでください。また、大空澄人さんの「続 いのちの波動」のカテゴリの “真理を求めて” の中の “瞑想の心得” (2014.02.02)と、“再び、瞑想の話” (2014.02.22)を参考にしてください。
今回の寸感のテーマは非常に重要なテーマではありますが、あくまでも“シルバーバーチの霊訓”から得た知識を私なりに解釈したものであって、やり方を含め色々な方法や考え方があるようです。もしも私の経験や体験から得るところがありましたら参考になさってください。今回も何回かに分けて述べます。

 

[はじめに]
世間一般では瞑想と精神統一は、ほぼ同じ意味に使われている。
瞑想とは神やイエス・キリスト、マリヤ様の事を考えたり、または念仏やマンダラなどを一心に唱えたり、心に出てくることを第三者の立場で客観的に観察するなど、いろいろとそのやり方や意義・目的について云われているが、これ一つというものは無く、宗教・宗派によって異なっている。
しかしながら、霊的摂理に基づくスピリチュアリストの瞑想や精神統一の意義・目的は、これらとは根本的に異なっている。


[スピリチュアリストにとっての瞑想・精神統一とは]
Ⅰ)スピリチュアリストの瞑想とは、霊的知識をベースとして、覚醒しながら仮相の小我(仮我)から、実相の大我(真我)の世界へと移ることにある。
一言でいって、覚醒しながら物質界から霊界に移ることにある。


Ⅱ)スピリチュアリストの瞑想・精神統一が、世間一般の瞑想と根本的に異なる点は、その目的(以下の①~③)にある。

 

では、
A.スピリチュアリストの瞑想や精神統一のやり方(青文字)と、その目的(①~③)を、“シルバーバーチの霊訓”から引用してみよう。   ※は古代霊シルバーバーチ 最後の啓示より引用
● ※P169:
その才能を最高の水準にまで高める努力を真剣に行わないといけません。
そのためには手にした知識を日常生活の中で実践しないといけません。
また瞑想と精神統一を実修しないといけません。 

● ※P48:

本質的には人間は大霊と一体です。霊性においてつながっているという意味です。
ですから、心配、不安、悩みといった低級感情を消し大霊の計らいに絶対的な確信と信念を抱き、世俗の喧噪から遁れて魂の奥に入り、平安と静寂の中に休らい、不屈の精神に燃えることです。精神を統一するにはいろいろな方法があります。いずれにしても、決して容易ではありません。が、修行の努力は必ず報われます。

● 霊訓 七巻 P101:

心を空にして穏やかな気持ちの中で精神を統一するだけで十分です。
その統一状態の中で①霊の力が働くのです。
そうした静かな精神状態というのが、物的生活に振り回されている騒々しさに一時的なストップをかけることになります。そのわずかな時間を霊性の開拓と、自宅内での②霊的存在の認識へ向けたことになります。地上の人間は静かな精神状態をもつことの効用を十分に認識しておりません。私がよく申し上げているように、あなた方にとって無活動の時が私たちにとって活動の時なのです。あなた方が静かに受身の心でじっとしている時が私たちにとって一ばん近づきやすいからです。
(その直前にこうも述べている。)
②背後霊とのつながりを求めたとえ表面的には何の反応もなくても、霊的にはかならず何かが起きているものです。


● ※P67:

疑念が湧いた時は、その思いをそこで押し止め、精神を静めて、魂の奥に引っ込むのです。③本当の自我である霊性が道を教えてくれます。 

 

ここでいう精神統一とは、“心を空”にすること。すなわち、頭空っぽの無活動状態で静寂の中に入ることである。


次に、瞑想・精神統一の三つの目的とは、
霊力の流入 ⇒ ●最後の啓示P34:霊力が霊界との間にできたリンクを通して流れ込みます。

背後霊とのコンタクト ⇒ オーラを乱している顕在意識の雑念妄念を取り除き、潜在意識で背後霊との一体化、調和を図ることにある。不滅の真理  P80~82


霊性の発現 ⇒ 真我が発現してきて、良心の声が聞こえやすくなる。


次回に続く

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(平成26年12月)

本物の霊能者とは(2014年11月17日)

 世間でいう霊能者とは、五感の延長であるサイキック能力も含めて、霊が見える、霊の声が聞こえる、医者から見放された病気でも治せるなど、霊視、霊聴の能力を有する者やスピリチュアルヒーラーのことを一般的に指している。
これらの霊能力は本人にとっては意図せずに発現するなど、持って生まれた能力によるところが大きく、丁度、絵や音楽などの芸術の才能と同じものなのだ。

 

昨今、巷ではやっている霊能力養成講座なども、英会話教室や絵画教室同様、サイキック能力を主体とした、これらの能力開発・向上を目的としているようだ。

 

以前、スピリチュアルヒーラーの元祖のような霊覚者の教えを引き継いだ日本講演に参加したことがある。まるでアイドルのコンサート会場のように数百人の若い人々の熱気で会場は溢れ返っていた。中高年といえば大阪から来た我々夫婦他数える程度で、場違いのようにさえ感じたが、教えそのものというよりも霊能力開発に憧れて来ているように思えた。関西でもその聖人の名を冠した勉強会を我々が定期的に主催したが、霊が見える、声が聞こえる、予知能力があるという人々の参加や、スピリチュアルヒーラーに憧れて来た人達が多く、一種の霊能力養成講座と勘違いされて来られたのではないかと思われた。その点、霊的摂理・真理のみを学ぶシルバーバーチ読書会とは明らかに異質なのだ。主催者の一人である私自身は霊が見えるわけでもなく、サイキック能力やヒーリング能力もないので、霊が見える人からは霊能力もないのに勉強会を主催しているといわんばかりで、小バカにされたことがある。この勉強会は案の定、ひっかき回された揚句、途中でおかしくなって解散せざるを得なくなった。この勉強会から判ったことは、霊が見える方や感じる方は、我々凡人よりも霊性が高いから見えるのだという自負心をご本人はお持ちのように感じられた。もちろん例外もあり、この“寸感”の下にリンク先として掲載している“続 いのちの波動”の大空澄人さんのように、霊的知識をしっかりとお持ちで、霊的摂理の普及のために霊界の良きエージェントとして、真摯にその霊能力を最大限有用に使っておられる方も居られるのも事実だ。

 

他方、シルバーバーチは誰にでも霊能力があると霊訓でいっているが、はたしてこれら特殊な能力のことを指しているのだろうか。
このことに関して、“シルバーバーチ最後の啓示”の第二章 二人の“ドリス”の中から引用してみよう。ちなみにこの二人の“ドリス”は共に英国の有名な女性霊媒である。

 

“大霊の大事業に霊界から参加し、地上人類に本来の生き方を教えることに献身している霊たちは、あなたのような方を通して仕事をするのです。あなたのような才能を身につけた方を通して働く以外に方法はないのです。地上の指導者であるべき人たちが何もできずにいるとき、あなた方は悲しみに暮れている人、病気に苦しんでいる人、悩みを抱えている人、生きる目的を見失った人に解答を授けることができます。崇高な霊力のチャンネルとして、そういう人々の霊性に働きかけて、本来の機能を取り戻させることができます。それは霊能者にしかできない仕事です。大霊に奉仕するという特権を授かっているということです。” P61

 

“今この部屋にいる私たち一同、および霊界で同じ仕事にたずさわっている同志たちも、みなこの崇高な計画の一翼を担っているのです。その目的とするところは、地上の人間に本来の生き方を教え、肉体と精神を存分に発揮すると同時に、本来の自我である霊性をよりいっそう顕現させるように導くことです。かくして得られた人生の目的についての悟りは、本来はエデンの園であるべきでありながら今や身の毛もよだつ恐ろしい唯物病に冒されている地球を救済するための手段でもあるのです。” P36

 

このように霊力は、大主教や主教や法王、司祭や牧師などを通してではなく、あなたのような、ごく普通の人間でありながら崇高な愛や叡智や霊力をあずかることのできる人を通して地上へ顕現されるように計画されているのです。” P37

 

私たちは地上人類の本来の姿、すなわち物的身体を通して自我を表現している霊的存在であることを教えてあげることができます。その生活の中で最優先するべきものを優先し、霊的原理に基づいた生き方をしていれば、かつて経験したことのない生きる喜びを見出すことになります。地上人類の最大の問題点は、大霊よりも黄金の子牛(金銭)を崇拝の対象としている者が多すぎることです。欲の皮がつっ張れば霊性はしぼみます。霊性が第一であることを一人でも多くの人に説かないといけません。地上のいかなる財産も、この世かぎりのものです。来世まで持って行くことはできません。” P63

 

地上生活の目的の一つは霊的意識の覚醒です。” P44 

 

たとえスピリチュアルヒーリングで肉体の病気そのものは治っても、霊的覚醒にまで至らなければその治療は失敗だったとまでシルバーバーチはいっている。その理由として、シルバーバーチの使命は、“こうしてお届けする霊界からの真理の言葉によって地上の人々が本当の自我の存在に気づき、霊的に目覚めるように導くことです”にあるからである。だからこそ、奇跡によるのではなく、真理の言葉で理性に訴える霊的摂理一筋で、60年間も押し通したのだ。

 

以上、縷々述べてきたが、要約すると、霊視・霊聴をはじめ霊媒現象も、スピリチュアルヒーリングもいわゆる霊能力といわれるものを使用する真の目的は、本当の自我に目覚める霊的覚醒のためにあるのだ。霊能力の目的とするのは、それを使って霊的意識の覚醒を促すための道具として霊界から用いられることにあるのだ。具体的にいうと、霊界からの支援・要請・導きを受け、我々が霊的知識をとおして、霊的覚醒を促すための霊的エネルギーやインスピレーションを相手に注ぎ込む通路、道具となることなのだ。このことが取りも直さず、物欲第一主義の戦場で、霊的解放のために闘っていることになるのだ。
この霊的意識覚醒のための良き道具となっている者こそ、真の霊能者なのだ。これなら何も霊視や霊聴、ヒーリングなどの特殊な能力は必要でなく、霊的自覚さえあれば誰でも真の自我に目覚めさせるための道具、さらには魂を救うスピリチュアルヒーラーになれるのだ。
本物の霊能者になるためには、巷にあるような霊能力養成所などいらないのだ。

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(平成26年11月)

永遠不滅の“本物の宝物”とは・・・(2014年10月29日)

 私たちは、霊的真理・摂理というものの真の価値を本当に理解し、日常生活で常に自覚・実践しているだろうか?
霊的摂理を知識としては知っていても、ややもすると日常生活で適用していない自分がいることに度々気づかされる。特に、世間的にみんなが憧れ、ちやほやし、もてはやされるような華やかな舞台や場面では、眼が眩まされて霊的知識も影がとても薄くなってしまう。今月の叡智の言葉にあるように幻影のマジックに罹っているともいえるが、五感でストレートに感じているからだ。自分自身のパワー、能力、価値を五感で感じている現象界の自分(仮我)のみにおくのか、霊魂としての“本当の自分(真我)”におくのか(霊主肉従)の正にせめぎ合いである。この世にあって、この世に属せず。霊的知識をもって、この世にありながら俗世に染まない生き方が本当にできているのかどうかが、常に問われているのだ。
時間が経てば自分に代わって誰かがやっているだけで、色褪せて人々の記憶からも消え去るような一時的な栄華ではなく、時を超えて輝き続ける本当の価値、本物の宝物とは一体何なのだろうか。
 ちなみに、ここで広く世間が人生の目標としてその価値を認め、羨ましく思うものを思いつくまま列挙してみよう。お金、大会社経営、社会的地位、名声、学識、能力、健康、美貌、若さなどなど。
 私は男性だからつい男社会が求めているものが中心となってしまったが、女性にとっても共通する点があると思う。もちろん小さな単位として家族団らんの家庭だけで十分満足という人もいるだろうが、霊的知識を持っていても、世間が羨むような華やかな場ではどうしても当事者と比較して物的優劣を比べてしまい、つい自分の立ち位置が見えなくなって、みじめな思いをすることが時々ある。いつの間にか本能的に世間的な物差しで比較している自分がいるのだ。もちろん努力の結果としての成果を、軽視しているわけではない。命をかけてまで、全力でエネルギーを注ぎ込んで取り組んでいるからこその成果であろう。何事も努力なしでは達成できないものだ。

 

 これらこの世での栄華がある一方で、むしろ私たちは霊的摂理に本当の真価を置き、本物とは何かを常に真剣に求めているのも事実である。しかし、死んだら全ては終わりと思い、物的なもののみを追い求めている者にとっては、この霊的摂理など何の価値もないどころか、むしろいかがわしい、怪しげなまやかしものにさえ見えていることだろう。今まで特段の必要性を感じてこなかったので、偏見でみて調べもせずに頭から否定しているのである。しかしながら、五感にはたとえ見えなくても、また機器では計れなくても、愛や憎悪などの意識は現に実在することは、いくら唯物主義者であろうとも否定のしようがないだろう。霊の世界は意識の世界なのだ。
私の人生80年とすれば、年だからあきらめたと思われるかもしれないが、世間の人々がもてはやす華やかな立身出世のようなものには、もはやエネルギーの無駄遣いは一切したくなくなってきた。所詮、持っていけるものでもなく、ちっぽけな一時的な世間的評価もはかないもので、時と共に色褪せ人々の記憶から消え去るのは目に見えているからだ。現に私の周りでも、当時は大いにブイブイいわせ、綬勲を受けて都内の超一流ホテルで祝賀パーティーを開催するような業界の大物達も、過去の人となるとすっかり人々の記憶から消え去ってしまっているのだ。話題にすらならない。世間では文字通り、死んだら全て終わりなのだ。

 

 この死んだら全て終わりと思っているのと、自分自身が神の分霊であり、この世の人生は修業であって、死後も永遠に生き続け、強力な守護霊の護りと導きがあるのとは、日常生活を生きていく上で考え方には天と地ほどの違いを生むことになる。価値判断の物差しが全く異なるどころか、一言でいって真逆になってしまうのだ。今の現象界の人生は一時的であり、とてもつらいと思っていたことが、実は死後にそなえての霊的成長のために必要な恵みであったことに気づくのだ。
だからこそ、疑い、不安、心配、悩み、取り越し苦労などの邪念は、霊界から支援として送られてくる霊力の流入の妨げになるので一切持たないこと、とシルバーバーチは繰り返し何度も述べているのだ。
但し、これは理屈ではないのでなかなか簡単には身に付かず、日常生活をとおしての数多くの実体験を繰り返すことによって徐々に強固な基盤になるもので、いわば知識に基づいた信念が確信に至るには時間のかかるものなのだ。霊的摂理に気づいては現象界に引き戻され、また気づいては引き戻されのくり返しで、気づいたからといって、霊的成長は決して一足飛びにいくものではない。但し、だから私はダメだと思う必要は絶対にない。赤ちゃんだっていきなり歩くことはできないのと同じだ。永遠に輝き続ける霊的宝物はそう簡単には手に入らないものだが、随分と人生の見方が変わり重荷も軽くなることを私の経験から明言できる。スピリチュアリズム無しの人生は、星もない漆黒の暗闇に漂う、どこに向いているのかさえ判らない羅針盤の無い船と同じだ。

 お互い、持って帰れる永遠に色褪せない“真の宝物”とは何かを、片時も忘れずにいたいものだ。

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(平成26年10月)

我は神なり

 “我とは霊魂なり”だけでも、五感には感じられないのでとても理解・自覚することは大変だが、“我は神なり”となると、とんでもなく理解・自覚が難しいように思える。そんなことを公言する人には、警戒を要するか、とても胡散臭く感じるのが世間一般の常識だろう。特に、唯一の神の子として“イエス・キリスト”しか認めないキリスト教世界では、こんなことをいったものかは、少し前までは間違いなく魔女狩で火あぶりの刑にされるのがおちだ。さすが人類も進歩したものだが、火あぶりの刑にはならなくても、気がおかしくなったと思われ、相手にされないのは世界共通で今も変わらない。

 

 しかしシルバーバーチは、“本当の自分”(真我・インディビデュアリティ)を見出した者は、神をも見出したことになる、と明確に霊訓でいっている。同時に、霊訓には私たち一人一人は“神の子、神そのものである“ともよく出てくるが、いくら知識として聞かされていても”私は神だ”と思えないのは、なにも私一人では決してないと思う。
理由は簡単である。以前の寸感でも話したが、頻繁にでてくる霊性心とは真逆の悪の心や、間違い、取り越し苦労、心配、不安、恐れの絶えない“意識している自分”(仮我・パーソナリティ)が、我々のイメージしている完全無欠な“神”と同一とは、到底思えないからだ。中には平気で幼な子を殺す者もいて、神と思えないのは当然と言えば当然すぎるぐらいである。

 

 しかしながら、たとえ人生が思うようにいかず全くの非力で、欠点だらけの我が身ではあっても、我々人間も宇宙同様、神から生まれた存在だ。その証拠に決して摂理(法則)の枠外で生きているわけではない。そうでなければ、たまたま偶然に生まれ消滅することになるが、宇宙の法則や森羅万象がたまたまの偶然とは私には到底思えない。
そうではなく万物は、生命エネルギー(霊力)があるから形態として存在でき、我々自身にも霊力があるから思考でき、肉体も存在できているといわれている。以前の寸感でも述べたが、その生命・霊力、そしてそれが支配する法則が神そのものだとシルバーバーチはいっている。そうなると摂理(法則)の海の中で生きている我々の内にも外にも、当然、摂理・霊力としての神が内在しているといえるだろう。
さらに法則の範囲内ではあるが、個性を持ち善悪を行使する自由意志(殺人や自死さえ行える)と、その結果としての自己責任が求められ、神同様、普遍的な愛や創造発展(進化向上)をする力も潜在的に有していることは明らかである。また、地球上では神を意識することができる唯一の生物であり、地球上の他の生命体とは明らかに区別されるのだ。きっと神でなければ神という概念さえも持ち合わせていないだろう。
いろいろと大変理屈っぽくなったが、こう考えるとたとえ霊性レベルは宇宙で最低だといわれていても、“真の我”は意志(個性)をもった霊(個霊)、ミニチュアの神そのものなのだ。神の子だからこそ創造や進化発展に寄与し、神の遺産の相続権があって、魂の兵器庫の扉を開き神の武器(霊の力)を取り出すことさえ出来るのだ。

 

 丁度、神(大霊)を海に例えれば、肉体という土のコップにすくい取られた海水といえども、極少の海の一部(分霊)であることには変わらないのだ。物質界では波動の粗いコップの中に精妙な波動の本体(真我)が閉じ込められているので、その霊性を不完全な形で外部に表現しているだけだという。幸いなことに、このコップの中にすくい取られることによって始めて個性(パーソナリティ)を持つことができ(個霊=魂)、同時にこの不自由な肉体をとおして効率よく霊魂の修行にもなっているようだ。
今置かれている“仮の我”(パーソナリティ)の状況や霊的成長度がたとえ無きに等しい、また殺人者といえども、我々はコップの中に“存る”という状態だけで大霊の一部、分霊そのものであり、その霊は始めもなく終わりもない元々“在りて、在るもの”なのだ。それは神の子、ミニチュアの神(分霊)そのもので、霊に成るための条件などは一切なく、初めからそうなのだ。“その大霊と同じ神性をあなたも宿しているという意味において、あなたも神なのです。本質において同じものです。” シルバーバーチ不滅の真理 P50

 

 これに関連して聖書の放蕩息子の話をしよう。大地主の父のもとには二人の息子がおり、常にそばにいて父を助けている兄(天使)とは違って、弟は財産分けを自ら父に申し出て家を出るのである。いわば人間として肉体をまとって自らの意志で物質界に下りてくるのである。
好き放題、勝手気ままに莫大な親の財産を散々浪費して贅沢三昧をしたあげく、これ以上浪費するものが無くなり、誰からも相手にされなくなってしまった。挙句の果てに何とか頼み込んで豚小屋に住み込ませてもらい、豚の世話をして生活をするまでに落ちぶれてしまったが、金もうけ主義の雇い主はケチで、豚の餌さえも満足に食べさせてもらえず、とてもひもじい思いをするようになった。そしてこの世界では何も頼るものが無いと気づいた段階でやっと目がさめ、父の家では僕(しもべ)でも三度三度の食事が出来ることを思い出し、父に許しを請い、せめて僕としてでも雇ってもらおうと誕生の地に帰るのである。父はいまだ遠くにいたにもかかわらず放蕩息子を見つけ出し、大急ぎで駆けつけて息子を許し、しっかりと抱きしめて、早速、従者に命じて身体を洗わせて真新しい服を着せ、失っていた息子が帰ってきたと大祝宴を催すという譬話である。
ここでいう放蕩息子とはまさに我々自身のことで、世間知らずで祝宴に不満げな兄よりも、俗世の苦い経験をとおして善悪、甘いも辛いも知りつくした弟の方が父の心により近づいたと言えるのである。この物質界で我々は今まさに同じストーリーを実体験しているのだ。

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(平成26年9月)

泰然自若

先月の寸感の続きになるが、“内部から湧き出る霊力”は、いかに自分を取り巻く環境が地獄の様相を呈していても、心の中は泉のように湧き出る霊力のおかげで静寂、平静、泰然自若になることができるという話であった。これは具体的に言って、どういうことなのだろうか。また、どうすればそのような心境になれるのだろうか。私なりに考えてみた。


古代霊 シルバーバーチ不滅の真理 P171より以下引用します
“私の見解はどうしても地上の説とは違ってきます。皆さん方はどうしても物的観点から問題を考察せざるを得ません。物的世界に生活し、食糧だの衣服だの住居だのといった俗世の問題を抱えておられるからです。そうした日々の生活の本質そのものが、その身を置いている物的世界へ関心を向けさせるようになっているのです。日常の問題を永遠の視点から考えろと言われても、それは容易に出来ることではありません。が、私たちから見れば、あなた方も同じ霊的存在なのです。いつ果てるともない進化の道を歩む巡礼者である点は同じです。
いま生活しておられるこの地上が永遠の住処でないことは明白です。これから先の永遠の道程を思えば、地上生活などはほんの一瞬の出来事でしかありません。私たちの視界は焦点が広いのです。皆さんからお受けする質問も、霊的真理に照らしてお答えしております。その真理が人間生活においてどんな価値をもつか、どうやって他の同胞へ役立てるべきか、どんな役に立つかといった点を考慮しながらです。
これまでの私は、私の説く真理が単純素朴なものであること、唯一の宗教は人のために自分を役立てることであることを、皆さんもいい加減うんざりなさるのではないかと思うほど、繰り返し述べてきました。私のたちの真理の捉え方が地上の常識と違う以上、そうせざるを得ないからです。
大半の人間は、地上だけが人間の住む世界だと考えております。現在の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで物的なものを、いずれは残して死んで行かなければならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。戦争・流血・悲劇・病気の数々も、元はといえば、人間が今この時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂なのです。それが、地上という物質の世界での生活を通じて魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。


霊的視野で捉えることは、この物質界では容易ではないとシルバーバーチも認めているので、正直ほっとする。本当にそんなに簡単ではないと思う。霊魂が存在することは過去の一連の調査で証拠写真まで存在するので、事実だろうと理解している。しかしながら、頭では“我とは霊魂である”といくら理解しているつもりでも、仕事や対人関係なども含めて日常生活に追い回され世俗の難しい問題に直面すると、ついついそのことをすっかり忘れて、いつの間にか世間常識に基づいて価値判断している自分がいることに度々気づかされる。
何事もない平穏なときに神や霊魂を信じることはたやすい。お腹が満腹なときに他人に食べ物をお裾分けすることもたやすい。しかし“日常生活で霊的真理を実践する”とは、俗世の逆境にあるときにこそ、必要なのだ。世間でも、一寸先は闇、何があるか判らないのが人生といわれている。本当に明日はどうなるか判らないほど、不安定な状況に思える。移りゆく相対の世界で、不変、永遠のものがこの物質世界にはないと思えるからだ。だからこそ、何とはなしに心配、不安感がいつも心の底にあるのだ。
それでは霊的知識を学んだ我々はどうすれば良いのだろうか。
自我から離れて、この果ても知れない大宇宙を支配している法則、自然の法則・摂理に全幅の信認を置くことだ。自分の「生」そのものの基礎を宇宙の法則に置くのだ。視野の狭い、今意識している自分(自我・仮我)の判断など、たかがしれている。周りの影響を強く受け、常に揺れ動いている不安に満ちた心だからだ。神とは法則ですとシルバーバーチもいっているように、外界の自然法則なら五感をとおして身体でも感じ取ることが出来る。この永遠不滅の自然・宇宙の法則に自分の全信認を置けばよいのだ。
規則正しい法則として宇宙を維持している力は、必ずある。決して混沌とした宇宙ではない。意識している自分自身の存在は、生命エネルギーがあればこそ思考ができるのだと思う。また、生命同様、愛というものも存在していることもわかる。この生命エネルギーや宇宙の法則として働いている力を、シルバーバーチは霊の力と呼んでいる。そしてその力にも法則・摂理というものがあり、シルバーバーチは霊的摂理といっている。霊的摂理である“神は愛であり、愛は摂理を成就する”ことや、因果律のこともよく理解できる。
地上というところは、権力やお金などの物的なものが心・精神を支配している世界であり、精神が物質を支配していないとシルバーバーチはいう。コロコロと常に動き回る不安定な心、すなわち風向きで常に形を変えている砂地の土台の上に自分自身のよって立つ基盤を築かずに、永遠不滅、不動の宇宙の摂理に自分自身のよって立つ土台、すなわち岩盤の上に基盤を築くことにしよう。ああでもないこうでもないと、常に物的なものに影響され揺れ動く自分の心よりも、太陽は輝き続け、地軸を中心に地球は回転し続ける自然法則の方が間違いのない摂理で、不変だからだ。
この霊的法則・摂理として、シルバーバーチは我とは永遠不滅の霊魂であり、守護霊や指導霊がいつもそばに居て決して見離さず、常に導いているという。また、背負いきれないほどの重荷を背負わされることは決してありませんともいう。自分自身、過去の逆境にあった時の、一連の奇跡的な展開のことを振り返ってみれば、紛れもなく確かに導きがあったと満幅の確信が得られる。そしてシルバーバーチは過去にあったように、今後も霊界からの導きがあるという。摂理としてのこの約束を不変・不動の担保としよう。
自分自身のよって立つ基盤を、死んだら全て終わり、権力と富こそ力なりという物的世界の常識から、永遠不滅の宇宙の法則(霊的摂理)に置きかえることだ。そうすれば自らを取り巻く状況が世俗的にみていかにあろうとも、もっと広い霊的視野でとらえると所詮一時の幻影であり、“本当の自分”は霊魂で、永遠不滅の神の分霊であると自覚した心は泰然自若となることができるのだ。
こうして“心の静寂”が得られると、肉体器官にどのような影響を与えるのかという質問に対して、シルバーバーチは次のように答えている。
“それ本来の有るべき状態、つまり王様である霊の支配下に置かれます。すると全身に行きわたっている精神が、その入り組んだ身体機能をコントロールします。根源において生命を創造し身体を形づくった霊の指令にしたがって行われます。その時は霊が身体の構成要素のあらゆる分子に対して優位を占めています。それが出来るようになれば、完全な調和状態――あらゆる部分が他と調和し、あらゆるリズムが整い、真の自我と一体となります。不協和音もなく内部衝突もありません。静寂そのものです。宇宙の大霊と一体となっているからです。” P243 古代霊 シルバーバーチ不滅の真理より

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(平成26年8月)

内外から霊力を引き出すとは・・・(平成26年7月26日)

外からの力とはどのようなものをいうのでしょうか

“自分の存在の始原、すなわち大霊の分霊であることを思い起こし、この全大宇宙を創造したエネルギーと同じものが自分にも宿っていることの意味を熟考するのです。そこから勇気を得て、壮大の気宇を抱くことです。下を向いてはいけません。上を見るのです。そして、援助は自分の内部と外部の双方から得られることを知ってください。
あなたを愛する人々、そしてあなたの心臓や鼓動と同じくらい身近にいて世話を焼いてくれている人々が、あなたを見放すはずがないとの信念に燃えてください。内的な平安と静寂、自信と決意、そして、すべては大霊が良きに計らってくださるとの悟りは、そうした認識の中においてこそ得られるのです。“  シルバーバーチ 最後の啓示 P79
これは外から、すなわち背後霊からインスピレーションや悟り、叡智、導きなどをとおして霊力を得られるということをいっているのだろう。

それでは、内からの力とはどのようなものをいうのだろうか。

シルバーバーチの新たなる啓示 P129には、次のように書かれている。
“日常生活では葛藤と困難と闘争に明け暮れていながら、内面的には平安と安らぎの中に安住することができます。俗世では疾風怒涛の中にあっても、霊的な悟りは平静そのものであり得るのです。安らぎは内面から出てくるものです。外部からやってくるものではありません。地上の人間が物的身体の奥に秘められた霊的な自我を開発しさえすれば、泉のごとく霊力が湧いて出て、静寂、沈着、平穏、安らぎといったものがもたらされます。
これまでに多くの偉大なる霊が地上へ降誕し、さまざまな分野で先駆的な仕事と改革をもたらしましたが、みな、過酷な現実の中で悪戦苦闘しながらも、霊的な自我は静かな悟りの世界にありました。物的な有為転変と霊的原理とを同等に見てはいけません。霊が主人であり、物質は従者です。つねに霊が主導権を握るようでなくてはいけません。”

ここで述べられている“霊的な自我の開発”とは、霊的成長のことを指しているのだろう。そして、今置かれている状況がいかに過酷なものであっても、心が静寂、冷静、沈着、平穏、安らぎという精神状態になれるのは、泉のごとく湧き出る内部に秘められた強大な霊力のおかげだという。この状態が、霊力が発動した結果の精神状態なのだ。一見、力、エネルギーとは思えないものを霊力といっているようだが、これは心身統一法の積極心とは、なにもクソ~と力んで執着で取り組むことではなく、精神状態が明るく朗らかで前向きである状態のことであると中村天風がいっているのと同じである。
そしてこの裡なる霊力を発動するには霊的知識を知って霊的摂理に不動の信頼をおき、日常生活において実践、すなわち適用することにある。それが内在する魂の兵器庫を開き、神の武器(霊力)を取り出すことになるのだ。
その観点から、以前にも引用した霊訓、今回の“今月の叡智の言葉”を読み直してほしい。

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(平成26年7月)

利他とは・・・(H26.6.28)

耳にタコができるぐらい、霊訓の中には利己主義と利他主義の話が出てくる。そして利己主義は物質中心主義と同義語として使われている。生まれたままの我々の心は、本能的にわが身を守ろうとする意識を持っていて、そういう意味では利己主義であると思う。当初は必要なのである。自分にとって得か損か自己中心で判断し、大人になっても単に自らの金銭欲や色欲を満たすため、まるで物を壊すように簡単に人を殺す人もいる。
他方、本当の自分は霊魂であることや霊的同胞性などまったく知らない人でも、人間的に成長すればエゴ一辺倒から利他の心になってくる、というのが世間一般の常識的な考えだろう。だからこそ、そういう人は尊敬の対象となり人々に慕われるなど、利他は人格者・偉人に共通した特長となっている。いわば本能心よりも、人の道・霊性心を自然と発揮している人々なのだ。
では、とりたてて人格者でもないごく普通の我々の場合はどうであろうか。霊訓では利他が霊的成長への条件となっているが、自分のことで精一杯で物心両面で余裕もなく、無理してまで他人のことが果たしてできるのだろうか、とついつい思ってしまう。これがごく自然な普通一般の考え方だろう。ある意味、精神的に余裕がないともいえるが、別に自らを誤魔化すこともなく、咎められることもないと思う。利他の心、自主的に他人を思いやるとは単に霊的成長度の違いであって、当然男女の違いや、社会的に成功したと思われている金銭所有の多寡、地位、学識の差ではないのだ。これらはかえって傲慢になりやすいなど、むしろこの逆のケースが多い。要は重要度の優先順位が真逆で、人間的成長は優先度が非常に低いのだ。当たり前だと思う。死んだら終わりと考えていては、自己犠牲してまで人間的に成長することよりも、今を楽しく生きることの方がもっと大切と考えるのが普通で、死後存続の事は頭にもないからである。


私なりの経験で気づかされたことがある。一例が、霊的知識を得て、それを人にも伝えようと読書会や勉強会を主催すると、事前準備に本人自身が一番勉強する必要に迫られ、結果として参加者の誰よりも自分自身の霊的成長に繋がっていることに気づかされる。また、卑近な例が、この“寸感”を書くにあたって、一番学びになっているのは他でもない、自分自身なのである。書いたものを通して自分自身が定期的に一番学ばされているのだ。
このように利他の心ですることは、期せずして結果として自分に帰ってきて、本当の意味で自分自身を大切にしていることに繋がっていたのだ。人を生かすことが自分自身を生かすことになっていたのだ。“情けは人のためならず”という諺は本当なのだ。これは人に情けをかけるなという意味ではなく、情けをかければ自分に返ってくる(霊的に成長する)という意味である。この関係は表裏一体で切り離すことができない関係なのだ。共存共栄の神の世界(天国)、これこそが自然の摂理、善因善果の因果律の法則なのだ。逆にエゴは自らを滅ぼす(霊性を下げる)ことになる。但し、霊界のようにすぐには現象として顕れないので、表現をかえると“霊性を下げている”ことが見えないので、このことがなかなか自覚できないのだ。
我々は霊的知識として霊的同胞性ということを学んだが、この意味することは、他人はすなわち自分で、自分は他人なのだ。魂には個別性(分離意識)はあるが、生命エネルギーとしての霊は神の分霊、私たち一人一人は神そのものであるとシルバーバーチは言っていて、そこには自他の区別は無いのだ。だからこそ諺通り自他の区別なくこういうことがおこるのだ。
この物質界にあって神の分霊である人間に奉仕することは、霊界同様、働き手として大霊である神に奉仕することになる唯一の道なのだ。
このように利他主義は霊的成長のための必須条件ではあるが、唯物主義のこの物質界にあっては決して容易なことではない。そのためにも霊的知識が必要となるのだが、その霊的知識を得るにはどうしても触媒としての“試練の体験”が必要となってくる。そうでないと求めないし、仮に知ったとしても自分のものにならず、元の木阿弥、幻影の世界に容易に引き戻されてしまうからだ。

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(平成26年6月)

背後霊とのコンタクト方法について

「自分にも背後霊がいるのだろうか――そう思われるのかも知れない。その通り、ちゃんといるのである。これについては後章で詳しく述べることにして、ここではその指導の受け方だけを簡単に述べておこう。
今夜、床に着く前に魂の静寂の時をもってみよう。まず寝間着に着替えるか、あるいはそのままの服でベルトとネクタイをゆるめる。女性であれば肌をしめつけるようなものは取る。もちろん靴も脱ぐ。次に部屋を薄暗くする。明かりは音と同じく神経を刺激する。それから、ラクに座れるイスに腰掛け、両足首を軽く交叉させ、両手を軽く組む。その姿勢で目を閉じる。目に力を入れてはいけない。眼球は動くにまかせる。そして頭の中を空っぽにする。始めのうちは考えまいとする意思が邪魔をして、色々と雑念が湧いてくる。が、それにこだわってはいけない。一つの方法として、日常生活に関係のない単純なもの、たとえば花を思いうかべて、それに意念を集中するのもよい。そうやっているうちに心身ともにリラックスしてくる。そこで親友にでも話しかける気分で、今あなたが抱えている問題を口に出して述べる。問題を述べるだけである。こうしてほしいと勝手な要求を出してはいけない。特に欲の絡んだ手前勝手な欲求を持ち出してはいけない。問題を述べて、どうしたらよいかをご指導ねがいますと言う。言ったあと静かにしていると、ふっと軽い無意識状態に入ることもある。目が覚めるとスッキリした気分になっている。これを毎晩くり返す。大切なのはその日その日を新たな気分で始めることで、慣れっこになって形どおりのことを機械的に繰り返すようになってはいけない。場所や時間は特にきめる必要はない。いつでもどこでもよい。車の中でもよい。大切なのは静寂の時をもつということである。それを続けているうちに、ある朝ふと、いい解決策が浮かぶ。あるいは問題そのものが問題で亡くなっている時もある。もしかしたら、思いがけない人がひょっこり訪ねて来て、それが問題解決の糸口になったりするかも知れない。どういう形で成果が現れるかは予断できない。」

「私は霊力の証を見た」P123 M・H・テスター著 近藤千雄訳  潮文社 

 

「霊媒を通じての直接の交信(コミュニケーション)が出来なければ、前に紹介した背後霊との触れ合いが出来る。これには“静寂の時”さえ確保できれば一人でも出来る。十分間あるいは十五分間ほどやって何の変化も感じられなくてもよい。うっかり寝入ってしまってもよい。それを折にふれて実行していくのである。いつでもどこでもよい。完全にリラックスして白日夢を見る状態でよい。ただ肝心なのは、煩わしい日常の雑念に邪魔されないようにすることである。そのうち、ふと体が軽くなったような気分がしだす。心身ともに軽くなってくる。そんなに張りつめていたのかと思うほど気分が和らぎ、さっぱりとしてくる。と同時に、悩みのタネであったことが大したことではないような気分になったり、解決のためのいい方法が思い当たったりする。あなたは背後霊の援助を受けたのである。」
「私は霊力の証を見た」P190 M・H・テスター著 近藤千雄訳  潮文社 

 

このコーナーを読んでおられる方は、すでに霊的知識があるので、過去、背後霊の導きを感じた経験は、一度ならずとも心当たりがあると思う。
霊的知識のない方には、単なる偶然の出来事や、思いつき、閃き程度にしか感じられないだろう。また、このような内容自体、頭がおかしくなった証拠と思っているだろう。無理もない。そばに背後霊が寄り添って居るという霊的知識や自覚が全く無いからである。
ここでいう背後霊とは、もちろん地縛霊のことではなく守護霊や指導霊、支配霊のことで、私には良心の声も含めて、一体どの背後霊から来ているのかの区別はできない。
但し、シルバーバーチは霊訓の中で、我々が思念することは、我々が想像する以上に背後霊の影響を潜在意識で受けているといっている。
また、世の中に偶然はないといわれている。霊的知識のある方は偶然のような“背後霊の導き”も常日頃感じているはずだ。
背後霊の声は私の場合、聞こえるようなものではなく、心の中で思念するような言葉として“あなたは”の二人称で入ってくる。少し前までは、ふと気づいて自分自身の声や考えなのに、“あなたは”との呼びかけに不思議だなあ、これはどういうことなのだろうかと思っていた。霊訓の内容がでてきたり、考え方、アドバイスなど、言葉が他人に話しかけているようで、どう考えても他人行儀で自分自身の言葉とは違うのだ。
では、初めの頃はどんな時にこの声が出てくるのかというと、何といってもやはり試練や困難に直面し窮した時だ。普段は聞こえてこない。特に楽しいときには絶対に出てこない、というか意識しない。それがこちら側から意識するようになり、呼びかける頻度が増えてくると、日常的に聞こえてくるようになる。いわゆる一種の会話をするような頻度が増えてくるのだ。特に、朝起き掛けで雑念妄想念の少ないときや、何かの事に心が囚われていないというか、執着していない時だ。MH・テスターのいうように、精神統一、頭の中が空っぽのときにポンと入ってくる。コンタクトしやすくなるのだろう。だから常日頃、頻繁に頭を空っぽ(無我無念)にする時間を持てばよい。数十秒のごく短い時間で良いのだ。これならどこででもできる。

 

背後霊の導きを得るには、その日一日を精一杯頑張り、やるだけのことをしたあとは、先の事は心配せず背後霊任せにすればよい。それだけで随分気が楽になってくる。どうせ500年後、霊界から今の問題を振り返ったら、大した事ではないのだ。その証拠に短い人生経験でさえ当時は大変な事でも、今ではすっかり忘れてしまっているではないか。最終的に意味をもつのは、少しでも霊的成長をしているかどうかに全てはかかっているのだ。

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(平成26年5月)

霊力について(2014.5.1)

判ったようで判然としない言葉、“霊力”とは一体何なのでしょうか。
「シルバーバーチの霊訓」から探って、整理してみたいと思います。少し長くなりますが、根幹に関わるとっても大切なテーマですので、以下書き出してみます。

 

1.霊力とは

●人間によって認識されている如何なるものさしにもかからないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊力というものは存在しないことになります。つまり実在とは人間のお粗末な五つの感覚で捉えられるものと決めてかかっている唯物自然科学者にとっては、霊力は存在しないことになります。しかし愛は目に見えず耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。たしかに愛の力は強烈です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です。あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動きまわり、考え、言葉をしゃべるのも霊の力があればこそです。あなた方の行動のすべて、あなた方の存在のすべては霊の力のおかげです。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって存在と目的と指針と生活を与えられているのです。物質界のどこを探しても意識の秘密は見つかりません。科学者,化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質は一時的に借りている宿にすぎません。霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。(霊訓 三巻 十一章 P170)
霊力とは生命力であり、生命の素材そのものであること、活力であり無限に存在すること、可変性があり、無限の形態をとることができ、無限の置き換えと組み合わせが可能である、ということです。(霊訓 九巻 十一章 P174)
●私たちの関心は霊力――私はそれを大霊と呼んでいるのですが――それが地上に根付くことです。なぜ霊力を根付かせようとするのか。それは、霊力には魂に感動をもたらし、真の生命に目覚ませる力があるからです。

(霊訓 九巻 十一章 P163)
●流入する霊力の分量に限界というものはありません。唯一それに制限を加えているのはあなた方治療家の霊的発達段階であり、それが、どれだけの霊力を受け入れるかを決定づけます。この聖なる力、神の威力、大霊、生命力、どう呼ばれても結構ですが、それがあなた方を通路として流れるのは、あなた方に受容能力があるからです。

(霊訓 九巻 十一章 P171)

 

2. 霊力の働きについて

●人間はこの宇宙を自動的に支配している法則と秩序について語るだけで満足し、太陽や惑星をそれぞれあるべき場所に維持している、強大な霊の力が存在しているという事実を探求しようとはしません。”

(コナンドリル「人類へのスーパーメッセージ」P201)
●その霊力は病気を癒し、悲しむ人を慰め、道を失った人を導き、無知を知識に置き換え、暗闇を光明に置き換え、生きる意欲を失った人には元気を与え、真理に渇いた人の心を潤し、真の自我を見出そうとする人には神の計画のガイドラインを提供してあげます。(霊訓 十巻 一章 P11)
霊力の機能はそれ以外にもあります。日常の生活において他のすべての策が尽きたと思えた時の支えとなり、指示を与え、導きます。(霊訓 十巻 一章 P13)
●お二人は霊力という最大の武具を備えていらっしゃいます。それをある時は支えとし、ある時は安息所とし、ある時は避難所とし、ある時は至聖所とし、そしていつも変らぬインスピレーションの泉となさることです。(霊訓 九巻 七章 P89)

 

3. 霊力を呼び込む方法は

霊力は条件さえ整えば、つまり一かけらの心配の念もなく、知識を基盤とした信仰体験から生まれた確信とがあれば、時として驚異的なことをやってのけます。(霊訓 九巻 二章 P34)
●それ(霊力)を受けいれる能力をお持ちのあなた方に出来ることは、その能力をさらに発達させること、つまり受容能力を増し波長を高めることだけです。それをどれだけ受け入れるかは、あなた方自身の進化と発達の程度によって決まるのです。あなた方を通じて流れる霊力の限界はその受容能力によって決まるのです。あなた方の受容能力が増せば、それだけ多くの霊力があなた方を通して流れ込み、それだけ大きな成果が得られるということです。

(霊訓 九巻 十一章 P170)
●いったん宇宙最大の力(霊力)とのつながりが出来たからには挫折は有り得ないことをご存知ならば、いつも明るく信念と希望に燃えてください。あなたを愛する霊たちがいつでも援助に参ります。(霊訓 十巻 一章 P13)

 

4.内に秘められた霊力

●地上界は争いごとと敵意と不和に満ちあふれております。それでいて一人一人は「平和を!平和を!」と叫び続けております。そうした中で皆さんにお願したいのは、内部に無限の可能性、即ち大霊の力が秘められているという事実を改めて自覚することです。あなた方一人一人が大霊なのです。大霊の無限の霊力が皆さんの内部に秘められているのです。それを呼び覚まして顕現しさえすれば、前途に横たわるいかなる制約も打ち砕いてしまいます。
(シルバーバーチは語る 十七章 P290)
●私が言っているのは、あなた方には大霊が宿っているということ、そしてそれを自覚発現すれば、あらゆる物的なものに超然としていられるということです。それは、今も言った通り「自覚し発現すれば」あらゆる邪悪に抵抗し、あらゆる病気を克服し、あらゆる障害に立ち向かう力となるのです。しかし現実にはそれを活用している人間はほとんどいません。
(シルバーバーチは語る 十五章 P264)
●その秘められた大霊の賜物を思い切って花開かせるのです。皆さんの一人一人が自由に使用できる無限の霊力を秘めた、大霊そのものであることを自覚するのです。そうすれば今ようやく夜明けを迎えんとしている漆黒の地上世界の道具として活躍することができます。
(シルバーバーチは語る 十七章 P290)

 

5.霊力への我々の取るべき態度は

●私がいつも、心配の念を追い払いなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい、神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。

(霊訓 三巻 十一章 P172)
この宇宙で裏切ることのないものは大霊のみです。大霊の霊力を頼りとし、大霊の叡智に導かれ、大霊の愛に支えられている限り、いかなる難問に遭遇しても必ずや解決策を見出すことが出来ます。

(シルバーバーチは語る 十七章 P289)
●あなたに要求されることは、そこまであなたを導いてきた霊力に対する絶対的な忠誠心自信とをもってあなたの責務を全うすること、それだけです。(霊訓 九巻 七章 P94)

霊力とは大霊そのものであるとシルバーバーチはいっている。
また、“とは宇宙の自然法則です。物質世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛、完全なる叡智です。”(霊訓 五巻 九章 P140) 
同様に、“神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。”(霊訓 四巻 一章 P26)ともいっている。
実に神とは霊力そのもので、その働きである愛と叡智に満ちた法則だったのだ。我々はどうしても人間的な神を潜在的にイメージしていて、これにはまったく戸惑い驚いてしまう。

“魂の兵器庫”にある“神の武器”も、霊力の姿・形を変えたものだったのだ。この兵器庫の扉を開くカギは突き詰めると、“本当の自分”は大霊(神)であることを自覚しさえすれば、おのずと霊力も発現してくるといっている。なぜなら大霊(神)=霊力だからだ。発現度はこの自覚度に応じてといってもよいのかもしれない。
ところが残念ながら、自分自身が大霊であるとはなかなか思えない。思えないから発現しないのだ。しかしながら無理もない。毎日、不安・恐怖・心配の連続で、思うようにいかない我が身の人生であり、本能的に悪の心や誘惑が常に優先して発生し、失敗ばかりしているし、能力や力もないと信じ切っているからだ。とても自分が神とは思えない。当然である。顕在意識で意識している仮我と比較しているからである。しかしながら、シルバーバーチは我々の普段感じているこのような条件には一切おかまいなく、“本当の自分”(真我)は神、永遠不滅の霊魂であると断言し、ただその実相に気づいていないだけだ、といっているのだ。ということは、我々自身も霊力そのものだということになる。個性をもって思考する創造的“生命エネルギー”の塊といってもよいのかもしれない。
我々は波長の高い想念の世界と波長の低い物質界を、幽体と肉体を使って波長を切り代え、行ったり来たりしている意志をもった“生命エネルギー”そのものなのだ。心と体を道具として、個性をもった生命エネルギー(霊魂)が霊的成長のため今世に出てきたのだ。今生の本来の目的は、“真の自我”であるこの実相に気づくことだったのだ。

我々一人一人が大霊であるならば、霊力であると同時に、法則でもあるはずだ。だから宇宙の法則、霊的摂理に自らの自由意志で合わせるようにすることが、我々の本来の姿なのだ。
絶対に裏切ることのないこの宇宙の法則(大霊)に自分自身の頼って立つ基盤、土台を築けばよいのだ。では、この宇宙の法則とは一体何だろうか? 真・善・美、“愛と誠と調和”の創造・進化発展である。これに神の一員として寄与することにある。法則に合わすことによって神と一体となれるのだ。その決意さえあれば、次のシルバーバーチの言葉に従えばよい。
“あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。”

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(平成26年4月)

友人の死にあたって(2014.3.30)

一昨日、私もよく知る家内の親友がガンで他界しました。そういえば私は昨年9月に母を見送ってからこの半年間に、毎月のように母を含めごく親しい友人たち計4人を見送ったことになります。
私は今年64歳で、いまだそのような歳ではないと思っておりますが、周りにいまだ若くして他界される方が非常に多いのには驚きます。母以外は全てその原因はガンでした。もちろん例外は多々あるでしょうが、家庭の問題、仕事の問題など理由は様々ですが、私から見て友人達の場合は明らかにストレスがガンの原因でした。近代文明になって生活が非常に便利になり、日本の場合は飢餓もなく、生活を謳歌しているつもりですが、豊かな物質に囲まれていても、決してストレス自体は無くならないようです。世界的に今起こっていることから見ても、物質中心主義社会では死んだら終わりとの考えからエゴが主流となっている社会で、対人関係等のストレスは相変わらずなくならないようです。心の状態の方が物質的な生活環境よりもやはり身体に影響するようで、特に真面目な人ほど、不平不満や怒りの気持ちは毒薬となり、徐々に身体に影響を及ぼすようです。ただ、最低でも4~5年程度の時間を経てガンは徐々に成長するため、何が原因となっていたのか、食品添加物同様、その原因が明確にならないだけです。ガン自体はそれが宿命であったのか、自ら招いたものであったのか個々の事情にもよるのでしょうが、他方、魂、精神、肉体の3つの調和がとれてさえおれば、決して病気にはならないとシルバーバーチはいっております。
真の実在世界である霊界の存在と、本当の自分とは神の分霊であり、永遠不滅の霊魂であるということ、また常に守護霊、指導霊に守られ修行のために物質界に一時的に出てきている、という自覚さえあれば、さまざまなストレスが来てもたちどころに追い払うことができる。しかしながら、この心境に行き着くためには、日常生活で心が物質界と霊界を行ったり来たりを繰り返す数多くの体験や学びが必要となってくるでしょう。でも粘り強く努力を続けていると、必ずそこに行き着くことができる。そうなることを目標として物質界に出て来たのであり、そういう自覚に至ると今生を喜び勇んで卒業することができるとシルバーバーチはいっている。

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(平成26年3月)

魂の兵器庫を開き、神の武器をとりだすとは・・・

 “魂の兵器庫(貯蔵庫)”や“神の武器”に関する記述を霊訓からざっと拾ってみた。

「地上という名の戦場において、魂の兵器庫を開き神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。」

(霊訓 第十二巻 P201)

 

 「地上の人間が内部に霊的な武器を備えていることを実感することができれば、どんなにか充実した生活が送れることでしょうに。それを活用することによって、時には地上的喧騒から身を引いて、冷静さ・落着き・平穏・安らぎに浸ることができるのです。」

(霊訓 第十二巻 P231)

 

 「あなたが霊的存在であるということは、あなたも内部に無限なる宇宙の大霊すなわち神の一部を宿しているということであり、同時に、霊的武器(能力)と霊力を宿しているということです。」

 

 「その絆があるからこそ、叡智真理啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。」 

(霊訓 第十巻 P27)

 

 「となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。その静寂の中で、まわりに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーション叡智知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することができます。その宝は使われるのを待ち受けているのです。」

(霊訓 第四巻 P212)

 

 「どうか私がこれまで述べてきた知識の中から物的生活の背後で働いている霊的活動、あなたの身のまわりにほうはいとして存在する莫大な霊力、あなた方を善のために活用せんとして待ちかまえている霊の存在を認識してください。あなた自身の中に潜在する可能性をしっかりと認識してください。それが自我の霊的本性のもつ莫大な兵器庫魂の宝庫を開くカギとなるからです。神の叡智は無限であること、宇宙の宝物は無尽蔵であるということの意味を、しっかりと理解してください。」

(霊訓 第七巻 P58)

 

 「無限なるその貯蔵庫に納められている全インスピレーション全真理全叡智全摂理全知識は、子等が向上心と謙虚さと奉仕的精神を持ってその道具となることを望みさえすれば、誰にでも手にすることができるものだからです。」

(霊訓 第十巻 P209)

 

 かくして、上記の赤文字に記されていることが実行できれば、内部に潜む莫大な兵器庫を開くカギを得たことになり、霊力(生命エネルギー)叡智(悟り)霊的真理(知識)と高級霊からの高度のインスピレーション(啓示)という神の霊的武器を自由に引き出して使うことができるようになるとシルバーバーチはいっている。

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(平成26年2月)

“天国は心の中にある”とは・・・

 一見判りやすい言葉だが、この言葉を本当に理解している人は少ないだろう。この意味を理解しやすくするために、この対極は“暗黒と冷酷と怒りと憎しみに満ちた世界”である。これは私も含めて利己主義(自己中心主義)と物質中心主義に満ちた今我々が生活している正にこの世界、一人ぼっちの孤独感を感じている世界のことだ。
上記の叡智の言葉でイエス・キリストは天国のある場所は“心”といっているが、シルバーバーチは“魂”といい、また、“深い自我”の中にあるともいっている。この“深い自我”とは普段意識していない“本当の自分”(真我、大我)のことだ。そうすると、天国とは“本当の自分”の中にある世界のことをいっているのであろう。一言でいうと物質界と霊界の違いである。
 “本当の自分”は霊魂、神(大霊)の分霊であるからこそ、神(大霊)が自分に宿っているともいえるのだ。自縛霊の行く世界でさえなければ、霊界はよろこびと幸せの国、叡智と悟りの国、寛容と正義の国である。この霊界には死んでから行くのではなく、我々はすでに今現在も霊魂であるから、肉体で現世に生きながら同時に霊界にも住んでいることになる。霊魂である“本当の自分”は、潜在意識下に押さえこまれているから普段意識していないだけなのだ。これを意識して表に引き出すことによって、霊界の視野から観ると物の見方、視野が180度変わり、神からの遺産である霊力を意識的に使えるように成るのだ。そうなると偶然というものはなく、常に守護霊との二人三脚で、且つ、背後霊に守られ導かれているため、決して一人ぼっちではない。たとえ自らの力はまったくの非力と思えても、宇宙の法則を維持しているのと同じ力、背後霊の力を使用して試練・困難を克服することができるのだ。そう思えるとむやみやたらと取り越し苦労はしなくなるものだ。最善を尽くしてさえおれば、あとは守護霊に全面的に任せればよいのだから。天国は霊魂と霊界を意識する中にある。だからこそ“本当の自分”を知ることが何よりも大切になるのだ。
 こうなると神の兵器庫から高度のインスピレーション、叡智と悟りなど神の武器が得られ、さらには背後霊からの守りと導きへの信頼が強力な担保となって、心配、不安、恐れというバリアーを取り除き、宇宙に遍満存在する霊力(生命エネルギー)が体内に入りやすくなるのである。そのため困難の最中にあっても、心の平安と安らぎを得ることができるのである。但し、この平安は生涯にわたって続くのかといえば、そんなに簡単ではない。
 普通の人間にとって、五感では霊魂は見えないし、感知しえない。たとえ過去に証明された証拠があるといわれても、霊魂や霊界は自らの経験や状況証拠で確信し、信仰、信念化するしかないのだ。だからこそ簡単ではないのだ。
現世での諸問題の解決は“個”(仮我)を超えたところにあるといわれているが、“本当の自分”である神我に気づき、自らの立ち位置を切り替え、仮我を超越した真我に“悟り”の世界、天国があるのだろう。

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(平成26年1月)

試練の意味

 “本当の自分”である霊魂に目覚めるには、試練、困難の経験が必須条件となる。
なぜか? 自分自身も含めてこの世には頼るものがなく、自己放棄するくらいにまで奈落の底に突き落とされない限り、厚い雲のように自己(仮我)が邪魔をしていて、潜在意識の奥深くにある太陽、“本当の自分”(真我)が意識の上に出て来られない、すなわちその存在に気づかないのである。我々は物質界にあって催眠術にかけられ、幻影に惑わされているのだ。
「それぞれの人間の魂は、本来の自分を見いだすために自己を失わなければなりません。自分の力によって力と達成がやってくるという誤った考えを持っている間は、神を見いだすことはできません。」コナン・ドイル“人類へのスーパーメッセージ”P282
物質界に出てくるときは、“もと来たところ”と“本当の自分”は潜在意識の中に敢えて隠されているのだ。霊的成長をするために、一旦すべて白紙になるといってよいのかもしれない。
我々は試練、困難をとおして教育・訓練を受けるためにこの物質界に出てきた。この世はまさに学校である。だから真我に目覚めたからといって、試練・困難が無くなるものではない。さらにより一層成長することが求められているからだ。

 

 我々のいるこの現象界は相対(両極)の世界である。相対の意味するところは、悪がなければ何が善か判らず、暗闇がなければ光の存在が判らない。苦がなければ幸福というものが判らない。憎しみを経験しなければ愛というものが判らない。これらは同等のエネルギーではあるが対極にあり、棒の両端、コインの表裏一体の関係で、片方がなくては存在、認識しえないのである。人間はロボットではないので、ある一定の限度内での自由意志が与えられており、両極のどちら側を選ぶかは選択ができるのである。だから悪の心があるからと言って決して嘆く必要はない。それがなければ人間ではなく成長ができないのだ。そして、自己責任である“原因と結果の法則”により、失敗や苦い経験をとおして霊的成長ができるようになっている。これはまさしく神の愛の法則なのだ。誰かがカルマの身代わりになっていては、本人は成長ができないのだ。

 

 いずれ遅かれ早かれ戻ることになる“もと来たところ”で、充分通用する他界人となり、宇宙の法則である創造進化、発展の仕事に就くために、この世で“本当の自分”に目覚め、できるだけ成長しておく必要があるのだ。いずれバラバラになり元の元素にもどる肉体は、それを使って霊的成長をするためのあくまでも仮の道具であり、本体である“本当の自分”ではないのだ。“本当の自分”、人生の目的とは何であるのかを知らなければならない。たまたま偶然目的もなく物質界に存在しているのではないのだ。

 

 霊的発達程度の異なる人々で構成されたこの現象界では、いろいろな人を通して対極を経験することができ、霊的成長にとって最高の条件がそろっているのだ。
霊性が同じでは、成長は短期間にこうはいかないだろう。

 

 “死んだら全て終わり、無になる”と思っている大多数の人々が生涯をかけて求めてやまない、何の苦労もない太陽がさんさんと照る気楽な人生では、残念ながら“本当の自分”は成長できないようになっている。霊的に喉が渇いたり、お腹が減らないと霊的な食べ物を求めないからだ。日本刀も肉体も鍛えなければ強靭にならないのは自然の理である。従って、霊的知識を知った者には、なおさらより一層成長するために、必ず成長度に応じた試練・困難がやってくる。そうでなければわざわざ今生に出て来る意味が無いのである。

但し、シルバーバーチは常に“取り越し苦労、無用な心配はするな、”と口がすっぱくなるぐらいに繰り返している。我々の感覚では、心配する必要もないようなものは試練・困難とは言わないだろう。では、一体これはどういうことなのだろうか。

 

   霊的法則、霊界からの導きを単なる知識ではなく、本当に真底信じているかどうか、逃げないで真正面から向き合うことによって、実は繰り返し、繰り返し何度も何度も信念(信仰)や忍耐力、寛容性が試されているのである。 そして失敗や苦い経験をとおして背後霊の導き、守り、奇跡的な実体験をつみ、霊的知識が本物の法則であることが身をもって証明され、それが自らの“悟り”となる。この経験を何度も何度も繰り返すことによって、長年積み重ねてきた物質世界が全てという物質中心主義の固定観念を、時間をかけながら薄皮を剥がすように徐々に剥ぎ取り、霊的法則への不動の信念・確信へと置き換わっていくのである。物質界では大きな試練に出合うと、我々は本能的、且つ条件反射的に従来の思考パターンでものごとを考えがちで、真の霊主肉従はそんな簡単に実行できないことを何度も思い知らされる。“本当の自分”は霊魂である、という信念が不動のものになるまでは、取り越し苦労や心配、不安が絶えないであろう。当たり前である。先が見えないのだから。

 

 そしてシルバーバーチは言う。信じ切って霊的に楽観的になりなさい。豊かな人生を享受することができます。何故なら、背負えない試練は決して与えられないから。

 

 さらに、「人間は自分のことが判っておらないのでせっかちになりやすく、常に取り越し苦労、心配、不安をもっている。導きと時期は霊界が決めることで、人間のせっかちは最大の敵です」とも言っている。

 

「霊的知識に信仰を加えなさい。そして任せ切りなさい。」

 

守護霊は決して裏切りません。一人にしません。導きと宇宙最大の力・支援を与えます。

 

 「だから 待つのです。きっとドアは開かれます。閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません。自然に開くのを待つのです。人間側の都合に合わせるわけにはいかないのです。その理由の一つは、人間には自分にとってどうなるのが一ばん良いかが判断できないからです。」
  
  そうなると今を精いっぱい努力して、あとは守護霊の導きにまかせておれば、いづれにしても結果オーライ、自分の霊的成長になるのだから、先の結果が見えているともいえる。今はたとえ解決方法は判らなくても、あとは霊的摂理から外れないように努力することが我々の責務であり、キ-となるのは自分のエゴのためではなく、何事も他人のために良かれと努力することである。我々の問題は今までの世間常識とは真逆の霊的法則を、本当に信じきれるかどうかにかかっている。これが岩のような信念、人生の羅針盤になれば、たとえ試練、困難はあっても常に霊界から見守られた安心感、幸せに満たされた人生を送ることができるようになるのだ。

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(平成25年12月)
このコーナーで“本当の自分”(真我)や、“瞑想”(精神統一)、個的霊の“意識”について述べてきたが、それでは次に顕幽の交信、交霊現象とはどういうもので、本当にあるのでしょうか? 


「あなたは今からすでに霊的存在なのです。私たちの世界に来てはじめて霊性を身につけるのではありません。」
霊訓 九巻 P45


「霊の世界と物質の世界は実は一つの実在の二つの側面なのであり、お互いに影響し合っております。両者は融合し合っていて、はっきりとした境界線というものはないのです。」霊訓 九巻 P235

 

ということは、“本当の自分”は、今意識している物質世界の自分であると同時に、霊的世界にもいま生きている存在なのだ。だから本来、顕幽の交信が今できて当たり前なのだ。但し、他界は“意識、思念の世界”であって、五感で認識できる世界ではない。波長がまったく異なるのだ。

 

―良心の問題ですが、これは純粋に自分自身のものでしょうか、それとも背後霊の影響もあるのでしょうか。―
「あなたがた人間は受信局と送信局を兼ねたような存在です。純粋に自分自身の考えを生み出すことはきわめて稀です。」 霊訓 八巻 P38

 

シルバーバーチは、たまに聞こえてくる“良心の声”は、自分自身からのものは”きわめて稀”、すなわち殆ど無いという。どうも自分自身から来た考えではないようだ。それは誰にでも例外なく備えられている神からの遺産、監視装置(モニター)です、と別の個所でシルバーバーチは言っている。
加えて、自分の考えと思っていても、守護霊や背後霊などの影響が潜在意識に随分と及ぼしていて、その影響を想像以上に受けているようなのだ。但し、人間はロボットや操り人形ではなく自己責任が宇宙の法則、因果律であるので、最終決断は自分自身の意志によってなされているのはいうまでもないが。
つまり、インスピレーションや悟り、閃きなどは自分自身で思いついた考えではなく、守護霊や背後霊からきている叡智であるというのだ。それをもっと積極的に発展的に進めていくと、条件さえ整えば誰でも程度の差はあっても交信ができるようになるのである。それが霊門を開くということなのだろう。理由は簡単。我々も本来が霊的存在であり、今現在も無意識とはいえ霊界に出入りしているのだから。しかしながら、進化した霊と交信するためには、自らの霊性を高めなければ波長の違いで交信ができないのだ。

 

「問題に直面した時はそれをどう処理するかの決断を下さねばなりませんが、そんな時にいちばんお勧めするのは、瞑想状態に入って魂の奥へ引きこもり、神の声に耳を傾けることです。」霊訓 八巻 P220

 

「となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。その静寂の中で、まわりに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することができます。その宝は使われるのを待ち受けているのです。」 霊訓 四巻 P212

 

「形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係―これが最高の交霊現象です。」 霊訓 九巻 P149

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(平成25年11月)

意識について(2013 .11.4)

先日、フランスの救命救急医であるジャン=ジャック・シュルボニエ医師の“「あの世」が存在する7つの理由”(サンマーク出版)という本を読みました。その中に“二度の死”を経験した、2010年に亡くなった53歳の女性の話がでてきます。(P43) 
彼女は亡くなる19年前に脳幹部にできた巨大な腫瘍を摘出するため、全身の体温を15.5℃にまで下げて仮死状態にされ、脳内の血液を全て抜き取って手術したのです。また、眼球の乾燥を防ぐため瞼は絆創膏でふさがれ、耳の聴覚誘発電位は脳波と同じく平坦になっていることを確認されました。もちろん術中は全身麻酔で当然意識はありません。ところが血液を抜かれて脳は全く機能しておらず脳波は平たんであったにもかかわらず、彼女の意識は頭から抜け出し、手術中、上から自分の手術の様子を見ていて、手術中に発生した特殊な事態の看護婦と医師の会話やそのときの動作を克明に覚えていたのです。また、上からのぞかないと絶対にわからない手術用の道具箱の中身まで覚えていたのです。仮死状態ですから、当然手術中のその時、脳波は平たんで神経伝達機能もストップしており、視覚、聴覚も機能していないにもかかわらずです。意識が戻ったのは病室に戻ってからです。
さらに術中、すでに亡くなっていた祖母とも光の中で会っており、戻れなくなるのでそれ以上近づいてはいけないと言われて肉体に無理やり戻されたそうです。
このことから、やはり意識というものは、脳の機能がつくり出しているものではなく、脳はあくまでも送受信器としての肉体に属する道具に過ぎないことが判ります。仮に脳の機能不全から表現として表にうまく現すことができないような状況にあっても、“本当の自分”の意識というものは脳がつくりだすものではなく、脳とは別にあるようです。
シルバーバーチはこの“意識”について、どのように語っているのでしょうか。次にそれを霊訓から見てみましょう。

●霊訓 五巻 P145
霊が意識をもつ個体的存在となるためには物質の世界との接触が必要なのでしょうか。

「そうです。意識を獲得するためには物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。物matterから霊spiritへと進化していくのです。つまり物的身体との結合によって、物的個性を通して自我を表現することが可能となります。霊は物に宿ることによって自我を意識するようになるのです。」

●霊訓 四巻 P154
その潜在意識がどのように使用されているかを聞かれて――

「そのことに関してずいぶん誤解があるようです。精神にはさまざまな機能があります。人間というのは自我意識を表現している存在といってよろしい。意識がすべてです。意識そのものが個としての存在であり、個としての存在は意識のことです。意識のあるところには必ず個としての霊が存在し、個としての霊が存在するところには必ず意識が存在します。」

●霊訓 六巻 P55
「意識をもった存在としての生をうけたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。」

 

どうも我々は宇宙に遍満存在する莫大な霊力、生命エネルギーの海原から波しずくのようにはじけて、物質界に誕生することによって初めて意識を持った個性的霊、すなわち魂になるようです。

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(平成25年10月)

精神統一とは(前回のつづき)
となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。その静寂の中で、まわりに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することができます。その宝は使われるのを待ち受けているのです」『シルバーバーチの霊訓』四巻 P212

ではこのプライベートな静寂、すなわち“頭を空っぽ”にするにはどうすればよいのだろうか。
私が習ったのは、ヨガの哲人 中村天風が開発した「安定打坐法」という方法だ。ブザーを鳴らし、その音に全神経を傾けて聞くようにする(無我一念)。しばらく聞いているとブザーの音が突然遮断され、一瞬頭の中は真っ白、すなわち“頭が空っぽ”になる。この状態を無念無想 (無我無念)といい、この状態が少しでも長く続くように練習するのだ。もう一つの方法としては、凛の鐘の音を聞き、徐々に小さくなり消えていく音を追いかけるのだ(無我一念)。
そうすると音が消えるか消えないかの境目でスーと無念無想になる。この無念無想の状態ができるだけ持続するように練習するのだ。要するに、努めて音を追っかけるようにしているので雑念妄念が入る余地が少なくなり、結果として無我一念になっているのだ。そこから無我無念に誘導するのだ。
但し、言うは易しで、絶対に初めから理想通りに上手くはいかない。ひっきりなしに雑念妄念が出てくる。理由は、過去の嫌なこと、将来の取り越し苦労などを背負ったままでこの状態に入ろうとしているからである。過ぎ去った過去は元に戻せず、将来のことは背後霊にまかせることにして、ただ今、生きていることを喜び感謝すればよい。今あるがままの状態で無我無念に入れは良いのである。必要なことは、一度に一日ずつを生きればよく、“今を精いっぱい生きる”という心境だ。そうなると無我無念に入りやすくなる。
粘り強く努力練習し、この無我無念の状態の感覚、感じを身体でつかむことが、あと後、非常に大切になってくる。どういうことかというと、この感じさえ身体で覚えれば、鐘やブザーがなくても、どんな環境でも瞬時に無我無念の状態に入ることができるように成るのだ。またそうなることを目標とする。その場合、鐘やブザーの代わりに、内耳神経の興奮するジーンという頭の中で響いている“音無き音”を聞き、この無我一念状態に入ってから無我無念に誘導しても良い。この“ジーン”という“音無しの音”は、静かな部屋にいると誰でも聞こえてくる“生理的な耳鳴り”なのである。これを敢えて日中の騒がしい中でも聞きたいときにいつでも聞けるようにするのだ。
私の師匠から教わった方法は、目を閉じ、第三の目(眉毛と眉毛の間)に眼球を寄せるつもりで少し眉毛を持ちあげるのだ。あくまでもつもりで良い。この状態で“ジーン”を聞くようにすれば良い。無理に眼を寄せようとすると、かえって過緊張を生み逆効果になってしまうので注意すること。この第三の目は霊界への窓だそうだ。インドの人々がつけている眉間の黒いマークのところである。 ついでに霊力(プラーナ、ブリル)もここのチャクラから呼吸法で松果体に取り入れるのだと教わりました。この点に関しては、同様のことをシルバーバーチも言っています。(霊訓 六巻 P40)

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(平成25年9月)

西洋でいう瞑想や精神統一、日本でいう坐禅の目的とは・・・                   
浅野和三郎の亡くなられたご子息との霊界通信が述べられている本、「新樹の通信」より、新樹が幽界より現世の母親をとおして、通信してくる中で、このような言葉が述べられている。
「幽界の修行の中心は煎じつめれば、これを精神統一の一語に帰することができるようです。その精神統一の気持ちとは、ひと口に言うと、何も思わない状態です。いくらか眠っているのと似ていますが、ずっと奥の、奥の方で自覚しているようなのが少々睡眠とは違いますね。」

またシルバーバーチも、「心を空にして穏やかな気持ちの中で精神を統一するだけで十分です。その統一状態の中で霊の力が働くのです。そうした静かな精神状態というのが、物的生活に振り回されている騒々しさに一時的なストップをかけることになります。そのわずかな時間を霊性の開拓と、自宅内での霊的存在の認識へ向けたことになります。地上の人間は静かな精神状態をもつことの効用を十分に認識しておりません。私がよく申し上げているように、あなた方にとって無活動の時が私たちにとって活動の時なのです。あなた方が静かに受身の心でじっとしている時が私たちにとって一ばん近づきやすいからです。」
その直前にこうも述べている。「背後霊とのつながりを求め、たとえ表面的には何の反応もなくても、霊的にはかならず何かが起きているものです。」(霊訓 七巻 P101)

私は瞑想法や坐禅などを正式に習ったことはない。但し、ヨガの哲人 中村天風のいう無我一念や無我無念法は、直弟子の恩師から正式に習った経験がある。
いろいろな本を読んでいると、本当の自分(真我)を見つける方法、霊界との通信いわゆるインスピレーションを受ける方法として、共通している点が最近明確になってきた。精神統一とは何か一つのテーマを決めてとことん考え抜くというのではなく、単に頭を空っぽにすることだ。いうのは簡単であるが、雑念妄念でいっぱいで、頭を空っぽ状態で維持することは実は非常に難しい。
「人間が恐れを抱くとまわりの大気を乱す波長を出し、それが援助しようとする霊を近づき難くします。霊的な力が地上において本来の働きをするためには、静かで穏やかな確信――全ての恐怖心が消え、より大きな生命力と調和した光輝が漂い、何が起きようと必ず切り抜けられることを信じ切った、そういう確信が無ければなりません。」(霊訓 二巻 P125)とも述べている。これが本来のあるべき人間の姿であろう。そしてこうなることが、瞑想、精神統一の目的であろう。

我がことに振り返ってみると、ひっきりなしに発生する雑念妄念は、一種の波動となってオーラを乱し、本当の自我の心(良心)や背後霊からの通信を遮断していたのだ。本を読んでいても、他のことを考えていては、たとえ読んでいても本の内容が頭に入ってこないのと同じだ。

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(平成25年8月)

「母の老い、死に面して」(2013.8.4)                   
昨日、90歳の母が“みとり”のため、3ヶ月ぶりに病院から実家に戻ってきた。あと1~2ヶ月だろうと言われた。
今年初めまでは元気だったが、腰の椎間板骨折によって寝たきりになってしまった。加えて誤嚥性肺炎である。口腔内はケアしているが誤嚥性肺炎を繰り返し、その都度抗生物質でたたいては治る、の繰り返しであった。元気なころのリック姿の母が瞼に浮かび、変わり身の激しさに死を迎える老人を感じる。
街を歩くと、若者たちはショートパンツにランニングシャツ姿で、いかにも活力にあふれ元気はつらつで、真夏の夜の花火大会などデートにいそしんでいる。花でいうところの、まさに開きかけの真っ赤なバラの蕾というところだろうか。
しかしながら、今はいかにピチピチギャルでも、誰でも老い、また母のように数十年後には必ず死を迎える。これには一切例外はない。只、普段そんなことはおくびも考えないで過ごしているだけだ。これは決して若者だけに限った話ではない。そんなことは普段考える必要もないとさえいう人もいる。いまが健康で、楽しければよいのだと。人生は大いに楽しまなければならない、が、同時に、人間は肉体を通して自我を表現している霊魂であることに気づかなければならないのだ。
私は街を歩きながら、100年後には今ここを歩いている人は全員例外なく、この地上から消えているなあと時々考えることがある。ひょっとしたら200年後にはこの風景さえもガラッと変わっているかもしれないと思うことがある。それが現実の姿なのだ。ということは、いかに不動のように見えるこの現象界でも、早送りDVDのように時間を早回しすると、本当に移ろいやすい一時の夢、幻の仮相の世界に生きているのだなあと思ってしまう。そうなると今、生きている自分の今生の目的とは、そしてほとんどの時間を費やしている今の仕事の意味、役割など、ついつい考えてしまい、遅々として進まない自分の成長ぶりを省みて、毎日わずかな時間でも疎かにできなくなってくる。

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(平成25年7月)

「真我」(2013.7.2)
“本当の自分”とは一体何だろう。意識している自分は“仮の自分”であって、“本当の自分”(真我)は潜在意識下に埋もれており、もっとはるかに大きな自分であるらしい。
我々にとって一番大切なことは、精神と肉体は道具であって、“本当の自分”、本体は霊魂であると悟ることだと、シルバーバーチはいっている。しかも、神の分霊で神とつながっているという。
永遠の霊的存在である“本当の自分”は、触れることも感じることもできない。これが“本当の自分”だと有限の言葉にして定義することももちろんできない。
しかし、“本当の自分”の心である霊性心、良心の声は誰でも心の耳で聞くことができる。
善の心、悪の心、その両方を持っているのが現象界で修行している我々、人間なのだ。
悪の心があるから私は弱い、ダメな人間だと決して思う必要はない。悪があるから善の大切さが理解できるのだ。暗闇があるから光にあこがれるのだ。悪の心と自覚すること自体が大切なのだ。
このように相対の世界であるこの現象界では、お互いに影響を受けながら、他人に迎合し振り回されて人生を生きている。いわば水平の世界だ。
霊魂である“本当の自分”を顕在意識に意識的に引き出すには、自分の内面の心の動きを分析し、自分自身を深く掘り下げることだ。自分自身の深奥の世界、いわば垂直の世界への探求だ。
常にもう一人の“本当の自分”の心、すなわち良心と意識的に対話し、それに沿って行動するように粘り強く努力すると、“本当の自分”(真我)と“普段の意識している自分”(仮我)が一体化、調和した状態になり、それが身体を通して具体的な行動となってくる。
このような状態になることを、“魂、精神、身体”が三位一体で、調和した状態というのだ。

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(平成25年6月)

私たちは例外なく目に見えない背後霊に支えられ、その影響を強く受けているといわれている。その意味で、“あなたは決して一人ではない”とシルバーバーチもいっている。
しかしながら、“五感の世界が全て”と思い込んでいる身には、また、頭では理解していても五感にどっぷりと漬かっている身には、自分自身の心が思考の全てであって、常に孤独感を感じて生活している。
そのため、“あなたは一人ではない”といわれても、概念あるいは、せいぜい単に影のようにそばにいる程度にしか思っていない。その証拠に、普段、背後霊を意識した生活を決してしてはいない。
しかしここでいう“一人ではない”とは、はたしてその程度のものだろうか。
シルバーバーチや「魂との対話」の著者は、各自の背後霊は具体的にインスピレーションを吹き込み、知恵をさずけ、励まし、鼓舞し、常に導いていると述べている。もちろん最終的にどちらの道を選択するかは、我々自身の自由意志にまかされている。だからこそ、そのカルマは自ら引き受けなければならないのだ。例えばエデンの園のアダムとイブのように、リンゴを食べるか食べないかは本人の問題で、蛇やイブにそそのかされたからと自己弁護を図っても無駄なのだ。
今回強調したいことは、われわれ自身が考えているよりも、無意識にはるかに背後霊の影響を強く受けているということなのだ。但し、死んだら全ては無に帰すと考えていては、この背後霊の影響に注意を向けようがなく、従ってインスピレーションや導きに気づきようもない。偶然が重なったような出来事や、良心の声のように耳元で囁くような声は、誰でも皆経験しているのだが、我の本体は霊であるという自覚がないため常にこれらは無視され続けている。
ならば守護霊に呼びかけてみようではないか。守護霊を意識しさえすれば良いのだ。また、困った時には道を差し示してもらおうではないか。そして、その示された道を踏み出すかどうかは、それを霊界からの導き、サインと気づき、判断するかどうかにかかっている。
“苦難をとおして魂は成長する”といわれるので、茨の道は誰にでもある。そして、守護霊は茨の道を一緒に歩み、克服するための強力な助太刀なのだ。なかには共に霊的成長をしている背後霊もいるそうだ。
“一人ではない”ということは、我々が考えている以上にもっともっと現実的で、視野の広い霊界からの真の強力なパワーがそばにあり、意識的に利用されるのを待っているという意味なのだ。
対価なく、例外なく誰にでも無条件に与えられる宇宙最大の霊的エネルギー、これを恵みと言わずして何と言おうか。

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(平成25年5月)

永遠・不滅の存在である神の分霊が、個別の表現を求めて肉体をもってこの物質界に現れてきたのが私たちで、その目的は現象界でのさまざまな体験をとおして霊的に成長をすることにあるという。しかし、我々は誕生と同時に波動の低い鈍重な肉体でそのことは潜在意識下にかくされるために、肉体と心が自分の全てで死んだら終りだと思い込んでいる。
よくいわれるカルマ、業とは、「原因と結果」の法則、すなわち善因善果、悪因悪果という因果律からきている。その因果律は神の公正として数学的、機械的正確さで働いていて、誰一人決してそれから逃れることはできない。
しかし、頭では理解しているつもりでも、結果が直ぐに出るとは限らず、次の世界でその結果を刈り取ることもあるので、普段そのことを真剣に自覚、意識して行動してはいない。
また、人生の目的である霊的成長は、一回限りの人生ではたかがしれており、何回も再生を繰り返してきているという。しかし、同じパーソナリティー、小我として再生するのではなく、大きな自分、大我の別の一面が再生するので、本当の自分としては再生があるといえるし、自我のパーソナリティーとしては、再生はない、ともいえるので話はややこしくなってくる。
以上纏めると、本当の自分とは五感では感じられない霊魂であり、霊的成長のために何度か物質界に出てきて再生を繰り返している。宇宙の法則である“自分の播いた種は自分で刈り取る”という因果律は、我々の霊的成長を促すためにあり、これは神の愛がその法則の背景にあるのだ。
これらのことが理解できていないと、本当のところは“生きている”とは言えないとシルバーバーチが述べているように、我々は人生の“真の目的”が理解できず、“ああでもない、こうでもない”と毎日現象界に振り回されて右往左往しているのが実情だ。
この理解が本当に自分の信念となったなら、全てにわたって180度、発想の大転換がおこるだろう。が、しかしこの鈍重な物質現象界では、引いては戻す波の繰り返しのように、この自覚はなかなか一気にはいかないものだ。しかし、あきらめずに努力すれば、ふと気づけば大潮になっているのだ。

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(平成25年4月)

同じ二章“苦”の中に、「その摂理に則って生きれば内にも外にも調和と安らぎが得られます。逆らって生きれば内にも外にも不和と混沌が生じます。あなたがた人間は霊的存在です。
これは、誰もがいつの日か直面することになる厳粛な事実です。が、いつの日かではなく今すぐに認めて、これから先の何十年ものムダな困難を省いた方がどれだけ賢明でしょうか。」と書かれてある。
霊的に無知で、地上世界が影の世界だとの認識がなく、これが実在であると思いこんでいると、永遠の視点から全体を観るということができなくなる。
“地上にいるかぎりは相変わらず霊的なバイブレーションよりは物的なバイブレーションの方が感応しやすいものです”、とシルバーバーチも言っているので正直ホッとするが、“物的な世界がすべて”からくる苦痛と涙、流血と悲劇の体験を通じて悟らされるか、他方で永遠不変の神の摂理のなかで悟ることができれば、安らぎと調和が得られるという。

これが事実なら宇宙の法則、摂理の中で悟る方が良いに決まっている。まずはどちらが本当か自ら試して、少しずつでも日々の経験を積んで自ら確認することが、強固な信念化につながるのだろう。

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(平成25年3月)
 シルバーバーチがいうように、悩み、心配、恐怖などのいかなる問題も地上的なもの、物的なもの、といわれればそのとおりであろう。人々が生命を賭して求めてやまないお金、権力、肩書、健康、セックスなど、世間的な心、身体という道具に関わることばかりだ。
 霊訓を読んでいる時には理解したつもりでも、五感の世界にどっぷりとつかっている毎日では、もう一つの世界との関わり、帰るべき故郷のことをすっかりと忘れている自分がいる。
特に、人口の多い東京、大阪のような大都会では、その他大勢の大衆の中に埋もれてしまわずに、世間に少しでも自分の存在を認めさせ、他人の上にたち支配しようと思えば、人より秀でなければならず、どうしてもお金、権力や肩書が必要とついつい思ってしまう。
 恐れは内側の虚しい場所をパワーで満たそうとして、外側にそれを求めようとするのだ。そのために、そのことが一生をかけた努力目標となる。それがいつの間にか人生の目的になってしまうのだ。
多くの人にとって、人生の目的が霊的成長にあることなど、霊魂自体を意識していない中では、全く意味のない、たわごとにしか思えないのではないだろうか。だからこそ、人生に自信を失ったら羅針盤のない、流れに身を任せたさまよい船のようになってしまうのだ。
 しかしながら、五感という感覚・感情のメガネをはずして、もう一つの心の目でよ~く振り返ってみると、自分を取り巻くこの物質界の全ての現象は、自分自身の霊的成長のためにあるのだ、ということに気づかされる。心と身体はそのための用具なのだ。

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(平成25年2月)

JR大阪で乗り降りしているが、人身事故が毎日のように発生していてダイヤが乱れている。また、近隣の尼崎では親族一家多数が保険金目当てで身内に監禁殺害され、取引先のある近くの高校では教師の体罰で高校生が自殺し、学校ではいじめも過激になって来ているようだ。
先日、米国では銃の乱射で学生20数名が射殺されたと報じられていたが、シリアは言うに及ばず、アルジェリアではイスラム過激派のテロ行為で10名の日本人を含む多数の外国人が殺害された。テレビのニュースを見るのが本当につらくなり、最近は見なくなった。
次回のテーマ“質問に答える”にでてくる霊訓からの抜粋の上記シルバーバーチの言葉を、日常生活で果たして意識しているだろうか。現実生活にもどると、霊訓の話はまるでフィクションの別世界のように、知らず知らずの内に頭のスイッチを切り替えていないだろうか。
生命とは、本当の自分とは、地上に生を受けた意味、が今真剣に問われていると思う。

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(平成25年1月)

今日は正月の2日である。久しぶりに一日中自宅に居たが、先週はデリーに仕事で1週間程行っていた。
インドは世界の宗教のるつぼで、インドのガイドブックによると、バラモン教はBC1200年以上も前にインドに侵入してきたアーリア人により成立したインド最古の聖典「ウェーダ」を起源とする多神教である。異邦人が土着民を支配するために僧を頂点とする階級社会をつくったそうだ。
BC500年ごろにはバラモン教の階級制度を否定するジャイナ教や仏教が発生した。
さらにこのバラモン教をベースに、これらの土着信仰をとりこんでAD400年ごろに発展してきたのがヒンズ-教であり、特定の開祖をもたない。
そしてAC1200年ごろ北から侵入してきたイスラム勢力が徐々に力をもってイスラム教が入り、AC1500年ごろ強大なムガール王朝が登場しイスラム支配になると、それに反発抵抗するヒンズー教徒がシク教(男性はターバンを巻いている)をつくり、同時期にキリスト教も英国のインド進出とともに広がった。ナザレのイエスも青年時代インド、エジプトで修業したとの話まであるところをみると、インドはまさに世界の宗教の“るつぼ”、いやルーツといえるのだ。
ついでに、ヨーガ(ヨガ)についてもインターネットで検索してみると、紀元前2500年ごろのインダス文明(インドの西部にある都市遺跡モヘンジョ・ダロ)のころからあったようだ。そして紀元前350年ごろに成立した「ウパニシャッド」(約200以上ある書物の総称で、古ウパニシャッドはバラモンの教典ウェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタともいわれる。) に、最古のヨーガの説明が書かれてあるそうだ。2世紀-4世紀ごろ、サーンキヤ学派の形而上学を理論的な基礎として、その実践方法がパタンジャリによって『ヨーガ・スートラ』としてまとめられ、“解脱”への実践方法として体系づけられた。

 

ヨーガとは心素の働きを止滅することである (『ヨーガ・スートラ』1-2)、
その時、純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる (『ヨーガ・スートラ』1-3)(『魂の科学』参照)

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(平成24年12月)

“汝自身を知れ”といわれるように、“本当の自分”(真の我)を知ることが、人生でもっとも大切といわれている。本当の自分自身が分からなければ、取り越し苦労、不安、恐怖の世界に容易にはまり込んでしまう。ちょうど羅針盤のない船のようだ。
“あなたと私”という分離意識を持っている今の意識している自分は、自我、小我、仮我、偽我、現象我とか、いろいろないわれ方をしているが、どうもこれは大我というはるかに大きな“本当の自分”のごくごく一部であるようだ。
但し、ここでいう“本当の自分”を知るとは、そのような意味ではなく、真我が神我であることを直知することにあるようだ。

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